堕落者さん のコメント
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龍王院弘(りゅうおういんひろし)の身体は、まだ震えていた。
しでの幹に背を預けていなければ、その場にへたり込んでしまいそうだった。
膝が、がくがくとしている。
全身が細かく震えている。
全ての力を、あの一瞬で使いきってしまったようであった。
筋肉に、強い負荷がかかった後、その部位が震えることはある。
もちろん、それもあるだろう。
だが、それだけではない。
恐怖。
それはある。
疲労。
もちろん、それもある。
しかし、その中に、間違いなく混ざっているものがある。
それは、うまく言えない。
言葉にならない。
あの、圧倒的な力に対しての畏怖(いふ)。
おそらくは感動も混ざっている。
そして、自身の肉体への驚嘆。
こんなことが、できたのか。
自分の肉体が、あのように動いたのか。
あのように機能したのか。
間違いなく、自分は、あの時死んで、喰われていたはずだ。
それが、助かった。
思考して反応したのではない。
意志も発動してはいなかった。
無意識のうちに、自分の肉体が動き、あれを避けたのだ。
そのただひとつの動きのために、これまでの、自分の一生はあったような気がする。
苛(いじ)められた日々も、宇名月典善(うなづきてんぜん)との出会いも、そして、あの気の遠くなるような日々の稽古も、まさに、さっき自分の肉体が動いたそのためにあったのだ。
これまで身体と、心に蓄積された哀しみ――
そういうことすらも、この日のためのものであったのだ。
三十数年――
それらの全てを、根こそぎ、さっきの一瞬で使いきってしまったのだ。
そう思う。
今の肉体は、抜け殻だ。
今、息をしているのが不思議なくらいであった。
よくぞ……
よくぞ、生命をながらえた。
そう思っている。
あの獣は、どこへ消えたのか。
あの獣を追って、ツォギェルという男もいなくなった。
どこへ行ったのか。
やつは、何者か。
頭のどこかで、そんなことを考えている。
考えようと、意志して考えているのではない。
どこへ消えたのか、知りたいと思って考えているのでもない。ただ、勝手に頭の中に浮かんでくる様々の想いを、そのまま放置しているだけだ。
月光が、木の間から洩れて、龍王院弘に当っている。
森の樹々が、静かにざわめいている。
さわさわ、
さわさわ、
秋の、湿った落葉の匂いの中に、龍王院弘はいる。
初出 「一冊の本 2013年7月号」朝日新聞出版発行
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