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グローバル化をなぜ無批判に肯定するのか
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グローバル化をなぜ無批判に肯定するのか

2013-05-06 14:05
    グローバル化をなぜ無批判に肯定するのか

    今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

    ■グローバル化をなぜ無批判に肯定するのか
    純粋にグローバル化について述べてみる。常々思っていることだが、なんかみんな「グローバル化は絶対無批判に正しい」と思っている気がするんだよね。まるで「戦争反対」と同じように、それ自体を批判することは許されなくて、全てそれを前提に議論しなければならない。神聖にして不可侵。まあそうやって思考停止すると楽でいいけどね。

    通信手段や交通手段が発達し、国と国との物や人の流れが活発になってきている。そして今後もその方向を推し進めることが世界全体の文化や経済の発展につながる…グローバル化を是としている人たちは、そういう考えなのだろう。

    途上国の安い労働力によって生産された安い商品が先進国に流通し、逆に先進国の富が途上国に還元され経済発展していく。あるいは国境を超えて優秀な人材や技術を集めることができる。たしかに素晴らしい。

       *   *   *

    一方で途上国のやすい労働力が先進国の労働者の仕事を奪っているという主張もある。俺もそう思う。日本に限らず先進国を覆っているデフレ傾向の原因もこれだと思う。

    まあデフレ自体は金融政策を駆使すればなんとかなると思うからここでは扱わない。労働力と文化的な側面について論じる。グローバル化を肯定している人は、これらの点を「しかたない」「時代の流れだ」で片付けている。なぜだろう。「グローバル化=自由」というイメージがあり、「自由=常に肯定されるべきもの」という思い込みがあるのではなかろうか。

    しかし我々の社会はさまざまな形で自由が制限されている。たとえば最低賃金や消費者金融の利息制限。単純に考えれば当事者同士がOKというなら、自由にさせればいいと思ってしまう。でも完全に自由にさせると、社会がうまくいかないから制限しているわけだ。なんでも自由がいいというなら、法律なんていらないだろう。殺すのも殺されるのも自由だ(笑)。

    自由に対しては厳しい警戒がなされ、それを制限することで我々の社会の安定は成り立っている。なのにグローバル化については警戒がない。グローバル化を否定する者こそが、社会の害悪と言わんばかりだ。ちょっと前の日本の社会が「戦争の可能性」を口にしただけで、白い目で見られたのと同じですな。

       *   *   *

    グローバル化という言葉の下でなんでも自由だという風潮が蔓延している。たとえば多民族の共存。それぞれ生活習慣が違うのだから、文化交流やビジネスなど限られた範囲での交流は有益だと思うが、生活空間を共有するのは無理があると思うのだよね。

    シエスタ(昼休憩)のない社会に、その習慣がある民族が来ても、オーバーヘッドの方が大きいだろう。宗教的な面はもっと大きい。なにやら最近は除夜の鐘がうるさいと文句が来るご時世らしい。同じ日本人同士でもこうなのだから、民族が異なれば様々な価値観の違いの衝突が生じるのは火を見るよりも明らか。

    そうなると結局は、せっかく他国に来ても、同じ民族同士で寄り集まって生活することになる。それなら最初から元の国にいたままの方がいいんじゃないの?と。幸い通信や物流は発達しているのだから、人間が移動するよりも、物や情報だけ移動するようにした方が問題は少ないだろう。

    遠い将来(何百年も先)は、結局は地球上のさまざまな民族の生活習慣の違いは摩耗し、同じになってしまうかもしれない。せいぜい他の文化との衝突が少ない部分だけが形骸的に残っているだけになる。

       *   *   *

    「首狩り」とか「人喰い」という文化は前世紀で排除されてしまった。でもこれも考え用によっては文化の破壊だよね。西欧文明の基準に照らして、野蛮だというものは否定され消滅していく。確かに地球上に生まれた文明のうち比較的西欧文明は合理性が高い気はする。客観的に見てもね。だから単純に西欧が軍事力や経済力の優位で劣った社会を同化させたというものでもないだろう。優れた文化が繁栄しているだけ。

