6月はじめに発売となった田原総一朗さんと越智道雄さんの対談本『さらば愛と憎しみのアメリカ 真珠湾攻撃からトランプ大統領まで』(キネマ旬報社)。戦前生まれのお二人は、ジャーナリストとアメリカ研究者という異なる立場から、長いあいだ日本とアメリカの関係、そして世界の歴史を見つめてきました。そんな二人の対談を収録した本書には、真珠湾攻撃から現在まで、日本とアメリカを動揺させたいくつもの出来事が鮮明な記憶とともに語られています。
本書第一章ではお二人のアメリカ体験の「原点」といえる日米開戦時から、その貴重な体験を語り始めてもらっています。ここではその一部をご紹介したいと思います。
「海軍に行って特攻で死にたい」(田原総一朗)
──まず田原さんにお話を伺いたいと思います。玉音放送を聴き敗戦を理解する瞬間までずっと、「海軍に行って特攻で死にたい」と思っていたそうですね。なぜ海軍だったのでしょう?
田原:陸軍は行軍(こうぐん)があって、歩かなきゃならないから嫌だった。でも海軍だったら歩くのは、甲板の上だけでいい(笑)。それと僕の従兄が海軍兵学校に通っていたんですが、制服がカッコいいんですよ。上衣(じょうい)の丈が短くってね。それで僕も憧れて、中学校を卒業したら海軍兵学校へ進学したいと思っていました。
とにかく僕たちの世代はみんな、軍国少年でしたよ。日本が敗(ま)けるなんて考えたともなかった。英米は植民地支配によってアジアの国々を苦しめている。だからこの戦争は、アジアのリーダーたる日本がそれらの国々を解放し、独立させるためだという“大義”を信じ切っていました。間違った戦争だなんて、夢にも思わなかった。
──昭和20(1945)年8月15日の玉音放送、終戦の詔勅ですが、どのような状況で聴きましたか。
田原:あれは夏休みの8月15日でした。小学校五年生の朝、市役所から「今日天皇の玉音放送があるから、みんなで聴くように」というお達しがあった。それで家にラジオがない近所の人たちも集まって、僕の家族含めて7~8人で、放送が始まるのを待ちました。
──じゃあその時点で、日本が敗けたことは分かっていた?
田原:いや、分かっていなかった。放送を聴いても分からなかった。いまでも覚えているけど「敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ」「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」とか、ことばがむずかしかったからね。それで意見が真っ二つに割れた。戦争は終わったのか、それともつづくのか。論争になったんです。そんな最中、市役所の人間がメガホンを使って、「戦争は終わった」と通達してきた。
──どんな気持ちになりました?
田原:絶望的な気持ちになった。海軍兵学校に進むと決めていたので前途が真っ暗になった。それで二階に駆け上がって大泣きして、泣き疲れて寝てしまった。目が覚めたらもう夜になっていて、灯火管制がなくなったから窓の外に街の明かりが見えたんです。それでちょっと、解放されたような気分になった(笑)。
「不発弾を拾ってきてお風呂を沸かした」(越智道雄)
越智:僕は田原さんほどはっきりした道筋はないんです。玉音放送の記憶もそんなに鮮明じゃないし。でも今治にも空襲はあって(注・このとき越智さんは愛知県今治にいた)、ほとんど壊滅状態になった。それで年上のガキ大将が焼夷弾の不発弾を拾ってきて、「いいか、いまから信管を抜くぞ。逃げたいヤツは逃げろ」と脅された。でも逃げたら臆病者って仲間外れにされることは分かっているから、逃げられません(笑)。その不発弾の装甲を切り裂いて、中からジェリー状の液体を取り出して、それで風呂を沸かす。さらに金属部分を研ぎ澄まして、包丁を拵(こしら)えるわけです。
田原:凄い話ですね。そのリーダー格の少年は、国民学校の高等科ですか?
