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【時代遅れな日本の教育について考える】株式会社立ルネサンス高等学校 桃井校長インタビュー
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【時代遅れな日本の教育について考える】株式会社立ルネサンス高等学校 桃井校長インタビュー

2012-10-15 06:00
    校舎

    東京プレスクラブでは2012年9月10日「日本国政府はどさくさまぎれに「株式会社学校特区」を潰す気のようです。」にて通信制の株式会社立高等学校についてふれました。

    同9月27日、株式会社立ルネサンス高等学校校長桃井隆良さんに通信制高校についての熱い話を聞いて参りました。多様性をもたせながらも通信制高校を運営する桃井校長の激白インタビューです( http://www.r-ac.jp/about/identity/ )。

    以下全文書起し。

    二宮像

    ■7年間で生徒が120人から3300人に

    ――記者
    お役所からの規制に対して気付かれた事がある、ということですが。

    桃井校長
    ルネサンス高等学校は7年前に 生徒が120人しかいませんでしたが現在は 3300人です。

    会社としてみた時の成長率ではこの少子化の中ではトップクラスじゃないですかね。

    ただいつも思っているのは「これっておれが偉かった、おれが成功させたってわけじゃあねえなあ」と。

    これが実業家の世界だったら「おれがうまくやったんだ。」「創意工夫したんだ。」「従業員も頑張った。」と言いたい所なんですがそうじゃないんです。

    真面目にはやったけど、これはたぶん現状の教育業界が酷い、生徒のニーズに答えた事をやってないから。だから我々レヴェルの努力でもなんとかなったんではないかということです。

    ■富国強兵のための教育制度が今もそのままの日本

    桃井校長
     さらに最近改めて僕も理論的に整理できたんですが、明治5年に学制発布されて日本の近代教育の仕組みができて百数十年経ってましてこれはもう完全に制度疲労しちゃってるわけです。

    僕はこう思います、法律でも制度でも最初につくられた時は意味がある。目的があるんですよ、世界の中で特定の日本国が学校を作ろうと思ったときには明確にあったんですよ、いや、それは江戸時代が終わり遅れて出発した国だから、まあキャッチアップです。

    欧米に負けるな、富国強兵だと近代国家としての体裁を整えるために、とくに富国と強兵については均質なそれなりの優秀な労働力なり、それから昔でいうと兵隊さんです。

    当時は均質な労働力や兵隊さんが必要なのに昔は日本は300に分かれていたわけです。

    300地方の、そうすると言葉も通じなかったと思うんですけど義務教育に行くと標準語も教わるから言葉は通じるようになるし、日本人(国家)としての意識、時間の観念も芽生え始めます。

    桃井校長

    もちろん僕らは 9:00から5:00まで働くなんて普通だし学校だって 8:30から始まって4:00とかって普通だけど、当時はそういう習慣てあんまりなかったんじゃないかな。

    当時は特に農業従事者が多かったじゃないですか。日の出と共に働き、季節によっても働く時間が違ってて。昔岩波新書の『労働時間』という本を読んでビックリしたんですけれども、江戸時代の農民は意外と労働時間が短いんです。現代の方が時間的にはよっぽど労働している。近代化するという事は規則正しく時間の観念をもって、何時から何時まで働いてという形になってくる。学校って何で時間割があるのかというのが見えてきます。

    今でもそうですけど“協調性”とか“時間通りに”とかね、僕も小学校のときに言われた事が今でも小学校から指導され続けているわけです。

    僕が高等学校をはじめてわかった事ですが、高校生の時に「なんでおれは(当時文科系だったから)数学のルートなんとか、関数とかを勉強しなくてはいけないのか全然わかんなかったんです。それを一生懸命勉強してその後なにかに使うのだろうかとか思ってました。ところがこの仕事をするようになってから分かったんです。

    昔、江戸時代の時は身分制がありました。身分制があるという事は農民は基本的に農民にしかなれないんです。

    一部の例外を除いて、武士ですら下士と上士では差があって、だから福沢諭吉は「封建制と身分制は親のかたきでございます」と。

    あんなに頭のいい人だって中津藩では上士になれなかったわけです。ただ幕末になってから勝海舟みたいな逆転も出てきましたけど、封建制、身分制がはっきりしている場合生まれながらにして職業は決まっているわけですから何を勉強しなくてはいけないか明確なんです、逆に言えば選べなかったんですね。農民に必要な教養はこれとこれ、といった感じで全部きまってるという事です。

    ところが明治維新になって身分制が打破されたら、農民の子が物理学者になるかもしれないし、商人が数学者になるかもしれない、大工が高級官僚になれるかもしれないし、偉い兵隊さんになるかもしれない。と、いろんな可能性があるから、そうなった時に備えて一通りまんべんなく勉強しておかなきゃいけなかったんです、だからそれが喜びだったわけです。

