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菊地成孔さん のコメント

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菊地成孔
>>2

 いや、あのね、結果として、もうラメールの伊勢海老、アワビのフレンチは旨いけれども、キャンプなんですよ笑。東京の方がうまいです。もう、何もかも。改めてそれを知った、ちょっとビタ〜スイートな旅でしたね。
No.7
17ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
「生まれて初めてづくしの旅の話(1)」       「志摩観光ホテル ザ・クラシック」は、僕が生まれて初めてワイン、厳密には白ワインを飲んだ場所で、尚且つ、美味すぎて飲みすぎ、さすがに自室に戻ってからだが、ゲロを吐いたホテルである。それは1977年のことだ。    「酒を飲みすぎてゲロを吐く」という行為は、日本では法律的にも倫理的にも強くは禁じられていない。なので、これを読んでいるどなたにとっても、見知った光景であろう。そして、概ね「嫌いな(軽く目を背けたくなるような)光景」ではないかと想像する。    今更こんな場所(有料会員制のテキスト&動画チャンネル)で、僕の幼少期の話をするのも、いかに年寄りとはいえ、繰り言が過ぎるという誹りを受けてもおかしくない。僕はヤクザか漁師のゲロから逃げ、ゲロを浴び、かなりの暴力を目の当たりにし(それには「店内」と「店外」という違いがあり、多くの格闘技ファンや、喧嘩にまつわるファンタジーに淫する人々が考えるような、大きな差があった。ウチは春夏秋冬にかかわらず入口を開けていたーー閉めると漁師が暑くて裸体になってしまうのでーーので、いわゆる「路上」と「屋内」は地続きであり、閉鎖的か、開放的か、ぐらいの空間感覚の違いでしかなかったが、そこで使用される、特にヤクザのムーヴには、全く別の競技スキルが存在した)、血液や体(主に顔面)の切片、折れた歯、を始末し、ゲロと血液を掃除して幼少期を過ごした。この時間だけが、僕と実の母の、毎夜の交情の時間だった。    彼女は強く強く、何事かを隠していた。隠しながら、ニコニコしていた。僕と実母は、濡れた雑巾をひと組のワイパーのように動かしながら、その日の終わりの会話を楽しんだ。「お母ちゃん、また歯があったよ。これ、前歯だね」「(ニコニコしながら)奥歯が多いのに、珍しいなナル坊笑」「根っ子がついてる」「おお、折れてねえのが。今日、山岸さんいだあ?」「いたよ」「じゃあ山岸さんが折ったでしょうよ。山岸さんはおっかねえがんな笑」「コーラの瓶でやってた笑」笑いながら母親が陶器の灰皿を差し出す。僕はおどけて、遠くから賽銭のように前歯を投げ、上手く入るとコリン、という音がした。「あら、また当たりだよ。腕上げだな、ナル坊笑」。    東京の人間である義姉と結婚した兄は、のちにワイキキにまでたどり着くが、最初期の親孝行旅行には、昭和の結婚式旅行のコースの定番を選んだ。両親ともに飛行機を怖がるだろうから。それは、京都、金沢を経て、ここ伊勢志摩に決まった。    ミキモトの真珠島、そして何よりお伊勢参りがあるこのコースは定番の一つだったが、(当時まだ)真珠にも、お伊勢参りにも興味がなかった僕が、地産地消の先駆だったリゾート開発事業の一環として、山海の珍味をフレンチのルセットに乗せて供するというのは、想像するだけでよだれが出た。ネットもグルメガイドブックもない時代に、僕は文字情報だけでギンギンに勃起していた。      のちにこうした職業に就く中坊の自意識過剰がどのようなものであるか、想像していただけたら幸いである。自分で選んだ VAN のスーツとシャツとネクタイで、リゾートホテルのグランフルコース(現在においても「志摩観光ホテル ザ・クラシック」のメインの食材が、伊勢海老、鮑、伊勢牛、の三種の神器であることは変わらない)のテーブルに着いた、夢のような気分。フォークとナイフは、対称性を持って各々6本づつ置かれていた(エビの細かい部分をせせりだす、二本鉤の手術用組たいなアレ。も生まれて初めて見た。銚子の人間は、甲殻類をあんなものを使って食べたりしない)。  
ビュロ菊だより
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