菊地成孔さん のコメント
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小鳥国での振る舞いによって、若いミュージシャンを数多く苦しめたな。と思う。今日も優秀な若いミュージシャンが、まるで嘔吐したくとも出来ない状態の如き面持ちで、必死に訴えかけたきた(これで直訴は六人目。全員が40代以下の音楽家)。
自分を信頼してくれる友人を苦しめたと思うと心が痛む。彼らは往々にして、僕を面前で非難しようとするがすぐにはできず、 Twitter に関してアディクトではなく、健康的に使用している自認があると同時に、一部の小鳥国民の熱狂を心苦しく思っている。
そうでなくともアンビバレンスベースなのに、友人がそれに輪を掛ける醜態を晒せば、嘔吐は更に難しかろう。「あのう、、、、全部読んだ上で、、、、言わせていただきますが、、、、、あのう、、、、、菊地さんのおっしゃる事は言い訳に見えてしまう側面があるし、、、、、あと、 Twitter 使用者を全員同等に見ないで欲しかったです。世代も関係ないと思います」「同等視してないけどね。エクスキューズが足りなかったかな」「いや、してない、してないのはわかるんですが、、、、、若い世代は、、、、あ、いや、僕の方で世代は関係ないと言いながら、世代で切りますけど、、、、あの、、、、、」
<こんにちは>
↑ こんにちは。
<菊地さんの小鳥国での振る舞いが若いミュージシャンを苦しめたのが何故なのか、個々で理由は異なるとは思いますが、複数の方が苦しむということには、何かしらの構造的な要因があるのではないかと思いました。>
↑ そうですね。既に言ってきた人物が「30代いっぱいまで / 音楽家 / 僕と面前で会う機会がある」というフィルタリングがかかっているので、構造的な類似性はあると判断して良いと思います。
<私がここ10年ほどTwitterを見てきて思ったのは、Twitterを使用しているミュージシャンや文学関係者の非常に多くの方々がネトリベ化してしまっているのには特徴的な構造があるのではないかということでした。つまり、彼らがTwitterでやっていたのは、年長の方が自ら発言するだけでなく、リベラル思想家・活動家のツイートをリツイート、ファボするなどして、曖昧な意思表示の形でリベラルであることを表明しつつ、その曖昧な雰囲気を若年層にも共有させる磁場を作り、それが年長者を喜ばせる、という構造の反復なのだと思います。私は30代後半で、私の音楽好きな知人たちも同様に、毎日のように他人の発言を引用しながら反安部、反トランプ的な意思を表明していたので、私は彼らにリアルで会う気を無くしてしまっていました。>
↑「ファボ」の意味がわからないのですが(お恥ずかしい笑)、仰らんとする事はわかります。彼らは概ね、「自分はTwitterの悪質なジャンキーではなく、有効かつ適切に使用している」ということを第一に言いたがりました。その返す刀で「Twitterをしている層を若年だとか中年だとか年齢層で切って欲しくない」とも付け加えながら、結局「若い人はTwitterでおかしくなっている。が、自分はもう若くはなく、若年層のようにアディクトしていない」と、自分の第二発言に矛盾を認めながら、第一発言を強化しようとします。
コレは、僕はここ数十年間、指摘し続けている、ドラッグの暗喩で概ね解決する問題系だと思います。もう消してしまいましたが、僕はTwitterでTwitterがドラッグであり、ドラッグ自体は全く構わないが、ドラッグには穏健で健康的なユーザーレヴェル、病的で、本来の自分を失いがちなアディクトレヴェル、他者に危害を加え、自分も滅ぼしてしまうかねないジャンキーレヴェルがある。としました。
ユーザーレヴェルの者は、智慧も、ドラッグに溺れない体質も、他者に危害を加えていけないという倫理も備えているわけですが、同じドラッグによってアディクトやジャンキーが出ている事を熟知しており、反面教師として身の回りにジャンキーもいるわけで、つまり、いかな自分が穏健なユーザーだとしても、若干の後ろ暗さがあるわけです。
