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Tony Montanaさん のコメント

いい記事でした。ありがとうマサさん!
No.3
70ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト 斎藤文彦 氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」 。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます!  今回のテーマは 「追悼・マサ斎藤さん」 です!  イラストレーター・アカツキさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします! Dropkick「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー ■皇帝戦士ビッグバン・ベイダーよ、永遠に ■ジャイアント馬場夫人と親友サンマルチノ、2人の死―― ■ベルトに届かず…されど「世界に届いた中邑真輔」のレッスルマニアを語ろう   ■ステファニー・マクマホン、幻想と現実の境界線がない生活 ■ロンダ旋風、中邑&ASUKAダブル優勝!! ロイヤルランブル1万字総括 ■アメリカンドリーム、ゴールダスト、コーディ……ローデス親子それぞれの物語 ■ジェリコvsケニー実現で考える「アメリカから見たプロレスの国ニッポン」 ■ 旭日双光章受賞!! 白覆面の魔王ザ・デストロイヤー ■みんなが愛した美人マネージャー、エリザベス! ■職業は世界チャンピオン! リック・フレアー!! ■怪死、自殺、大事故……呪われた鉄の爪エリック一家の悲劇 ■ミスターTからメイウェザーまで! WWEをメジャー化させたセレブリティマッチ ■馬場、猪木から中邑真輔まで!「WWEと日本人プロレスラー」 ■WWEの最高傑作ジ・アンダーテイカー、リングを去る ■『1984年のUWF』はサイテーの本! ■プロレス史上最大の裏切り「モントリオール事件」 ■オペラ座の怪人スティング、「プロレスの歴史」に舞い戻る ■なぜ、どうして――? クリス・ベンワーの栄光と最期 ■超獣ブルーザー・ブロディ ■「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯…… ■『週刊プロレス』と第1次UWF〜ジャーナリズム精神の誕生〜 ■伝説のプロレス番組『ギブUPまで待てない!!』  ■SWSの興亡と全日本再生、キャピトル東急『オリガミ』の集い ■「現場監督」長州力と取材拒否 ■ジェイク“ザ・スネーク”ロバーツ…ヘビに人生を飲み込まれなかった男 ■追悼ジミー・スヌーカ……スーパーフライの栄光と殺人疑惑 ■ドナルド・トランプを“怪物”にしたのはビンス・マクマホンなのか ―― フミさんはマサさんとの付き合いは相当長いんですよね。 フミ  ボクがミネソタの大学に通っていた21歳のときに、マサさんがミネアポリスを本拠地とするAWAに転戦してきて知り合ったんです。かれこれ35年もお付き合いをさせていただいて、マサさんからいろんなことを教わりましたし、ケン・パテラの事件で刑務所に入ったときは冬と春に2回、面会にも行ったことがあるんですよ。 ―― 貴重すぎる経験ですね!(笑)。 AWA時代のマサさんと、大学生時代のフミ斎藤 フミ  ボクが「フミ斎藤」を名乗るようになったのは小学生の頃で、日本プロレスの第14回ワールドリーグ戦にマサさんが凱旋帰国したときからなんです。そのときからボクはフミ斎藤を名乗り、やがて本物のマサ斎藤さんとアメリカで出会うことになるんですね。 ―― 斎藤姓の人間の多くがあだ名やニックネームで「◯◯斎藤」と名乗るきっかけは、プロレスラーのマサさんなんでしょうね。 フミ  マサさんは1942年8月7日生まれの75歳でした。でも、なぜかアメリカのウィキペディアでは2月1日生まれの76歳と書かれていて、アメリカのプロレスメディアやファンのあいだでは年齢に関する議論も行なわれたりしてたんですね。 ―― レスリングで東京オリンピックに出場したマサさんは日本プロレス入りしますが、1年足らずで離脱しちゃいますね。 フミ  日本プロレスの内部の封建的なタテ社会に嫌気が差したところもあったんでしょうね。東京オリンピックから日本プロレスに入ってドロップアウトしたのは2人いるんです。マサさんとサンダー杉山さん。杉山さんは国際プロレスに移籍しますが、マサさんは東京プロレスに移ります。 ―― そこで運命のライバルとなる猪木さんと出会うんですね。 フミ  日本プロレスを追放された豊登さんが、2年間の海外修行を終えて帰国の途中だった当時23歳の猪木さんを誘って東京プロレスを旗揚げします。猪木さんと同じ23歳だったマサさんも、なんの迷いもなく東京プロレス入りしますが、あとになってから話を聞くかぎり「最初からアメリカに行くつもりでプロレスラーになった」と。プロレスラーとしてアメリカに永住するつもりだったそうなんです。 ―― 日本のプロレス界に留まるつもりはなかったんですね。 フミ  興味深いのは、東京プロレス旗揚げ前の準備期間の4ヵ月間、猪木さんとマサさんはハワイでルームメイトだったんですよ。アパートの部屋をシェアしてたんです。 ―― 若き猪木さんとマサさんがルームシェア! フミ  そこの出会いがのちにいろいろと繋がっていくんですが、猪木さんは昭和18年2月生まれ、マサ斎藤さんは昭和17年8月生まれ。学年は一緒なんですがマサさんは最初に会ったときから猪木さんのことを尊敬していたそうなんです。 ―― 同世代から見ても猪木さんはカッコよかったんですね。 フミ  そのときのマサさんのキャリアは1年ちょっとで、猪木さんはキャリア6年の先輩。猪木さんはアメリカで武者修行してきたことで英語がペラペラでしたし、アメリカでウエイトトレーニングやっていたから身体つきもかっこよかった。当時のマサさんはポッチャリとした体型でしたから、猪木さんの身体を見て「俺もウエイトトレーニングをやらなきゃいけない」と思ったそうなんです。 ―― マサさんのウエイト好きは猪木さんから! いろいろと繋がっていきますね。 フミ  ボクはマサさんと1983年にミネソタで出会ってから、マサさんに何度も何度も日本とアメリカのプロレスの話を聞いたことはあるんですけど、猪木さんの悪口を言ったことは一度もないんです。それだけ猪木さんのことが大好きだったからこそ、試合ではタッグを組むのではなくて対角線のコーナーに立ちたかったんでしょうね。 ―― 猪木さんの“ライバル”として存在を示したかった。 フミ  東京プロレスは2シリーズだけで潰れてしまいました。それからマサさんはアメリカに渡ることになりますが、ビザを取るために半年ぐらいブランクがあって。そのあいだマサさんは木村政雄、のちのラッシャー木村さんと半年間ルームシェアをしていたんです。  ―― 猪木さんの次はラッシャー木村さんとルームシェア!(笑)。 フミ  木村さんは1941年生まれで猪木さんより年齢はふたつ上。ルームシェアした2人が猪木さんのライバルとして一時代を築くのは運命的ですよね。マサさんは念願のアメリカに渡りますが、マサさんのアメリカの本拠地といえばAWAというイメージが強いですよね。でも、マサさんがAWAに来たのは1983年のこと。1967年に渡米して16年近く経ってからで、その頃のマサさんはもう41歳なんですよ。 ―― 円熟期の時代だったんですね。 フミ  30代のマサさんが一番気に入っていたテリトリーはフロリダです。気候は温暖で、天龍源一郎、キラー・カーンら日本人レスラーもよく遠征していた土地ですし、試合は毎日あって、車での移動でどこの会場でも日帰りで家に帰ってこられる。でも、一番長くいた場所はどこかといえば、サンフランシスコなんです。いまのプロレスファンからすれば、サンフランシスコはいまいちピンとこない場所だと思いますが、1963年から1983年までの20年間、ビッグタイム・レスリングというプロモーションが活動してたんです。そこでキンジ渋谷という日系アメリカ人とタッグを組むんですが、キンジ渋谷はマサさんより12歳ほど年上で、試合では8割方リングの中にいるのがマサさん。