    当時の農民にとっては高等数学が勉強できるってこと自体はあまり必要がないんだけれども、もしかして俺、立派な大学に行って何とかって、夢を持てた。ところが現代は、身分制が全く残ってないとは言わないんですけれども基本的になくなっちゃったじゃないですか。そうすると文芸復興じゃないけれどもレベルやステージが違うんだけれども元に戻るんです。

    ■「仮説実験授業」―必ずしも多数派の意見が勝つとは限らない、真理は多数決では決まらない

    桃井校長
    できるだけその人の個性に応じて早めに自分の好きな事に集中する人生を送る。ですからまんべんなく全ての教科を勉強するというのは本当に小学生ぐらいまでで良いのではないかと思います。読み書きそろばん的なものとか。あとは中等教育というんですけれども前期中等教育が中学で後期中等教育が高校ですけれどもそれ位からは極端な事を言うと、例えば物理学が好きな人はもう物理学ばっかりやっててもよいのではないかと。もちろん、さらにやりたい事があったら物理学以外にもやってもいいんです。

    そういう多様性が出て来た時に一つの場所に集めて一律の教育はしづらくなってしまうんで共通にやらなければいけないという事を絞り込んでそれだけは生徒を集めてやる、それ以外は基本的には通信教育でよいのではないかと思いました。

    だから僕は通信教育が産業になるのではないかと思いました。本を読むって一種の通信教育ですよね。でもそういう意見自体が教育界では少数派なんです、主流じゃ全然ないんです。あくまでも通信教育というのは受け皿だ、全日制に行けない生徒たちが行く所だと思ってるようです。

    でも僕は集めてやらなければいけないという事は何かという事がすごく気になっていて。それはディスカッションが必要な授業であったりそれから先生がインタラクティブな掛け合いトークみたいな授業をしてるとか、討論をしないといけないのとか、あと実験とか。

    うちの学校にはいってすぐやる「仮説実験授業」という授業があります。ある問題があってそれについて各自が選択をして、仮説を立てます。そしてそれをそれぞれの立場で討論する。討論した結果選択肢を選ばさせておいて実験して決着をつける。

    そうするとわかるのは必ずしも多数派の意見が勝つとは限らない、真理は多数決では決まらない、そういう事をやりながら科学の勉強をしていくとか、そういうのは集めてやった方がいいですよ。

    漢字の練習とか計算の練習とかというのは原理さえ教えたら後は自分でやるものだし、適塾(適々斎塾)なんかもよくよく聞いてみるとほとんど緒方洪庵なんか授業しません。ほとんど自分で勉強してるわけです、でわからない所は先輩に聞くというかたちです。森塾なんかそうなんです。異年齢集団が100人ぐらい集まって森先生は勉強を教えないんですよね。

    心構えとか礼儀とか、人生観とかそういうのは教えます、あとは勝手に自分たちが一日中勉強してくださいと。だからそこだけ見ると集まってやってるからね。と思うけど別にそれは集まる必要もないものです。人数も多いですし。だから僕は今回文科省から特区内で全部やれと言われた時にやっぱり文科省の考え方は通信教育というのはあくまでサブだという考え方なんだなあと。

    僕は電子教科書教材協議会に所属してまして韓国が電子教科書になっていくとか、ネットに対応した事を始めるとしますよね。そういうのに文科省さんも一応名を連ねているんですけれども、なんか本質がわかってないような、なんていうんですか……周辺部分が主流になるというのが歴史なんですよ。だから主流派は永遠ではない。

    あるところでビル・ゲイツが書いてました。

    「自分はパソコンの時代の勝者だ、けれども歴史の教える所によれば一つの時代の勝者は次の時代の勝者にはなれない」と。例えば徳川幕府の将軍が明治維新になってから大統領や首相にはなれなかったでしょう。やっぱりいつかは終わるわけですね。次世代の主流が何処にあるか。それは周辺部分にある。

    クリステンセンという経営学者が「イノベーションのジレンマ」という本の中でこう書いています。

    イノベーションの起り方に二つあり、それは持続的なイノベーションと破壊的なイノベーションだと。

    そして持続的なイノベーションは主流派が。破壊的なイノベーションは周辺部分がやる。

    その一番いい例がパソコンでIBMはパソコンを作れなかった、DECも作れなかった、マイコンを作ったのは本当は吹けば飛ぶような企業で、かつ最初はおもちゃみたいな感じだった。性能も悪いし、それが仕事に役立つなんて思えないようなものから出発している、だけど結局そういう所からアップルが育ちマイクロソフトが育った。

