菊地成孔さん のコメント
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おっさんが脚を引きずりながらせっせと仕事をしている哀感と言ったら。せめて「マルサの女」の山崎努のように、ダンディでスタイリッシュに。無理無理無理。
葬式なので、黒の革靴を履いて立っていたら、全身が筋肉痛になってしまいそうだった。ダンディなのは故人に決まっているじゃないか。僕が知る、日本一の伊達男。
最初の弔辞が始まった。「もしこう呼ぶ事が許されるなら<先輩>と呼ばせてください」といって、見事な弔辞が始まり、見事に終わった。しかし、驚かされたのは、テキストの完成度ではない。あの大蓮實が、あの有名な、低く冷静な蓮實ヴォイスではなく、少し高めの、透明で子供のような音色を発し続けたことだ。列は長く、元老の姿は遥か先で見えない。本人も気がついていないだろう。それが意図せず、軍国少年の覇気に似ていたことに。
ニューオーリンズジャズが葬列用の音楽であり、往路は悲しく、復路は陽気で楽しいものであることを知らぬ人は少ないだろう。しかし、荘厳とさえ言えるほどの寺院で、読経の代わりにニューオーリンズジャズの生バンドの演奏で故人を送りましょう。そんな気障な事が許され、しかも完璧に決まるのは故人しかいない。瀬川先生、先生が生涯憂慮なさっていた、日本の再軍国化が完成する前に逝かれて、僕は、ほんのちょっとだけ、安堵しています。
というか、瀬川先生よりも三谷晴美(生まれ年の話をするので)のが2つ年上です。大正11年と13年ですね。この間の大正12年に何があったといえば、関東大震災です。
ですが、三谷晴美は徳島県生まれで(確か、ですが、実家が仏具屋だったはずです)、震災は経験していませんが、瀬川先生は東京ですから、震災で焼け野原になった東京が、物凄いスピードで復興してゆく中で生まれました。
のちに先生は学徒出陣で海軍に入営しますが、先生の青春期は、日本が軍国主義化してゆく過程そのもので、それは少年時代から愛好していたジャズ文化が、どんどん禁圧される過程でもありました。先生は、禁圧化、自室でこっそり、収集していたジャズレコードを聴きまくっていました。
瀬戸内晴美(この当時は瀬戸内生になっていたはずなので)は戦時中に結婚し、夫の勤務先である北京に移り、北京で出産しています。
ここに、遊び人文化のど真ん中に足場を置き、障害それが揺るがなかった先生と、戦時中も愛とその苦悩に行きた瀬戸内寂聴の違いがあります。関東大震災と、太平洋戦争による東京大空襲を経験したかどうか、何を人生の主眼としていたか。
因みに、日記中、瀬戸内寂聴が喫煙しているように書いてしまいましたが、実際は、「酒と肉」ですね笑、何れにせよ、結局ストレスが人の寿命を決めているとしたら、瀬川先生にあやかりたいですね笑。
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