越智:もう中学に通っていたかも知れません。だから彼が度胸試しをはじめると、逃げようがない。それと先ほど機銃掃射の話が出ましたが、私の父は愛媛県小松町にあった「赤トンボ」という、これは機関部分以外は布と木で出来ていた練習機ですね。そのパイロットの養成所で、数学の教師をしていたんです。そこがグラマンの銃撃を受けました。その後に散らばっている空(から)薬莢(やっきょう)を、養成所の生徒たちが拾い集める。でもその後にわれわれが行っても、まだ結構残っているんです。それは子どもたちの間で“通貨”として、流通しました。
でも実際に銃撃を受けた父は、怖かったでしょうね。積み上げられた電信柱の山に飛び込んで、何とか事なきを得たそうです。
僕はグラマンの機銃掃射を受けた父から翌日、裏庭に呼び出されました。そこで「お父さんにもしものことがあったら、母さんを守ってくれ」と言われたんです。一人っ子だったから父がいなくなったら、僕と母だけが残されるわけですからね。その父の声を聞きながら見つめていたびわ枇杷の葉が、みるみる霞んできた……いつの間にか私は、泣いていたんですね。
その数年後、父の本家があった越智郡富田村(現・今治市富田)に疎開していた時に、今治の中心部が焼夷弾で焼かれました。その時僕は庭のいちばん高いいちょう銀杏の木に登って、逆手かざしで「絶景かな! 絶景かな!」なんて、『エノケンの孫悟空』を気取っていたんだから、子どもって残酷ですね(笑)。
教科書を墨で塗り潰す体験は「楽しかった」(田原総一朗)
田原:玉音放送のあった夏休みが終わって、二学期が始まります。そうしたら「天皇陛下のために死ね」と教えていた同じ教師たちが、「この戦争は日本の侵略戦争だった」と言った。それで僕は「国家は国民をだますんだ、エラい人の言うことは変わるんだ」ということが分かりました。これが僕の“原点”です。
しかも、二度変わった。教師たちは戦後民主主義を礼賛して「戦争はダメだ。もし戦争が始まったら、命を張ってでも阻止しろ」と言っていた。高校になったら朝鮮戦争が始まりました。それで僕が「戦争反対!」と言ったら、「お前は共産主義者か!」って叱られた(笑)。
越智:田原さんは、教科書を墨で塗り潰す体験はしたんですか?
田原:しました。小学校五年生の三学期から、毎日です。でも抵抗はなくて、何だか楽しかった。戦時中に教師から一方的に叩き込まれてきたことを、自分の手で否定するわけだから(笑)。あと戦時中は度々式典があって、僕らは講堂に集められた。すると正面に天皇皇后の〝御真影(ごしんえい)”が飾られている。それで「顔を見ちゃダメだ、目が潰れるぞ」と言われていた。その御真影を五年生の三学期に、焼くことになります。校長が自ら焼き、僕たち生徒は皆で、それを見ていた……。彼らにとっては御真影を焼くという行為が、重要だったんでしょう。
──大元帥(だいげんすい)であり現人神(あらひとがみ)であった天皇が「人間宣言」します。皇国少年で、「お国のために、天皇陛下のために」特攻で死ぬと思っていた田原さんは、どんな感情をお持ちになりましたか。
田原:あまりに大きな矛盾すぎて、天皇に対して「憎い」「裏切られた」という具体的な感情は湧かなかった。とにかく天皇はずっと、具体的な存在じゃなかったわけだから。
──その写真を直視することさえ、禁じられていたんですものね。
田原:だから逆に身近にいる教師たちに怒りの矛先を向けて、中学時代はもっぱら教師いじめ。一人辞めてしまうまでそれは、徹底していましたね(笑)。
「チョコやガムをくれて、仲良くなっちゃった」(田原総一朗)
「西部劇に夢中になった」(越智道雄)
──そしていよいよ、進駐軍がやってきます。
田原:彦根の駅前にあった印刷局がGHQに接収されて、進駐軍がやってきました。そこのガードマンとして入り口に立っていた米兵が、口笛でカントリーソングを吹いている。「こっち来いよ」と手招きされて、行くとチョコレートやガムをくれた。それで仲良くなっちゃった(笑)。
越智:私は愛媛県ですから「国破れて山河あり」で、ミカンだけはあった。それで笊(ざる)に盛ったミカンを持って進駐軍に近づいていったら、最初は「サンキュー」だけで、笊ごとミカンを持っていかれた(笑)。それで、何と言えば伝わるのか親父に英語を教えてもらって、次はハーシーのチョコレートとの物々交換が成立しました。当時いちばん安いチョコレートですね。薄いピンク色の包装紙を開けた時香ってくる匂いが、いまでも記憶に残っています。