    おそらく教育もそういう事が起こるんじゃないかなと僕は思います。

    生徒さん

    日本の学歴主義の頂点って東大なんですよね。

    桃井校長
    サンデー毎日さんが春先にやる特集って東大に何人受かりました、でその次は京都大学……と順番きまってるわけですけれども、僕はねえ、東大なんかもそろそろ変わったことやると面白いと思ってます。

    例えば東大の入試問題を難しくするという事じゃなくて定員を5倍にする。

    あくまでこれは例えですが。じゃあどうやって5倍にするか。曜日ごとに講義を受ける学生を分ける。私は月曜日の東大生。私は火曜日の東大生という風に。そうすると5倍になる。

    あとは通信で素晴らしい授業がいくらでも聴講できる。それを本当に東大の教授がやっちゃう。

    「いやぁ、東大卒の人間のレベルが下がっちゃったら困るんだよ」という声もあるかもしれない。

    確かに入試は楽になります。そうしたら三年生か四年生の時に本当に勉強したかチェックして5分の1にしたらいいんです。5倍入れて5分の1にする。

    東大の入試問題の歴史の本を調べたんですけれども1950年代60年代の当時の入試問題って下手したら今の麻布とか開成高校の入試レベルかなみたいな問題です。ここ30年くらいでものすごく難しくなりました。

    だから僕の親戚の子も受けた時に僕もびっくりしたのは、彼は灘高なんですけれども「理三」を受けたんですよ。勉強ができるんですね。

    そしたらその年の数学の問題が滅茶苦茶難しくて灘高の子でもほとんどできなかった。「もうだめだ今年は」と、もう帰りたいという子が出るぐらい。

    京都大学の修士課程の数学でトップで出て灘高の先生を10年か20年かやってる数学の先生が受験のとき付いてきていて、その話をきいて、どんな問題なのかいってみろと。生徒は頭がいいから大体こんな問題が出ましたという事を言えるわけですね。見せてみろ俺が解いてやるといってその先生が一晩考えて解けなかった。

    ペーパーテストの問題だから基本的には一発勝負なんですよ。所詮は数学の受験問題なのに、なんでそんな問題を出すんだろう。

    今、医学部って頭がいいけど変な奴が受けるから、それをチェックするためにほとんどの大学が面接を課してるんです。

    ところが東大は面接をしないんですよ、もう学力テストオンリーです。

    そういうのをきいてなんか一寸やっぱり行き過ぎちゃってるかなあと。

    東大というのは日本の大学業界というものを牽引している日本の雄なんです。だからそこが変わっていかないと入試も変わらない。

    いい中学はいい高校にたくさん受かる。いい高校はいい大学にたくさん受かる。いい大学は色々な例えば国家公務員試験とか弁護士試験に受かると、いい会社の試験も受かる。

    そういう序列が行き過ぎちゃってるかなと思ってまして。

    その陰でさっき言ったような勉強できない子は完全に放置プレー。その結果自信を失って、それからやりたい事をやりたい子達が十分にそれらをやれないで来てしまっています。

    明治期には楽しい授業とか、いろんな事やりましょう的なこととか必要なかったと思うんです。なぜならばアメリカとかヨーロッパという目標がはっきりしているのだから、早くそれを調べて留学させて、それを別途ガシガシコピーして彼らが50年掛かった事を15年とかでやろうとかという事だったと思います。

    韓国もちょっと昔にやった事ですよね。日本とかアメリカとかからコピーして。結果韓国は追いつけ追い越せを実践してきているわけです。

    日本がやった事と同じ事を韓国と中国はやっているわけです。日本は短期間に近代化できたわけだから戦争の事は別として、当時の教育手法は間違っていたと思いません。だけど今は時代が変わったという事です。それなのに教育制度は初期に造られた目的のためのままです。その目的が変わっているのに制度だけがずっと変わらないで来ている。

    これは公的なところがやらなければいけない分野なんです。

    さすがに自衛隊は民営化しろとは思わないけれども、教育はいつまでも官の仕事です。例えば小学校ぐらいまでは通信教育がいいとはまったく思わないです。地元で地元なりの特色を出しながらも、やっぱり読み書きそろばんはちゃんと教えてほしいなと思う。中学以降はもっと自由にさせていろんなカリキュラムを作って、いろんな人を育てる。

    目標なき時代に自ら目標を立てられるような人間、でもどれが答えかはそう簡単にはたどり着くものではないですけど。

    だけどそういう人たちがたくさんいればどれかは当たっている。当たってるという事がわかったらそいつについてけばいいし、また変って行けばいい。

    それを僕らは今の通信制高校の中でどう実現していくのか。

    我々のやっていることはまだ入り口です。なにしろ最初の4年間はド赤字だった。月に数千万円の赤字でした。

    その時は生徒をとにかく集めて黒字にするという事も9割ほど考えていました。

    うーん……でもやはり、お金の事だけを考えたら、教育を事業としてやるというのはアホだと思います。

    そんなにもうからないし、もうけちゃいけないと思います。だけど赤字じゃできないですし。

    そういう意味では今回おバカ規制かもしれないですけれども、文科省が云うようなことはある意味で株式会社つぶしですから、根源的な意義の部分で、「通信制高校なんて悪いやつらだ、お前らなんか死んじまえ」( http://jaemo.net/01press/120904.html )みたいな事をソフトにいわれてるみたいなものと考えます。