    でもじゃあ劣った文化は滅びてしまっていいのかといえば、俺は反対だね。それは「多民族の文化を尊重する」という生易しいものではなく、(首狩りなどの)生理的に受け入れがたい文化さえ、異なる地域では存続させなければならないと思う。自然界で天敵と被捕食者が共存しているように、それぐらいシビアな多様性がなければならない。互いに滅ぼしたいのに滅ぼせない…ぐらいの。

    地球上に多種多様な生物がいるけれど、それぞれの生物は自分の利益(種の繁栄)を最大にしようと行動している。そうした果てしない争いが結果として多くの生物が共存する多様な世界を作り出しているのだ。人間だっていまも戦ってるよね。大きな動物はあらかた制覇したけど、逆にウィルスとか細菌とかの小さな生物とは戦い続けている。生存競争をしているわけだ。

    やっぱ一つの基準でのみ優劣・長短を推し量ると、パラダイムシフトが起きにくくなるからね。それまで有効に機能していたパラダイムが限界が来て、別なものに乗り換えなければならない時に、乗り換え先の候補は残しておかなければならない。恐竜が絶滅した時、それまでほそぼそと生きてきた哺乳類の天下が来たように。

       *   *   *

    だいぶ前の「美味しんぼ」で、日本が中国の人たちが生産したものを安く買い叩くから、中国の(特に農村の)人たちが貧しいのだと言っていた。中国の生産物が安いのは別に日本が買い叩いているからではなく、中国の物価が安いからなのに。

    日本で普通に暮らすのと中国で普通に暮らすのでは、物価が違いすぎるから、単純に両国の通貨である元と円を為替レートで換算しても比較はできない。日本国内だって都市部と地方では家賃をはじめ生活に必要な費用は違う。

    地球上のこうした地域の違いはこの先も続くだろう。あと数百年は解消しないのではなかろうか。日本に住んでいて賃金は中国の労働者と同じ…なんていくらグローバル化が進んでも、ありえないよね。「いやグローバル化が進むとそうなるのだ」というなら、そんなグローバル化は防止すべき。

       *   *   *

    人間にさまざまな個性があり単一の指標では比較できないように、地域にも個性がある。為替レートや他の手段で単純に補正することはできない。差があって当たり前なのだ。なのに人間の個性は尊重しても、というか人間の個性を尊重するあまり、地域の個性を否定するかのような考えの人が少なくない。

    例えば同じ能力の人間ならどの国やどの民族であっても、給料は同じにすべきという考えは、人間の個性を最大限尊重している一方で、地域の個性を完全に否定している。これって正しいんだろうか。良くも悪くも国や地域が人間を育っている。その地域の個性をまったく否定するものだと思うのだよね。

    大きな政府と小さな政府のどちらがよいか?古くからある問題だ。社会保障の充実した大きな政府がよいのか、何もかも自由経済に任せたほうがいいのか。それによって国民が払う税金も違う。手厚い社会保障の国は当然払う税金も多い。地球上にさまざまな多様性をもつ体制の国があるから、それぞれの利点・欠点を実験できるし補い合える。地球上のすべての国が同じ政治体制の方がいいというのだろうか。

    物流や人の移動を完全に自由にしてしまえば、国際競争力のない地域は滅びろというに等しい。自力で生きていけない人間はさっさと死ねと言ってるのと同じ。そういう考えもありだとは思うが、人間の個性を尊重しどんな人間でも最低限生きることは補助しようというのが、現代の考え方だよね。それなら地域についても同じであるべきではなかろうか。強者の富を税金でとって弱者に分配する。地域については関税などがそれに相当するのだろう。つまり保護貿易は必要。

       *   *   *

    地球上にさまざまな民族や文化が存在するのは、そもそも昔は移動手段がなかったからだ。くわえてさまざまな地域にはさまざまな特徴がある。乾燥した地域もあれば熱帯雨林もある。日本国内ですらその地域に根ざした文化が発達した。

    通信や移動技術の発達がそれらを均一化してしまう方向に働き、このまま何も手を打たなければどんどんその方向に進んでしまうならば、逆に法律などで人や物の移動に制限を加えて、文化の均一化を防がなければならないと俺は思う。

