名前:岩屋 毅(いわや・たけし)
政党:自民党
選挙区:大分3区
生年月日:1957年8月24日
趣味:ジョギング・映画鑑賞・音楽鑑賞・読書・ドラム・ブルースハープ(音楽はローリングストーンズの大ファン)
好きな食べ物:カレーライス、丼物、ネギソバ
好きな言葉:至誠通天(誠を尽くせば天に通じる)
感銘を受けた本:「後世への最大遺物」内村鑑三著
HP:http://www.t-iwaya.com/
── 政治家になろうと思ったきっかけは?
子供のころから漠然と政治家に憧れていたのですが、「政治」を身近に感じたのは、医者だった父が周囲から押されて県議会議員になったときでした。当時、大分県には医学部がなかったため、医者を代表して父を県議会に送ろうということになり、その結果、父は当選させていただきました。そして、やがて大分医大ができました。医者であった父が政治の舞台に身を投じたことで、政治が私自身の身近なものになりました。
あと、私は鹿児島の高校に3年間通ったのですが、薩摩という土地はご承知のように明治という新しい時代の原動力となった地で、そのころ司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」などを読んで桜島をみながら、日本が窮地を陥ったときに日本を大きく動かす仕事をしたいと志を立てたのがきっかけでした。
── 政治家になる前は鳩山邦夫さんの秘書をつとめていたそうですね
高校卒業後に早稲田大学に入学し、そこで雄弁会という弁論部に入りました。雄弁会は政治家をたくさん輩出しているサークルで、総理になった海部俊樹さん、小渕恵三さん、森喜朗さんのように、きら星の如く輝く先輩がいました。そこで政治学や政治のまねごとを少しかじったのですが、途中で飽き足らなくなり、政治の現場をみて見ようと、当時落選中の鳩山邦夫さんの選挙を手伝うことになりました。選挙後と同時に学生兼秘書になり、6年間鳩山先生のところで秘書としてお仕えさせていただきました。この経験は今でも私の財産だと思っています。
その後、28歳の時に郷里の大分県別府市に帰り、それで翌年の県会議員の選挙に出ることになりました。高校生の時に「将来は政治という仕事で世の中のお役に立てればいい」と決意して、あとは一直線というか、まっしぐらにここまでやってきました。
── ライフワークとしている医療問題についてどのようにお考えですか?
地方には国立、公立、市立、あるいは日赤などの拠点病院があります。そういった拠点病院に加え、開業医の先生方がいらっしゃいます。日本の医療はこの組み合わせで支えられています。
どちらかというと、最近の政策は拠点病院を中心にしていこうという流れになりつつありますが、私は、地域に張り巡らされたホームドクターとしての開業医の先生方も大事だと思っています。身近で医療相談にのってもらい、難しい病気については大きな病院を紹介してもらえる。もっと開業医の先生方を大事にする政策が必要だと感じています。
日本の医療制度にご不満はたくさんあると思いますが、それでも日本の医療は世界のどの国に比べてもレベルの高い。もちろん、足りないところがまだまだたくさんありますが、近所の歯医者でも大きな病院でも国立病院でも見てもらえ、大病したときは高額医療が戻ってくるという国民皆保険の仕組みを大事に守っていくことが大切です。そして、どうしても財源が足りないということであれば、新たな負担をお願いしてでも老後を支える仕組みを充実させた方が良いと思います。
── 民主党も財源の問題で苦労しています
財源なくして政策はできないわけですから、避けては通れない問題です。もちろん無駄を削ることは大事ですが、無駄を削れば20兆円出てきて、「あれもこれもタダですよ」という政策は既に破綻しています。そこは正直に間違いを認め、国民に話をすることが大事だと思います。
── 現在は自民党のネクスト防衛大臣の職になっていますが、これからの日本外交についてどうお考えですか?