コレが、法規制されているドラッグだった場合、「後ろ暗さ」は非常に強くなります。Twitterの最大の問題は「規制がない=合法である事」だと僕は思っています。合法だと、インフラだと思い込みやすいです。インフラがアディクトやジャンキーを生む。というのは、言わば、水道水によってジャンキーが出るわけですから、違法なドラッグと「後ろ暗さの意識」が若干ツイストしていると思います。
その発露が、リベラル(の利用)だと思っています。大麻にも覚醒剤にもジャンキー・リベラリズムが発生します。曰く「大麻は創造性を豊かにし、人々が平和に穏やかになり、場合によっては神に近づく」、曰く覚醒剤使用者は「仕事の能率が上がり、創造性も上がる」と言ったような。コレはリベラリズムの本意である「不当な抑圧に対する解放」を超えた、「対象も待遇もない正義」といった物だと思います。Twitterの構造自体を「あらゆる人々が自分を発信 / 表現できる。そして<今>を熟知できる」というのは、定着10年を超え、ドラッグリベラリズムだとしても、誰も振りかざせないものに堕ちたと思います。牧歌的な時代は終わり、Twitterの構造それ自体ではなく、Twitterによる文言、主旨によって「正義」を生み出さないといけない。その結果が、安倍やトランプを生贄にしたネトリベの誕生ではないかと思います。
僕はTwitter使用者ではないので、そうした動きがあることも、風の噂程度でしか知りませんでしたし、彼らとは直接会えば
入力文通コミュニュケーションではない、莫大な非限定的な対話が行えると思っており、直接話す事に抵抗はありませんでした(もちろん、直接対話にもリスクがあるのは承知の上ですが、それでも尚)。
<実際に会った時に、その思いを隠しながら話すことしかできませんでした。それは私に勇気が無いのもありますが、リツイートやファボというのは、あくまでも他人の発言について何かしらの興味があるという意思表示でしかない、という部分も大きかったと思います。いい大人が揃いも揃って影で先生にチクっているのを見ているようで、彼らに反感を抱いていることに気付きました。今回多くの方々からTwitterをやめることができたとのメールが来たとのことですが、私も、まぁいいか、という気持ちになりつつあるので、今回菊地さんが動かれたのを見ていて、その方々と近い経験をしたのかもしれません>
↑ 密告や陰口、表向きの体裁と心中が異なる。という事自体は、3次元でも昔からありましたが、Twitterはそのことを可視化するので、まだ人類には抵抗感は抜けないと思います。Twitterは可視化のやりすぎで、相互監視のやりすぎで、とにかくやりすぎのメディアなのに違法性がないので厄介ですよね。北風と太陽ではありませんが、人と人を結びつけるとして、急進的に結びつけ過ぎた場合、結果は「人と結びつくのは嫌だ」という心理を発生させるだけです。
また、僕が表現したかった事は「自分を信じていれば、アウェイに赴く事は特別な勇気を必要としない」という事でしたが、そこは伝わりずらかったかもしれません。インフラだと思っている人々に「僕も電気を使ってみた」と伝えるのは難しい。
<Twitterのリツイートやファボ等々の機能によって発言の責任を曖昧にしながら主に権威があると目される年長者が率先して意思を表明していき、そのツイートに多くの賛同者がいるという事実によって権威が形成されていくスタイルは、今回のラジオデイズでおっしゃっていた、原理的にSNS使用者は20世紀的な批評家にならざるを得ず、何かについて他人より多くを知っていることに価値があるとする構造と親和的だと思います。>
↑ そうですね。僕はSNS以前に、インターネット自体が、知性も氏育ちも年齢も性別も超えてフラットに対話できる場(アヴァターのコミューン)であるならば、大いなる可能性を感じます(そこにはそこのリスクがありますが)。僕の世代は、インターネットの創世記から知っているので、多くの有識者も同じ夢を抱いたと思います。
