田畑 佑樹さん のコメント
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「あのう、、、、今日は、、、、なんだっけ、、、、ええと、、、、君は、、、ああ、菊地か、、、、、そうそう、菊地くんな」
と山下がサラッと言った瞬間を、僕が聞き逃さなかった。母親もそうなったし、言っちゃあ、ピーター・フォークもそうなったんだって。山下は、前歯が抜けたままになっていて、それは恐るべきことに、まだ入れ歯じゃない、ということでもあるんだが、前歯が歯っ欠けのまま、というのは、何ちゅうか、終戦直後の子供のようである笑。
だから、まあ平然を保つわけだが、言っちゃあこっちもグラグラだ笑、すごくドキッとした、とかじゃない。「おお、来たか」と言う感じで受け止めて「はい、いつもの、あれですよ。いつもやってますよね。あれです今年も笑」というと、「ああ、あれね、はいはい。この曲はなんだっけ、コールポーターの。初めてやるねこれは」「もう10年以上やってますコレは笑」「あ、そうね、これは、イン
ところで先程、菊地さんがタワーレコードweb版に連載しておられた『CDは株券ではない』の過去ログ(20年前)を読み返していたところ、とある歌手を評して発せられた “歌を歌う、特に女性が、自意識を覚醒者、絶対者、降臨者、霊能者、後なんでもいいけど、そういう風に感じて疑わないことがどれほど罰当たりで危険なことか、ほとんどの人が知らないのではないか? キリスト教徒が、歌いながらマリアが見えたりジーザスが見える、仏教徒が歌いながらシッタルダを感じる。それならいい。ちゃんと伝統で保証された共有的なイメージがあるのだから。だけど、国教が無いに等しいこの国で、自分を、たかが歌手風情が〈絶対者〉〈救済者〉などと思いこんだ場合、それは自己イメージの形を取り、撞着的にならざるを得ないので、とんでもないことになる” という一文が目に留まりました。私はこの評言を初めて読んだときから、「ファンが(性別問わず)歌手をシャーマニックな神格に起きたがる欲望/歌手(性別問わず)が音楽を通して一足飛びに救済者の光輪を戴きたがる欲望」両方についての的確極まりない分析だと思っておりました。
また同時に、いわゆる「クリスマス」は、一神教徒ではなくむしろ多神教徒および無神論者向けのイベントですが、その祝い事を支える人々の勤労ぶりは尊く美しいものだ、と菊地さんの文章(Xに投稿されていたほうも含め)を読みながら思います。
2024年における擬宗教的な歌手の心性は、救済者よりもむしろ受苦者として、「生きづらさ」を毎日食えるケーキのように振る舞いながらエモさの獲得および保持に努めているように見えます。闘争や救済を前提としない受苦者とは、「クリスマス」に本来祝われるべき使徒の姿の最も悪質なパロディであるかのようですが、そのようなエモ飢餓とは違う「楽しい仕事」の遂行によって得られる感覚は、この地上において救済と呼ばれるに値する状態を実現させるための必要条件なのかもしれません。菊地さんの音楽(音源と実演の両方)にふれる際に、一般的な多神教徒や無神論者ミュージシャンのそれがもたらす無難さとは違う・しかし擬宗教的なそれともまた(天国や地獄などの安直なイメージを与えない・地続きの現実感が途切れない という意味で特に)違う感覚を与えられるのは、地上における労働が人々のエネルギーを良好に交通させるための手段であることを知り尽くしておられる方の音楽だからなのかもしれない、と今更ながら思います。
「僕は有神論者だ」と断言するラジオの音声を聴く前から、私はいちおう菊地さんの仕事にふれておりましたが、21世紀版ローリングトゥエンティーズの凄まじさが増してゆく1年ごとに、この地上でまともに「霊的」であることの必要性を感じます。天地万有の表現形態のなかで、音楽を最も根本的なものとして実践し・信じるものが異なるすべての人々に新たな生の感覚を伝えておられる菊地さんの御精勤に、改めて敬意を表させていただきます。安易な救済や無意味な受苦を拒絶し・然るべき使命のために働いているすべての人々に平安がありますよう。
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