大晦日毎年恒例となっていた、さいたまスーパーアリーナ(以下、たまアリ)の格闘技イベントが行なわれないらしい。なぜ「らしい」と書いたかといえば、正式に「やらない」とはアナウンスはされていないからだが、そもそも「やります」とも発表していない。
そのため取り扱いが厄介なのだが、今年そうそうにたまアリ大晦日を予約している、DREAMプロデューサーにして旧PRIDEの重要人物であった加藤浩之氏が沈黙を保ったままなのである。加藤氏のイベント会社は2001年の大晦日から12年間の長きにわたって、大晦日の同会場を使用し続けてきた。
かつて日本に総合格闘技ブームを巻き起こしたPRIDEは、反社会勢力との関与を疑われて、試合中継をしていたフジテレビから契約を解除されたことで消滅の道をたどることになる。その後、加藤氏ら旧PRIDEスタッフたちは、K-1などを運営していたFEG(谷川貞治代表)と協力してDREAMをスタート。しかし、そのFEGもK-1脱税事件の追徴金やアメリカMMAイベントUFCの台頭によるファイトマネーの高騰により経営が悪化。多額の負債を背負い活動停止に陥って、それに伴ないFEGの格闘技コンテンツを中継していたTBSが必然的に放送を取りやめた。
加藤氏はFEGからDREAMの運営制作を発注されていたが、イベント発足当初から制作費は滞っていた。制作費が支払わなければイベントを運営する義務はない。しかし加藤氏はDREAM存続のため、選手のファイトマネーや会場費等を自らが肩代わりした結果、その額は7億円にも及んでしまったという。現在の谷川氏には支払い能力がないことから「夢の代償」は加藤氏がひとり背負うことになっているのだ。
後ろ盾を失なった加藤氏ら旧PRIDEスタッフはそれ以降もなんとか大晦日開催へとこぎつけてきた。一昨年は大手パチンコメーカーをスポンサーに持つアントニオ猪木のIGFと合体して、昨年は欧州ヘッジファンドのGSIがDREAMのオーナーに名乗り上げバックアップ。GSIは大晦日以降のイベント開催も明言していたが、その約束は一度も果たされることなく、DREAMは事実上の活動休止に追い込まれて現在に至っている。なお今年の大晦日は新日本プロレスにプロレスイベント開催案が持ちかけたが、新日本は年明け1月4日に東京ドーム大会を控えていることもあり見送られた。
たまアリの会場使用権は、前年同日の使用者が最優先されると言われている。つまり大晦日の予約権はこの12年間、加藤氏が優先して抑えてきたわけだが、今年開催できないことでその行方が俄然注目されている。都心からの交通の便も良く、大会規模に合わせて客席数を4段階に変更できる同会場。大晦日となればアーティストやアイドルの年越しライブ開催使用で手を挙げるイベンターは多いことだろう。「やらない」のであれば明け渡すしかない。そして、現在の日本格闘技イベントは、大晦日にかぎらずたまアリは見合わない規模になってしまっている。このまま「たまアリと格闘技」の灯は消えてしまうのだろうか――。
たまアリ前の屋外イベントスペース通称・けやき広場で、ケビン・ランデルマンにKOされたミルコ・クロコップのタオルを頭から被り、嗚咽混じりに泣き続けた10代後半の女の子の姿からPRIDEブームの波を感じた。ミルコの故郷・クロアチアを取材で訪れた格闘技記者がタクシーの運転手に日本から来たことを伝えると「さいたまスーパーアリーナ!」と口にした。格闘技の熱狂の震源地はまぎれもなくあそこだった。
そのたまアリで初めて格闘技イベントが行なわれたのは2000年12月 23日『PRIDE.12』(桜庭和志vsハイアン・グレイシーがメインイベントだった)。主な格闘技イベントのたまアリの使用回数は以下のとおり。
・PRIDE及びPRIDE武士道 21回
・大晦日興行 12回
・DREAM 9回
・K-1 5回
・K-1MAX 4回
・ROMANEX 1回
・戦極4回
・UFC 2回
・シュートボクシング 1回
大規模会場の使用回数としては一番多い。日本のプロレス格闘技文化は首都圏に限定されている面もあるが、数万人が収容可能な大会場には恵まれてるとは言いがたい。主目的が野球場である東京ドームは広すぎて外野席を開放できないためその空白が熱気を冷ましてしまう。西武ドームは遠すぎるし、野球シーズンとの兼ね合いもある。巨大イベントに成長したPRIDEがたどり着いたのが豪華セットも設置しやすく、観客の熱気が充満しやすい、たまアリだった。PRIDEはビックマッチは常にたまアリで行なっていたため数万の客席が埋め尽くされる圧倒的な光景が印象深い人もいるだろう。あくまでテレビコンテンツとして重きにおいていたK-1に求心力で差をつけたのは、たまアリの存在が大きいが、地方キー局の大会主催で全国展開が可能だったK-1と比べて、PRIDEは年に数回の福岡、大阪、名古屋などの自前開催で客入りは芳しくはなかった。PRIDEはたまアリと共に生きてきたといえる。
