菊地成孔さん のコメント
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この日記の読者の方々なら、僕が元日から、「今年はヤバい年になりそうな胸騒ぎがする」と書き続けていていたのをご記憶されているだろうが、もう前半を終えた段階で、「もう流石に予兆は良いよ笑」と思うほどの状態になった。一気にドカンとくるのではなく、じわじわ来ているし、後述するが、民は抑圧的というより、解離的な傾向を見せているように思う。
<それはともかく&それでもやはり、なんとなく2022年はおかしい、結構ゾクゾクする年明けである。旧正月が終わればその正体も明けてくるだろうが、何か途轍もない事態への前兆としか思えない現象が2つも続いた>
↑ コレが確か1月かそこらだ。僕は「ラディカルな意志のスタイルズ」のデビューライブを、直感的な判断で、2回に分けた。1回に集中して DCPRG の時みたいになったら、流石にこの歳ではきついなあ(そこで生じる現実。ではなく、又してもバンドのデビューに引き込みを持ってしまったという「関連づけ」の重さに)。と思ったのだが、そもそもデビュー自体に黄信号が灯ってしまった。
今月3週目からサックスを吹いてみて、歯への直接圧の測定と、まずは30分連続で吹いた状態を CT スキャニングして再生中の歯茎の損傷度を見る。という流れになった。
「黄信号」といっても、交通信号のそれに於いては、黄色は赤に向かうしかないが、ここでの黄信号は、青に向かう可能性も持った、文字通り両義的なものだ。サックスは「全然吹けますねコレは」という可能性と「やはり、本番もやめて下さい」という二つの可能性を持ったままだ。前者の場合は、何事もなかったように吹くし、後者の場合は、少なくともスタイルズでは緊急のオーディションを開いて、若くて時間と才能が有り余っているサックス奏者を見つけ、来年7月までは臨時加入させるしかない(「中の人がメルロー」はものすごく面白いが笑、流石にメルローに失礼だし、彼は忙しいので現実的に無理だと思う)。僕はパーカッションと SE 用のサンプラーだけになる。あ、なんか、それが一番良いような気がしてきた笑。
僕が安倍晋三氏の射殺事件に関して、一番強く感受性にのしかかってきたのは、他のあらゆるトピックを差し置いて、「国民が解離的になっている」ということだ。
ご存知だと思いますが、自称ベトナム帰還兵トラヴィスの正義の行動(大統領候補を射殺)はSPに阻まれ、成功しません。というか、トラヴィスの狂気の中に包摂された「止まらない正義と怒り」は、対象を選ばないので、売春宿のピンプたちに炸裂するわけですが、僕はこの作品をかなり重要だし好きでもあるのだけれども、少女買春をしているジョディフォスターを更生させ、親から感謝の手紙が来る。というオチはスコセッシの要らぬ優しさだと思っています。
それは兎も角、この映画に衝撃を受け、「個人的な狂気に包摂された、理不尽な正義感や怨念の誤爆」を描こうと、日本もあがきました。しかし、日本には改造銃(トラヴィスの拳銃自体はそこらで売っているものですが、それを仕込む装置は手製で、肉体も犯行用に改造されてゆきます)のカルチャーはありませんでしたし、PTSD持ちの帰還兵なんていませんでしたし、少女買春が社会的な問題になってもいませんでしたので、模倣は難しかったです。
僕は、SNSの中の正義感と怨念はトラヴィスの脳内と同じと思っていますし、死刑にして欲しくてスプリーキラーになる、と言ったある意味で甘えたメンタリティは日本社会に充満しているけれども、要人の殺害にまで至るのは、特に、ある季節的な祝祭的高揚の中で、安倍晋三が標的になっていたのはうっすら知っていたけれども、現役首相には実行は出来まい、と思っていて、実際に任期中に安倍晋三首相は襲撃もありませんでしたが、ほんのちょっとのタイミングの違いで、今回の事件になりました。
では、奈良のトラヴィスは成功させたの?と問われれば、わかりません。安倍晋三氏は亡くなりましたが、トラヴィスに訪れる挫折も成功も、トラヴィスにはコントロールできないからです。「タクシードライバー」が優れているのは、エンディングのヒューマニズムという濁点を含めてもなお、トラヴィスの個人的な狂気に包摂された正義感は、能動的には何も達成されることはない。ということを描いている点です。
76年の作品で、ニューヨークが浄化される前の、一番ひどい時期を描いています。そして46年後の日本は、どこがあの時のニューヨークに、どこが今のニューヨークに、といった区分なく、タクシードライバー型の事件が起こるまでに、何かが悪化、というか、汚化したわけですが、僕はそれがSNSだとしか思えません。SNSの恐ろしいところは、有効性や善用の側面がある点です。部分的な法整備も出ているとは思いますが、焼け石に水で、今回の事件も、SNSによってトラヴィスが生まれた。という観点で語ることは受け入れられづらいと思います。僕個人が受け入れられなかったり、解離されたりするのは一向に構いません。ただ、この事件の解釈が、何か変なことに利用されるように肥大しないことを祈るばかりです。それが故人を悼む、最大の誠意だと僕は思っています。
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