風邪をなかなか追い払えない小飼弾です。なんだか春まで去ってくれなさそうで涙も涸れてしまいました(といいつつもう何十年も泣いていないのですが)。そんな中でも締め切りはやってきます。本ブロマガも含めて。

200 Any Questions OK

Q. 時間に追われたくない

仕事でもプライベートでも、(常にではないですが)分刻みで追われることもあり、時折、「このまま一生時間に追われるんだろうか」と呆然としてしまうことがあります。小飼さんはこうした「時間に追い立てられる」というご経験はありますでしょうか?また、どうやってこの状態から解放されておりますでしょうか?

A. 我追われる、ゆえに我あり

いやあ、「分刻み」で「追われる」と感じるとは、ずいぶんとやわなものですねえ人の心というものは。

体に笑われること、間違いなしです。

我々の心臓は起きているときも寝ている時も一秒とおかず次の一拍を打ちますし、肺はその心臓が五拍打つ間に一呼吸します。「ゾウの時間 ネズミの時間」も指摘するように、人生80年として心臓は25億回、肺は5億回、死神に追われているわけです。

実は私、起床して本稿をしたためはじめる前、まるまる48時間ほど寝床で寝込みうどんになっておりました。その間、心臓は少なくとも18万回(私はやや頻脈気味のようなので20万回超えてるかも)、肺は3万5000回ほど「締め切り」に追われていた訳です。それを一回も落とすことなく私を続けさせてくれるなんて、すごいぞ我が心肺!

と、我が循環器系にのろけるのはこれくらいにして、自律神経が淡々と仕切ってくれる仕事ではなく、自我が仕切ることになっている「人生」という奴の「追われっぷり」を改めて見てみますか。歯磨きと排便、毎日一回程度。食事三回程度。排尿その倍ぐらい…人生とはじめ(と場合によってはおわり)にはオムツとオトナの世話になるにせよ。ただ「寝て起きる」だけでも、我々はこれだけの締め切りに追われ、そしてこなしているわけです。

そうやって日常を見つめ直してみると、追われなき人生はありえないどころか、生きているのは追われることだということに気づかざるを得ません。追いつかれそうになったら逃げる。追いつかれる前に逃げる。それを繰り返すうちに、最後には死神に追いつかれる…

というわけで、いつかは必ず死が追いつくので我々は必ず解放されるわけですが、この解放は到来が約束されている一方、一回こっきりdeath。文字通り最後の手段。あまりに追われるものが多くて大きいと、ついこの最後の「解放オプション」を行使してしまいそうになりますが、それはあまりにもったいない。無料でもらったプラチナティケットに代金を払うようなものです。その日が来るまでお互いに大切にしまっておきましょう。

それでは、その日が来るまで我々はいったいどうやって「追うもの」をしのいで行けばよいか。本題に入る前に、質問をもう一つご覧いただきましょうか。