このようにPRIDEと関係性が濃い同会場ではあるが、じつは格闘技界にとってのターニングポイントはK-1のたまアリで起きていた。01年8月19日「K-1 ANDY MEMORIAL 2001 ~JAPAN GP 決勝戦~」の藤田和之戦でミルコ・クロコップがまさかの大勝利。かませ犬として藤田にあてがわれたミルコがこの一戦を契機にMMAファイターとして目覚める。
03年3月30日「 K-1 WORLD GP 2003 in SAITAMA」のミルコ・クロコップvsボブ・サップもたまアリで行なわれた。当時人気絶頂で格闘家としての幻想もあったサップをKOしたミルコは、この試合を最後にPRIDEへ電撃移籍。エースを引きぬかれ、強さの核を失なったK-1は視聴率至上主義のモンスター路線に向かわざるを得なくなった。あの試合は格闘技界の歴史を変える決闘だった。
そのミルコ獲得からPRIDEの勢いは増していき、小川直也vsエメリヤーエンコ・ヒョードル戦では大会数週間前にチケットソールドアウトというクライマックスを迎えた。PRIDE側は急遽、巨大入場ゲートの真後ろという、まともに観戦できない見切り席を当日発売することにしたが、そんな悪条件の席を入手するため大会2日前から会場前で寝泊まりする熱狂的ファンが現われていた。
熱狂は常識を変え、冷静さを失なわさせる。03年8月、PRIDE初のゴールデンタイム中継となった『PRIDEミドル級GP開幕戦』。英雄・桜庭和志がヴァンダレイ・シウバの前にみたび敗れ騒然とするたまアリのリング上で唐突に「私のお母さんは……」と語りだしたのは怪人・百瀬博教氏だった。真夏の怪談。
真冬の大晦日の寒風吹きすさむ中、たまアリの天井上から開幕宣言、フンドシ暴れ太鼓、タップダンス、ピアノ演奏を披露した高田延彦。現在の芸達者ぶりはたまアリで磨かれた。その高田と共に試合解説を務めていた小池栄子が当時恋人だった坂田亘の試合のみ実況席から外れたときの会場はたまアリだ。PRIDE最終興行『PRIDE.34』、桜庭和志がたまアリに涙の帰還をはたして誇りの歴史は幕を閉じた。ヴァンダレイ・シウバがブラジルからたまアリに向かうため飛行機に乗り込んだときに対戦相手は未定だったが、到着後に一階級上の剛腕マーク・ハントと知らされ、数日後に正面から殴りあった。五味隆典は「大晦日、判定ダメだよ、KOじゃなきゃ」と永ちゃんを気取った。廣田瑞人の腕を折り中指ポーズでリング上を駆けまわった青木真也が翌年には自演乙にKOされ、実況席から魔娑斗が大拍手を送ったのがテレビ画面に写った最後のたまアリだ。
12年にも及ぶ「たまアリと格闘技」の歴史。人それぞれ思い出はあるだろう。一緒に観戦した彼女・彼氏と結婚した人もいるだろうし、有無曲折あって別れた人もいる。01年に生まれた子供はいまは小学6年生でランドセルは使い古されてボロボロだ。大げさにいえば、あの日、あのときのKOシーンを振り返ると同時に自分の人生もプレイバックできる場所でもあったわけだ。
たまアリを見続けてきた筆者の個人的な感想を述べると、会場が巨大な熱気に包まれた最後は、PRIDEの散開イベントとなった『やれんのか!大晦日2007』だと思う。ヒョードルの帰還、高田延彦最後の登壇、罵声を浴びながら花道をゆらりと歩いてきた秋山成勲が三崎和雄の蹴りの前に倒れると、数万人の観客が一斉に立ち上がった。三崎和雄の「日本人は強いんです!」と叫ぶ声を聞きながら、清原和博は秋山成勲の肩を「気にするな!」と叩いていた。
あれから7年間、大晦日とたまアリは関係者の尽力により生きながらえてきたが、いままさにその歴史に終止符が打たれようとしている。あの巨大な祭りは幻のように思える現実がいまそこにあるのかもしれないが、しかし、たまアリにあった熱狂は世界のあちこちから感じることができる。多くのPRIDEファイターが海を越えて向かったアメリカに、正月をシンガポールで迎える川尻達也に。たまアリが途絶えても格闘技のロマンが終わるだけではない。格闘技が続くかぎり、きっと世界のどこかで選手タオルを頭から被り泣き続ける女の子は出てくるはずなのだ。また、たまアリにも。(ジャン斉藤)
P.S. なんと加藤氏は来年の大晦日のたまアリを抑える気満々だという。凄い執念だ!
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