菊地成孔さん のコメント
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音源が出て本が出たので、大人しくしているのが昭和のマナーだと思う。次にステージに立つのは約1ヶ月後だし(ドミューン1回と DJ 2回ありますけどね「 DJ ブースはオレのステージだぜ」とか言いませんよ実質の中卒だけれども、そこまでバカじゃないんだから!)、今年は特に一息つく暇もなく(「あ、コロンボ本ですね!」という方がいてもおかしくない。というか、確かにメインそれなんだけれども)、あの企画この企画が水面下で進行しているので、むしろライブ演奏は大いなる愉しみなのであーる(「楽器の演奏を英語でプレイというので、元々演奏は遊びなのだ」とか言いませんよ実質中、以下同文)。
なので、音源が出回り、本が出回っている状態は、横目で見るっつうか、例えば書店に行って、「クチから出まかせ」の棚に行き、うおーついに出たかとか言っちゃって感無量になるとか、どんな人が買っているのだろう?と、本屋さんに箱男みたいなダ
>>7
内容が多岐に渡り、全てにお答えすることはできかねるのですが、端的に、実温度のことではなく比喩表現としての「HOT」と「COOL」(故ジェームス・チャンスは「あなたにとってCOOLってどういう事?」と問われ「みんな使いすぎの言葉」と答えました)は、いつ、どうしてそうで、そうであるとどういう意味なのか、ということが決まってくるわけですが、いずれにせよ、時制は強く、発生に近いまで現在です。
御説の通り、リンチや、ある時期のポランスキーに見られる冷たさの質は、遺体の温度感と無関係ではありません。現在は、熱い(=エモい)、温い(=中火)、冷たい(=クール)の三角形が、なんとなく漠然と現在に置かれていますが、ストロースの料理の三原則(生、加熱、腐食)も自制と分かち難く結びついていたように、現代は「冷飯(「冷やした飯」ではなく、放置されて温度を失った米飯)」のが好き。とか、のびたラーメンが好き。とか、火を消してからの鍋や焼き肉でないと食えない。といった、散見される価値観がもっと拡大すべきだと思います。
ゾンディはご指摘の通り、反復の追求者でもある、レオポルド・ゾンディのことです。ゾンディは反復を死への欲望と規定しました。「天使乃恥部」は、聴き手の聴取時間が円環を閉じるように設計されています。終結のない予兆の連続で、時間感覚の潰乱は、かなり設計的に実行されています。電化の効果についてはさまざまな評価がありますが、単なる表層的な類似としても、「ツインピークス」の赤い部屋(やたらとオクターバーが使われる)だという指摘が多く、それは表層の類似だとしても正しく、「伝わっている感」が、この20年で大幅に発育している実感があります。
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