ですが、ああしたスーパーフラットなコミューンの中で、知名度や記名 / 無記名といった反アヴァターな要素が入ったら、もう龍の腹の中に一直線だと思います。「名無し」によって傷つけられたり興奮したりした人類は、「署名や紹介制があれば、荒れる事はない」という愚かな夢を抱き、その愚かさは「気の強い女性と結婚したら結婚生活が破綻したので、次は気の弱い女性と結婚すれば上手く行く」という程度だと思います。僕は(当時誰もが、「荒れない」と夢を見た)創世記のミクシィも創世記のTwitterに対しても、「やがては絶対荒れる」に掛け金を全部置き、「菊地さん、、、、それは極論では、、、、」インタビュアーを困惑させたりしましたが、彼らにはタイムマシンに乗って欲しいです。
そしてSNS使用者が、特にライセンスも鍛錬も必要としない最高位である「批評」というマチズモに流れつくであろうこともわかっていました。そもそもインターネット前の批評家自体が、創作家には忌み嫌われていましたが、僕もミューマガに思いっきり吹っ掛けましたが笑、それでも彼らにはいつでも会いにゆけますし、彼らは彼らで、信念と美意識を持ってやっていることもわかっています。「匿名批評家」の<増産>を超えた、繁殖のような事態、そこから生まれる構造的な息苦しさやストレスをどうするかは、今後の使用者たちにかかっていると思いますが、僕はインターネット→SNSが、一面的に悪質なドラッグであるとも思ってはいません。リスクがあるものには必ずリターンもあるので。
<菊地さんのお知り合いの若いミュージシャンの方々からの、菊地さんへのアンビバレントな感情そのものについて何かを言いたいわけではもちろん無いのですが、日記の文面からして、やはり彼らもトランプを支持するのは間違い、という価値を共有しているのかと読めました。>
↑ これは単に具体的な話ですが、彼らは今の所、前述の直訴はすれども、僕が合衆国のトランピーとは(そんなの当たり前ですが笑)違う。ということも事前に知っておりますし、何せアンチトランプの熱狂も一息ついているので、僕に「僕はトランプは不支持です」とまでは言いませんでした。ただ、推測するにやはり、Twitterリベラルインターナショナルの意識外には、出切っていないと思います。
<年長者が超自我の形成に影響を与えるのは言うまでもないことですが、知性のある彼らが、Twitter上の20世紀的な批評家たらざるを得ない年長者のズルい意思表示の影響を受けているとしたら、今回、年長者の菊地さんがそれとは全く異なる形で、それこそ、トランプと同じようにリアルで直接決闘するような形で彼らと会われていることに、とても勇気づけられます。>
↑ 僕がリアルで対面し、対話したのは、彼らと共演したり、飲食に行ったりする機会があるから、以上でも以下でもありませんが、とにかく「オレと会った時に一言いわずにはいられなくなるだろう」という大きさと形の石は置いたつもりです笑。その結果、みんななかなか吐けずに苦しみましたが笑。
<普段SNSをご覧にならないとおっしゃる菊地さんは、Twitterの責任回避的な権威形成の磁場の中に彼らがいることをリアルの場でも感じとっておられたのか、そんなことは気にせずに話されたのか、気になりました>
↑ 音楽を愛するものは、音楽を通じて平等になれますし、僕との対話者は最初に申し上げた通り、フィルタリングの結果、音楽家だけです。ですので、音楽家として交友がある限り、普段、彼らがどういう意識でTwitterをしているのかは、僕は全く知りませんでした。ツイートよりも演奏のが遥かに雄弁です(演奏には合理化や概念優先の発音は不可能なので)。ですので、僕は演奏を通じて、彼らを理解していました。彼らの演奏は、ツイッターの使用によって影響は出ません。彼らは、あの件によって、「ツイッター使用者」としてのアイデンティティ(それは、自己弁護と、アンビバレンスに苦混ざるを得ない。という形で一貫していましたが)を僕の前で発露した形になりましたが、話せば話すほど(吐けば吐くほど)「そんな事はどうでも良いじゃないか」という相互的な合意に達しました。
<初めてコメントしましたが、今後もご活躍をめっちゃ楽しみにしております。>
↑ 緊事宣も延長され、コロナ特措法もフィクスされそうな勢いなので、音楽家は頑張ろうにも頑張りどころを失って、おかしな状態になってしまいがちですが、僕は博徒として、逃げ場をたくさん持っているので笑、字義に忠実に、活躍しようと思います笑。ありがとうございました。
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