ロサンゼルスでは日本から遠征してきたジャイアント馬場さんとも試合をしてますね。ジャイアント馬場&ジョン・トロスvsマサさん&キンジ渋谷のケージマッチという試合がありました。 ―― アメリカとは思えないほどの日本な組み合わせですね。 フミ  当時の日本人レスラーといえば、ニヤニヤお辞儀をしながら相手を後ろから襲う。いわゆるパールハーバーの奇襲攻撃ですね。マサさんもそれまでの日系レスラーどおりのファイトしていたそうです。後ろから相手の両肩を掴む頸動脈クローや地獄突きを使ったり。 ―― ボクなんかは晩年のマサさんの試合しか見たことないんですが、最初からうまかったんですか?  フミ  そこは対戦相手から学ぶところが多かったみたいですね。たとえばサンフランシスコにはレイ・スティーブンスという名レスラーがいたんですが、ニック・ボックウィンクルさんが「レイは俺の何十倍も才能あった」と。あのニックさんがそこまで褒めるレスラーだったんです。 ―― 天才が褒める天才ですか。 フミ  レイ・スティーブンスは激ウマのプロレスラーがホレるプロレスラーの典型で、コーナーポストに飛ばされたときに逆さまに落っこちてエプロンに立つのはこの人が始めた動き。何か技を食らったあとにペタペタペタ歩いてバタンと前から倒れる。リック・フレアーでおなじみの動きも、レイ・スティーブンスがやりだしたんです。 ―― フレアーはレイ・スティーブンスのフォロワーだったりしたんですね。  フミ  そんな激ウマなレスラーがいて、黄金テリトリーでお金も稼げる。サンフランシスコは最高の生活だったみたいですね。ただ、アメリカの場合はひとつの土地に何年も留まることはできないんですよね。だからサンフランシスコを北上してオレゴンに行ったり、さらに北に向かってカナダ・バンクーバーのジン・キニスキーのマーケットで戦ったり。あの時代のマサさんは相当稼いだみたいで、ゲームセンターのオーナーだったんです。  ―― ゲームセンターのオーナー!(笑)。 フミ  それとサンフランシスコにアパート一棟、所有してたんですね。アメリカでは最も長い期間、活躍した日本人レスラーだったんです。 ―― たしかにほかの日本人レスラーは途中で帰国しちゃいますね。 フミ  マサさんも1979年、つまり昭和54年に1年間だけ日本を主戦場にしていたときがあったんですけどね。新日本プロレスでお正月から年末まで外国人サイドのレスラーとして毎シリーズ参加しました。そのあとはアメリカを主戦場としながらたまに来日にしてたんですが、80年代初頭にはもう一度フロリダに戻り、そこでは素人が挑戦してきたときに相手をする役割なんかもやっていて。 ―― 用心棒だったんですか! フミ  「マサだったら大丈夫!」とプロモーターは任せていたんでしょうね。それぐらいの実力者だったんですね。 ―― 実際に素人が挑戦してくるんですか? フミ  プロレスラーより身体が大きいレスリングの選手や、フットボールプレイヤーたちですよね。あとはプロレスがフェイクだと思ってる人間。そういった連中をマサさんが軽くひとひねりすることで「レスリングはフェイクじゃない」と証明するんです。 ―― 興行の宣伝にもなるんですね。 フミ  これはマサさん本人も語ってきませんでしたが、マサさんがイラスト化されると斜視気味に描かれますよね。じつはマサさんは右目が見えていなかったんです。 ―― ああ……。 フミ  試合中のアクシデントで右目の視力を失ってしまったんです。それも日本プロレス時代というキャリアとしては早い時期に。  ―― そうだったんですか……いったい何があったんですか? この続きと、マサ斎藤、マシン引退、天心vsロッタン、北原光騎、WWEvs新日本……などの記事がまとめて読める 「11万字・記事19本の詰め合わせセット」 はコチラ  http://ch.nicovideo.jp/article/ar1639388 この記事の続きだけをお読みになりたい方は下をクリック!  
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