    我々は通信制高校というあらたな試み、といっても既に7年経っていますが、何のために株式会社を立てて何を目標にこの仕事を始めたんだろうという原点をあらためて考えてみる機会にもなりました。

    やはり多様な学校の設置形態というもの作り、究極は多様な学校を通して多様な子供たちを育てていくという事となるので、そうするとルネサンス高校が十分にそれに対応する形にならなくてはなりません。他の全日制に比べれば偏差値一つ取ったって上にも対応、横にも対応みたいな世界です。

    けれどまだまだそれなりにはやれてないなと思うので、いろいろこれを機会に一寸今までの通信制高校の枠組みではない様なものにもやっぱりチャレンジしたいと思いました。

    その一つは今まで僕らは文科省が作った枠組みの中で、どうやって行こうかという発想はやっぱりありました。今でもあります、それは何かというと 3点セットです。

    1、スクーリング(面接指導)

    2、添削指導

    3、試験

    それは特区内でやりなさいと指導されたわけですからこれらは基本的な枠組みとして考えているのですがずっとこの仕事をはじめたときから気になっている事があります。普段うちの生徒たちは何をしてるんだろう?

    雲

    ■普段うちの生徒たちは何をしてるんだろう?

    桃井校長

    通信だから年に一回しかあわないんです、学校近所の生徒は来校する事があるんですが通常の生徒たちはいったい日頃は何をしてるんだろうとすごく気になっています。

    これはおせっかいして、あれしろこれしろとかなんかそういったことではなくて、単にすごくそれが気になっています。

    だから僕は今NPOでやろうと思っているんですが、オープンスクールみたいというのか、実費はかかるんですが高尾山に一緒に登ろうとか、この辺の近所でバーベキューやろうとか、水族館見に行こうとかやってるんですよ。

    そうすると希望者だけって事もあるんですけれども凄くいい感じなんです。そういうのって一緒にみんなでわいわいしながら、やるのってね、すごく効果があるんです。

    だからそういうのもNPOクラブ活動って言ってるんですけれども正課じゃなくていいんですよ、そういう所をいくつか、今、月島と豊田と大阪でしかできてないんですが、集まる所がないからだけどそういうことをちょっとでも株式会社でやってるとまた、いたくもない腹を探られるんです、なんか特区外活動してるとか、だからもうNPOで札幌とかいろんな所で一寸ね、そういうのを始めたいなと思っています。これは普段、月に一回とか二回とか本校の生徒ではなくても参加できる形でもよいかなと思っています。

    うちの生徒たちが中心だけど、来たい生徒やお子さんたちはみんなおいで言う形で。実際そうなんです、高尾山とか友達連れてっていい? とか、友達ってうちの生徒じゃないんだけど別にそれはよくて、そういう事をななにかやれないかなと、それぐらいなら指導要領にも書いてないし、それをやったからと言って学校としての評価は高まるわけじゃないけれども。

    人が人を元気にするという仕組みはやっぱり絶対あって、だからやっぱり、ネットはネットで大事だけど、リアルな所で僕はそれがなにかなとずっと考えてたんですけれども……まあ要するに遊びかなと思います。

    ただしこの場合の遊びはスポーツをして遊ぶ、それから何か見学に行って遊ぶ、あの見学も結構ねえ喜びますよ、水族館とか博物館とかそういうの面白いし、だからそういうのを少々うちの学校として。文科省に言われたからとかそういうんじゃなくて、子供たちがもっと元気になる仕組みというをやっていかないと株式会社立学校ってやってるって意味がないんじゃないかと思ってます。

    なんだかんだ言ったって、文科省のいった枠組みの中で僕らなりに考えてやってきたという事なんですけど。

    職種によっては学歴は必要です、お医者さんになるためには大学に行かなきゃなんない、でも馬鹿でいいとは絶対に思わないですね。やっぱり利口じゃないとだめですよ。で、利口っていうのも一回利口になったら、ずっと利口って事はなくて社会が変わっていっちゃうから、やっぱり社会の変化について行ける利口さって必要じゃないですか。

    記者ありがとうございました。記者はまだ3時間ぐらいしゃべっていただきたいんですけれども。校長しゃべりすぎちゃった……(一同笑)

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