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自転車警察JPさん のコメント

 あけましておめでとうございます。いつも更新ありがとうございますm(_ _)m昨夜からニコニコのアプリを親指で何度も何度もお知らせの更新をチェックしたかわかりません。冒頭の「シン・年」を観た瞬間に拳を作り親指を立てスマホに見せてやりました笑
 コロナ禍以前に広尾の少し丘になって人が1人通れるかどうかという住宅街の路地を自転車で走っているとコック服を着た男性が深く頭をしばらく下げていました。スピードを落とし自転車のライトを頼りに男性を注意しつつ狭い小道を抜けると目の前に声こそ出していないものの口を大きく開け特徴的な黒縁眼鏡をかけた男性が驚いてこちらを振り返っていました。その横には、小さな女の子とお母さんがいたのでスピードをさらに下げて通ろうとするとお母さんが「すみませ〜ん」と声を私にかけられました。そんなありふれたコミュニケーションですが都内では珍しいのでとても良い印象が残っています。私も「いいえ〜」と少し声が上ずりながら坂を下って大通りに出る手前に先ほどの連れの方とおぼしき男性の背中が見えました。フレアの強いジーンズとヘンリーネックにありがちな生地の厚い白いTシャツから隆起した三角筋と広背筋が異様に発達しウエストはとても締まっていて、履いているパンツのフレアも相まって私は一瞬『ガンダム?』とさえ思いました。その男性は、金髪坊主なので百式(ガンダムの仲間)か?などと今では冷静に考えれば思います。
 先週の菊地さんの日記を読みHuluでR100観れないのかと親指を動かしましたがなかったです(T_T)私には、手付かずの山のように刑事コロンボが残っていますので個人的な観たいリストに載せました。殺人処方箋は、2回観て、つべで菊地さんと大谷さんがやっていた「XXX et XXX」の殺人処方箋と音楽殺人の無料版を観てもう一回殺人処方箋を観て、やっと第二話です。
 すみだジャズストリートフェスティバルにて鈴木勲さん、スガダイローさん、中村達也さんのステージのアンコールで、ジャズのジの字すら理解の乏しい私にも即興演奏の競技性の一端を垣間見る出来事がありました。それは、開始直後に鈴木勲さんとスガダイローさんが硬直状態に入りどっちが行くんだと互いに牽制しているような感じがありました。そこで蚊帳の外にいた中村達也さんが業を煮やしたように猛烈にドラムを叩き出し反応に遅れる二人の声が「あっヤベ」と聴こえてきたように感じました。菊地さんのおっしゃるスポーティと霊的な話しとは少しズレると思いますがモダンジャズの競技性、とりわけルールを理解し聞く事ができないものかと菊地さんのコンテンツを視聴すればするほど思いが日に日に強くなります。私は、現在小節と拍子が数えられません。例えばCircle/lineが7拍子だと教えてくれれば数えられますがクイズイントロドンみたいに聴かされた場合には頭真っ白です。4拍子にしても1小節で8回手を叩く可能性もあります。一朝一夕で身につくなら皆ジャズ屋やってるよなんて言われそうなものですがモダンジャズを聴く上での最低限のルールだけでもわかりたいです。何か良い方法はないでしょうか?
 菊地さんがサンダーボルトの音楽を手掛けたのを知ってスガダイローさんがガンダムの音楽が出来たらギャラなくてもやらせて欲しかったというエピソードが個人的に思い出されました。原作のサンダーボルトもいよいよクライマックス突入しました。結末もファーストガンダムのパラレルワールドらしい終わりに相応しくオマージュに終わるのかなとか思いは巡るわけですが、続編の制作ならびに菊地さんが前作同様に音楽を手掛けた際に主人公の二人が最後の決戦でスガダイローさんのピアノが聴けたらなんて妄想が膨らみます。神に祈るしかできないですが(T_T)
 風邪を拗らせないようにどうかお大事にして下さい。そういえば申告と懺悔をさせて下さい。年末の恵比寿バチカの目の前を三往復しました。お客さんがパンパン過ぎて怖気付きまだ生の菊地さんを観れていません。すみませんm(_ _)m次回のゲスト巡業があった際には、何があるかわからないのでOPENから行くようにします。
No.8
9ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
1月1日   シン・年 明けましておめでとうございます。   話は昨日に戻るが、大晦日は、概ね先週書いた通りになった。これは確か一昨年書いたことの二重売りになるが、スガダイローさんのプレイの素晴らしさは、勿論、弾く内容は言うまでもなく「どんな轟音の中でも、くっきり聴こえること」であり、昨年末もそうだった。   たった3人とはいえ、常に自分を含む3名のプレイは聞こえていないといけない。その時に、解像度が高い演奏ができる人は、端的にスポーティーなプレイに向いている。セシルテイラーとか、エリックドルフィーとか、タイプ的には、僕もそうだ。音数は当然、多音的になる(「鮮明に聞こえる」ので)。   「即興演奏」とか、「純即興」とか言うより、遥かに限定的に「フリージャズ」とすると、スポーティーであるか霊的であるかに大別される。後者のがなんか凄い、何せ霊だから。というようなシンプルな話では全くない。演奏はどんな姿をしていても演奏を超えない。単なるタイプの話だ。   スガさんと正反対なのが、つまり霊性が高いのが大友っちである。大友っちの演奏は融解性が高く、音塊として常に全帯域が鳴っているので、「鮮明に聴こえる」時間は、縞状に現れ、つまり共演者にとって来訪神のような霊性を持つ。   アルバートアイラーとか、晩年のポール・モーションに近い。轟音の中に置くと、溶けてしまう。環境に与するのである(この事を理論的に再構築したのが大友っちのお師匠さんである高柳昌之の「アイラーコンセプト」である。高柳は60を待たずして59で没した)。音数は当然、少音的(音数が。音量が。ではない)になる。   「いやいや、大友さんのロック的ギターの刻みは非常に鮮明ですよ」という人がいてもおかしくない。しかし、あれは実際、同じ打点が一個もないぐらい揺れているのだ(これは「うまい」とか「へた」を意味しない。根源的でアナログなグルーヴに満ち満ちて「環境的」なのである。打楽器を叩きながら一緒に演奏してみればすぐわかる)。揺れのない刻みは時間を生成するが、揺れのある刻みは環境=場を生成する(「 catch 22」は、というか DCPRG 自体を時間側の視点で語り続けて来たが、同時に「場」が形成されていたのは言うまでもないだろう)。   これはピアノという平均律内に閉じ込められた楽器か、ギター、サックス、ドラムという平均律の外に容易に出れる楽器か、の違いもあるが、鶏か卵のアレで、フロイドの言う「誘惑者」としての演奏行為として、その性質がそのプレイヤーの性質に現れている。端的にスガさんや僕やセシルは(服装が)お洒落であるのに対し、大友っちやアイラーはお洒落ではない。が、これ(お洒落でないこと)も誘惑行為である。お洒落がボキャブラリーであることは周知のことだ。   聴衆はスガさんが「(主に「次に」)何を言っているか」を聴いている。大友っちのボキャブラリーは少なく、しかし、ずっと同じようなことをしていても、もう、音色や佇まいで掴まれているので「何を言っているのかはわからないがシビレている」ような状態に最初から誘導されている。   いきなりとんでもない事を言い出すが、僕は、ピアニストとして、ドラムとベースに入ってもらい、ピアノトリオをやろうと思っている。幾つになったらやるだろうか?   などと夢想していたら、能登半島地震を知る。急いでクインテットのベースである小西さんにメールをすると、すぐ返事がきて、無事だとわかり胸を撫で下ろす。  
ビュロ菊だより
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