    経済の原則は自由競争だというかもしれないが、手放しの自由は前世紀に世界恐慌をもたらした。完全な自由は、ひとたび一つの方向への流れができると、際限なく暴走してしまう傾向がある。それに懲りて現在はIMFなどの国際機関やサーキットブレーカーなど、暴走を防ぐさまざまな仕組みを導入している。さまざまな社会保障制度も主旨は同じだろう。

    世界恐慌もそれまでは技術的な理由で自然に制限されていた国家間の物流や投資が、技術の発達で制限が緩和され、その危険性の自覚がないまま突っ走ったために起きたものではなかろうか。それまでは「できなかった」から、危険性もわからなかったのだ。それができるようになって調子に乗って突っ走ったら、大変なことになった。いまのグローバル化も同じ気がする。

    何を自由にして何を制限するかはデリケートで、制限しすぎれば経済や文化の発展を阻害するのは論をまたない。しかし自由化しすぎても経済や文化を破壊してしまう。

       *   *   *

    で、まあそういう議論がないよね、という話。とにかくグローバル化万歳という人ばかり。「おい、ちょっと待てよ」とブレーキをかけようとする人は、前世紀の遺物、発展を阻害する人類の未来の敵みたいに扱われる。ちょっとこの辺で目を覚ましたら?

    戦争が嫌な人は戦争になりそうになったら必死に反対するだろう。グローバル化が嫌な人はこのままだとグローバル化がどんどん進むと思うなら、それに反対しなければならない。望ましくない流れなら変えなければならないのに「これからの世界のトレンドはグローバル化なんだから仕方ないんだよ」で思考停止してしまっている人が多い。

    もちろんグローバル化が正しいと思ってる人はそのままでいいけどね。でもなんかグローバル化が進むと、いろいろ不幸になる人が出てくるという話はみんなしてるじゃないか。雇用が奪われ低賃金の労働者がさらに苦しくなるとか。それを懸念しつつも「グローバル化なんだから仕方ない」って思考停止してるのはどうかと思うね。なんで懸念している人はグローバル化を止めようとしないの?

       *   *   *

    平和憲法を守ってれば日本はいつまでも平和だ、という幻想にちょっと前までみんな酔っていた。「それは違うだろう」と言おうものなら、社会の敵のように扱われた。幸か不幸かこれは最近目が醒めてきたけれど、グローバル化の幻想の方は?

    いろいろ矛盾していることを言っている人たちが少なくない。たとえばkれからは国際分業がトレンドだと主張している人たちが、一方でTPPに反対していたり。国家間の依存性を高めるなら、国の主権が制限されるのは当たり前だと思うのだが。

    戦争についても武力があればこそ政治的駆け引きに使えるのに、武力を否定して政治だけで何とかしろという。日本は国際的な交渉力をもっと高めるべきだという一方で、他国の顔色を常に気にする。まったく不快に思われずに、対等に交渉するなんてありえないと思うのだけどね。

    一つ一つを独立に「これが正しい」「これは正しくない」と判断しても何も具体的な解決策は生み出せない。「いまどれを優先すべきか」「どれを犠牲にすべきか」というシビアな判断が必要なのに。

    ●追記


    「無批判に肯定」しているのではなく、不可避的な流れとして諦めているのだと思う
    http://twitter.com/ken_Slash/status/328149545315885057

    なんでも不可避的な流れで片付けられるなら素直で結構なことだね。不況とか戦争とかも不可避的だろうから、今後一切政府のやることに批判しないようにね。あなたのように素直な国民ばっかだと、政治家は楽でいいだろうねぇ。きっと太平洋戦争も不可避的な流れだったということで、肯定してくれることだろうし。

    つーかよくこんな無意味なことを恥ずかしげもなく言えるね(苦笑)。そもそも「するのか?」というのは、別に理由が聞きたいわけじゃないんだが?「すべきでない」と言ってるのであって。

    執筆:この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

    寄稿いただいた記事は2013年05月01日時点のものです。

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