ついに正式発表されたIGF大晦日大会の小川直也vs藤田和之の大物日本人対決! 「いまさら?」「5年前に実現していれば……」という感想を抱く方も多い中、小川不在の発表記者会見で藤田の野獣節が炸裂。「小川が活躍したっていっても寝首をかくようなことをしただけ(通称“1・4事変”と言われる橋本真也戦のこと)。やるんだったら正面きってやれよという思いで大晦日やります」「普通の競技の試合ではなくての果たし合い、潰し合い。そういう試合にそうなりますね」
一寸先はハプニングのIGF。いったい何が起きるのか。
――藤田選手の自宅から、この九十九里浜はすぐ近くなんですか?
藤田 はい。自宅じゃなくて別荘ですけどね。
――ここには年にどれくらい滞在してるんですか?
藤田 いまはほとんどこっちですね。
――真夏なんかは泳いだり。
藤田 本当に暑いときは……まあ泳ぐときはパラオに行きますよ(笑)。
――そちらも“別荘”みたいなもんですね(笑)。“3・11”以降、このへんの海水浴客はやっぱり減ってたりするんですか?
藤田 ああ、もうサッパリみたいですよ。サーファーはいるんですけど、海水浴客は以前よりだいぶ減っているみたいで。このへんにも(東北からの)瓦礫が流されてきましたからね。
――“3・11”はどちらにいらしたんですか?
藤田 ここです。あのときは立っていられないくらいグラグラ揺れて。「10メートルの津波が来る」ってことですぐ逃げましたけど……。撮影はここでやります?
――このへんでお話を聞けそうな……喫茶店らしき場所は見当たらないですね(笑)。
藤田 いや、ここらへん(砂浜)に座ってやろうかなって。
――じゃあ、ちょっと遠いですけど、あのテトラポットの上で撮影したいので、あそこまで歩きながらインタビューを……。
藤田 いいですよ。行きましょう。
――よろしくお願いします! まず先日のIGF澤田敦士戦は衝撃的な秒殺勝利でした。
藤田 しましたっけ? 試合があんまり短くて覚えてないな(笑)。
――試合後に姿を現わした小川(直也)選手とのやり取りも刺激的でした。そのあとのコメントブースで藤田選手は「小川直也はあいかわらずモタモタしている」と言ってましたね。
藤田 俺が知ってる小川直也とちょっと違っていたんで、そういう言い方をしたんですけどね。俺は昔の新日本にいたときのアイツしか知らないんで。殺気立っていた“暴走王”と言われた小川直也をイメージしていたんですけど、ちょっと違ったから、それを俺なりに言葉にしただけで。
――やっぱり最近の小川選手は……。
藤田 (さえぎって)最近も何も試合をしてないんじゃないですか、いまは。見てないんで詳しくはわかんないんですけど。
――小川選手はだいぶリングから遠ざかってますね。
藤田 あれだけ俺がストレートに言ったのは、あそこまで言わなきゃ本人は気が付かないし、まあそれでも気がついてないんだろうけど。ああいう言い方をしてもやっぱりアイツは応えられなかったでしょ。自分が気がついてない時点でもう劣化している。“裸の王様”だってことなんですよ。それがちょっと歯がゆいところもあったんで、ストレートに言ったんですけどね。まあ、頭の悪い奴じゃないんで、すぐに気がつくと思いますけど。
――藤田選手は小川選手との付き合いはかなり長いですね。小川選手がデビューする96年以前から。
藤田 いや、付き合いは一切してないです。会長(アントニオ猪木)のサポートをさしていただいてるときにトレーニングをやったことはありますけど、それ以外の付き合いはないですね。
――トレーニングだけの接点とはいえ、どんなイメージがありますか?
藤田 柔道であれだけの実績を携えてきた男なんで、やっぱり寝技は怖いですよね。
――では、小川選手と何か会話したことはないんですね。
藤田 ないです。普段しゃべらないから、ああやって好き勝手に言えるんでしょうけど。会っても挨拶ぐらいで。会長とみんなでごはんを食べるとき一緒になったことはあるけど、そんなに仲良くペラペラとはしゃべらないですね。
――小川選手は藤田選手に「同期」という言い方をしてましたけど、藤田選手にはそんな感覚はないんですか?
藤田 いや、結果的には同期なんですけど。新日本の真壁(刀義)さんのように同期かって言われると……。
――道場で同じ釜の飯を食った間柄という感じはしないというか。小川選手がプロレスラーとして名前が売れたのは、ノーコンテストとなった橋本(真也)選手との1999年1月4日東京ドームの試合ですよね。
藤田 あの試合は(橋本選手の)セコンドについてましたね。
――あの試合は従来のプロレスの枠を超えた凄惨なものになりましたが、どのへんで違和感を感じたというか、「おかしい」と思われました?
藤田 おかしいもおかしくないも、俺は会長からさんざん「プロレスはかたちはないんだ」って教わっていたので。あの試合が“そういうことだったのか”ってわかったのは、あとからのことですし。
――あのあと大乱闘が起きても藤田選手は冷静に場を収めようとしていましたが、それは「どんなかたちになってもプロレスラーならやらなきゃいけない」という意識があったからですか?
藤田 そういうことですよね。俺が教わってきたプロレスは。
――そのあと藤田選手は新日本をやめて、リングスに移籍しようとしたじゃないですか。
藤田 はい。前田(日明)さんにそういうオファーをいただいて、条件も良かったし、自分の力を活かせるんじゃないかと思って。
――それはプロとしての選択ですね。
藤田 プロとしてですし、自分がやっていたバックボーン(レスリング)を活かせるところですし。当時はそういうふうに考えて決断しましたね。でも、新日本に入ったときに長州さんから「つまらないプライドはすべて捨てろ。すべてイチからやれ!」ということを言われたんです。いまから考えるとその言葉の意味はよくわかってなかった。だから前田さんからお話をいただいたときに「リングスに行こう」と思ったんでしょうね。
――それはつまり“自分を捨てきれてなかった”と。
藤田 それはそれでまた良かったんだと思いますけどね。あの頃はまだ総合格闘技がいまみたいに大きくなかったじゃないですか。「自分をもっと活かすためにリングスに行きます」ってことを会長にお話をしたら「おい待て。それならPRIDEをやらないか?」と。「どういうことですか?」って聞いたら詳しく教えていただいて。「やれるか?」って言われて「よろしくお願いします!」と。
――でも、そのときはもうリングス入りは内定してたんですよね。
藤田 ええ。会長には「電話で断ればいい」って言われましたけど、ちゃんと前田さんにお会いして謝らないといけないと思って。殴られてもかまわない。誘っていただいて「やる」と決めておいて直前でやめるわけだから。「お忙しいとは思いますけど、お時間があったらお会いしてお話しさせていただけますか」と連絡を入れて。そのときは前田さんは優しく「頑張れよ」って言っていただいたんで感謝してます。前田さんは俺が大好きな大先輩の一人ですね。
……つづきは誌面で!
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