──戦後一挙になだ雪崩れ込んできたアメリカ文化の影響ということで言いますと、越智さんはハリウッド映画、特に西部劇を浴びるようにご覧になったそうですね。
越智:それはもう、夢中になって見ましたね。ジョエル・マクリー主演の名作西部劇映画『落日の決闘』(46)だったかと思いますが、黒ずくめの装束にちょび髭の悪役を演じたブライアン・ドンレヴィの大ファンになりました。彼の拳銃が銀色で、陽光を反射する場面が記憶に染みついています。以後もこの中肉中背の俳優にはずっと注目していました。理由は不明ながら、「これぞアメリカ人」と感じ入ったんでしょうね。卑怯な悪党役ばかりだったと思いますが、魅力的な俳優でした。
田原:僕もずいぶん見ました。でも日本人のアメリカへの憧れをいちばんか掻き立てたのはやっぱり、中学の英語教科書でしょう。僕が中学に上がった頃は『アイ・アム・トム・ブラウン』。でもこれはあまり出来がよくなくって、その後に『ジャック&ベティ(Jack and Betty)』になる。
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いかがでしたか? さらに第2章以降も、朝鮮戦争、安保闘争といった“政治の季節”、ベトナム戦争、冷戦の終焉、湾岸戦争、そして現代まで証言はつづきます。そこには、トランプ大統領の大統領令乱発やシリア爆撃、北朝鮮のミサイル実験やヨーロッパ諸国における右派勢力の台頭…といった混沌をきわめる現在、そして未来をサバイヴするためのヒントもつまっています。
ぜひ『さらば愛と憎しみのアメリカ 真珠湾攻撃からトランプ大統領まで』を手に取って、二人の“肉声”に耳を傾けてみてください!
※本記事は『さらば愛と憎しみのアメリカ 真珠湾攻撃からトランプ大統領まで』(キネマ旬報社)の『第1章「敵国」アメリカ』を一部改変したものです。
6月19日(月)には、著者 田原総一朗さんと越智道雄さんの刊行記念トークイベントを開催します!
■日時:2017年06月19日(月)19:00~
■場所:紀伊國屋書店新宿本店8階 イベントスペース
■参加方法(先着50名様):
(1)紀伊國屋書店新宿本店3階レジカウンターにて本書をお買い上げのお客様
(2)電話で予約したのち、イベント当日までに3階レジカウンターで本書と整理券をお求めいただいたお客様
TEL:03-3354-5703(3階売場直通/10:00-21:00)
『さらば愛と憎しみのアメリカ 真珠湾攻撃からトランプ大統領まで』(キネマ旬報社)
著者:田原総一朗、越智道雄
定価:1400円+税
好評発売中
kindle版も好評発売中:https://www.amazon.co.jp/dp/B071J7M4M3プロフィール
田原総一朗(たはら・そういちろう)
ジャーナリスト。昭和9(1934)年4月15日生まれ、滋賀県彦根市出身。1960年早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社。1964年、東京12チャンネル(現:テレビ東京)に開局とともに転じ、数々のTVドキュメンタリーを演出する。1977年フリージャーナリストになる。98年、「戦後の放送ジャーナリスト1人」として、城戸又一賞を受賞している。『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)『激論!クロスファイア』(BS朝日)に出演中。また多数の著書もある。越智道雄(おち・みちお)
アメリカ学者、英語圏政治/文化研究者、翻訳家。明治大学名誉教授。昭和11(1936)年11月3日生まれ、愛媛県今治市出身。1983年、ザヴィア・ハーバート著『かわいそうな私の国』で日本翻訳出版文化賞、1987年ローズマリー・ハリス著『遠い日の歌が聞こえる』翻訳で産経児童出版文化賞を受賞。著書に『ヒラリー・クリントン 運命の大統領』『オバマ・ショック』他がある。翻訳書も多数。
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(執筆者: kinemajunpo) ※あなたもガジェット通信で文章を執筆してみませんか
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