外交については基本戦略をもっとしっかり立てないといけないと思っています。これまでの日本は「国連中心」「日米同盟」「アジアの中の日本」を柱として言ってきました。これはそれぞれが正しいし、今後も有効だと思います。しかし、これだけでいいのか。日本が世界の中で存在感を持ち、アジアや世界のために貢献できるポジションを得るためには日本外交は何を目指すのかという柱をたてるべきだと思います。
私は麻生元首相が外務大臣のときに副大臣としてお仕えしたのですが、麻生さんはさきほど3つの方針に加えて一つの柱をたてました。それが「自由と繁栄の弧」という言葉です。これは「中国やロシアに対する囲い込み戦略だ」とも言われましたが、決してそのような意味ではなく、地域を限定せず「民主主義」「自由主義」「法の支配」「人権の確立」を目指す国に対して、日本はしっかり応援していこうということです。
90年にベルリンの壁が崩壊し、共産主義国、社会主義国が自由化していきました。それらの国々にはまだまだ先進国にキャッチアップできていない国も多い。そのような国が普遍的な価値の実現を目指しているのであれば、日本は過去に同様の経験をした国ですので、大いに協力しようということです。
中国の今の体制や姿勢にも、これで本当に世界のリーダーになって大丈夫か。お互いに引っ越しできない大事な隣人だからこそ言うべきことを言い、そういう外交方針をしっかり建てるべきだと思っています。
── 次の時代の自民党はどうあるべきだと考えますか?
それまでの自民党は「政権党」と言っていいほど長い間政権の座にあったので、我々が何を目指していくべきかについて立ち止まって考える時間がなかったと思います。日々ルーティンにおわれていて、「今度は何の法律だ、今度は何の予算だ」というものを毎日毎日会議をしたことで「仕事をした」という気分になっていました。しかし、ふと野党になってみると反省点もたくさんあります。今は天が与えてくれた、あるいは国民が与えてくれたいい充電期間で、一方では試練の時でもあります。
この時間を活かしてもう一度自民党が目指すべき国家像をみんなの議論で固め直さなければいけない。政策もあっちの声を聞き、こっちの声も聞いて足して2で割るようなものではなく、効果を狙って政策を打つ先には理念があり、「世の中はこうあるべきだ」という価値観がなければ、政策はつくれないわけです。そこをみつめ直してリニューアルすることが大事だと思います。
── 自民党でも方向性は見えてきたのでしょうか?
たとえば、私は谷垣総裁が言っている「絆」というものが大事だと思っています。戦後の政策はどちらかというと「家族」に遠心力が働くような政策のが多かったように思いますが、昔は一軒の家の中で片付いていたものを、大げさに言うと家族をバラバラにし、それぞれ金を使っている。だけどそうではないのではないか。何も国策で無理やり家族を一緒に住ませるという意味ではなく、家族を構成し、子どもを産み育て、親の面倒をみる人をしっかりと支えていく。家族に求心力が働く政策に戻していく必要があると思う。地域の絆も同じです。目指すべき国の姿を創り出して国民に問うていくことを、いま使命として与えられていると思います。
── 政治家として成し遂げたいことは?
私は、90年にベルリンの壁が崩壊した後の最初の国政選挙で当選しました。いま思うと、世界中にいろんな強い風が吹いていました。政治とカネの問題もありましたが、そうではなく、新しい時代に対応できる政治体制にしなければならないということで、我々は政治改革を一生懸命やりました。当時は石破茂さん、岡田克也さんらと一緒に選挙制度を変え、政界再編が起こり、二大政党になり、いよいよ昨年に政権交代が起きました。野党になったことはとても悔しいのですが、これは日本の政治にとって意味のある出来事だったと思います。
しかし、今は「政権交代が実現してよかった」となっていないわけで、我々も野党として学ばなければならないし、民主党も政権をとってみてたくさんのことを学んでいると思う。やはりお互いが成熟し、選ぶ国民も成熟し、もっと良い政治になって国民が豊かになり、幸せになり、国が栄えていかなければなりません。今はその作業が始まったばかりですので、それを私はやり遂げたい。子供たちや孫たちが心配しなくても、日本の政治はつねに切磋琢磨をし、その時代に応じたベストの選択がされていく。そういう仕組みを完成させたいというのが私の思いです。
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