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santafede33さん のコメント

ベッドで寝転がりながらラジオデイズを聞いていると、妻がやって来ました。

Otra vez ta escuchando la misma, ke? Ke? nombre.(ねえ、あんたまた同じの聞いてんの?なんだっけ、名前)

Camate porfa amorcito, ahora ta buen.(ちょ、静かにして、今良いとこなんだ)

Kikuchini naruyo(キクチニ、ナルヨだ)

No, no puede ser, digo no va a ser el. Kikuchini naranaiyo. (……いやいや、ならないよ。キクチニナラナイヨ)

前回と今回、ラジオデイズ白眉でした。
台詞が全てではありませんが、台詞が世界の仕組みの一端を示すことが出来る、そんなことを思いました。会話ではない、台詞のやり取りに、いかようにも発生してくるドラマの生々しい姿がありました。

当国のシネテカに愛されているホンサンス、最新作までほぼ全ての作品を上映しております。ため息が出るような出来の各作品、驚くべきは、毎回毎回、自作を更新していっているという化け物感。
番組中に出されたシーン、ホンサンスの映画済みであれば、どんなカメラ位置なのか想像に容易く。あのズームワークも。ペン大の授業中のやり取り、私はどんな教室なのか知りませんが、一度ズームインしてから、ズームアウトしました。コンビニからパンを買って出たところでも、一度、ズームインしました。キクチニナルヨがパンを囓ってました。

ホンサンスはインストールできる。小津もインストールできる。漱石も。

それを、当地のファベーラで、娘の結婚の話を撮る。相手は、胃弱の教師。

いかにナルコを抜くのか。あの強烈な、ドラマツルギーの権化のような存在を。それは平行世界としての、暴力の存在しない、南の合衆国。平和ボケしたラテンアメリカは可能なのか。

68年の当地のオリンピックは、様々な理由により、10月に開催され、その一週間ほど前に学生や運動に参加した人々が集合住宅の広場に集まり、沢山、殺されました。悪い奴らがいます。今後の何かの参考になれば幸いです。
市川崑の撮った東京オリンピックが何かを映したように、Isaacの撮った68年のオリンピック映像にも何かが映り込んでいます。

あれから半世紀が過ぎました。菊地さんが老境に向うことに、未だに強い驚きと深い納得を感じています。私は、まだのようです。まだまだのようです。
No.17
43ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 こんなにライブが飛んでいるのに何故こんなに小忙しいのであろうか。毎日「あれをしなきゃ、これをしなきゃ」と思っている間に、田村正和がなくなったり、星野源が結婚している。田村正和については「ユングのサウンドトラック」に、星野源については「次の東京オリンピック」に書いてあるが、推測するに、今エゴサをしたら、星野源についてはあの記事が出てくるだろうが、田村正和については出てこないだろう。ネットに連載していなかったからである。今はネットに書いたことだけが発言になる。書籍は何のためにあるのか、自己沈潜の最初のツールである書籍は、きっと近い将来、古文書のようになり、ある特殊な趣味と教養を持った人々の物になるだろう。ルアーフィッシングのように。    「喫煙可能(できれば全席)の喫茶店を探すのが趣味みたいになっている。今は神保町の喫茶店にいるが、アールグレイのアイスが無茶苦茶にうまい。一番美味いかもしれない。あまりの美味さにストローを使わないで飲んでいる。  
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