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あつさん のコメント

勉強になります
No.2
48ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト 斎藤文彦 氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」 。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます!  今回のテーマは パット・パターソン です! Dropkick「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー ■ロード・ウォリアーズの衝撃 ■ 日本発世界…コロナ禍の近未来ビジネスモデル ■ 追悼! 佐山タイガー最大の難敵・初代ブラックタイガー ■ WWEが体現する「ウイズ・コロナ」 の時代のプロレス ■全女消滅後の女子プロレス新世界 ■木村花さんはドウェイン・ジョンソンのようなスーパースターになるはずだった ■ 無観客レッスルマニアが生み出した“異常な2試合” ■女子プロレスの景色を変えた女帝・ブル中野 ■マッハ文朱が女子プロレスというジャンルを変えた ■棚橋弘至vsクリス・ジェリコから見る新日本・AEW提携の可能性 ■エンド・オブ・デケイド――プロレス界の2010年代 ■新日本プロレスの“ケニー・オメガ入国妨害事件”という陰謀論 ■WWEvsAEW「水曜日テレビ戦争」の見方 ■WWEペイジの伝記的映画『ファイティング・ファミリー』 ■ AEWチャンピオンベルト盗難事件 ■「ミスター・プロレス」ハーリー・レイスの偉大さを知ろう ■ウルティモ・ドラゴンの偉大なる功績を再検証する ■ネット社会に出現したニュータイプAEW、その可能性 ■都市伝説的試合映像ブレット・ハートvsトム・マギー、ついに発掘される   ■レッスルマニアウィーク現地取材レポート ■平成という「アントニオ猪木が去った時代」 ■アメリカの新団体AEWは脅威になりえるか ■それでもケニー・オメガは新日本プロレスに残るか ■ 【追悼・爆弾小僧】すべてはダイナマイト・キッドから始まった ■プロレス史上最大の裏切り「モントリオール事件」 ■なぜ、どうして――? クリス・ベンワーの栄光と最期 ■“怪物脳”に覚醒したケニー・オメガ ■怪物デイブ・メルツァーと『レスリング・オブザーバー』 ■新日本プロレスのMSG侵攻は「WWE一強独裁」に何をもたらすのか ■怪物ブロック・レスナーを通して見えてくる「プロレスの作り方」 ■追悼・マサ斎藤さん……献杯はカクテル「SAITO」で ■皇帝戦士ビッグバン・ベイダーよ、永遠に ■ジャイアント馬場夫人と親友サンマルチノ、2人の死―― ■ベルトに届かず…されど「世界に届いた中邑真輔」のレッスルマニアを語ろう   ■ステファニー・マクマホン、幻想と現実の境界線がない生活 ■ロンダ旋風、中邑&ASUKAダブル優勝!! ロイヤルランブル1万字総括 ■アメリカンドリーム、ゴールダスト、コーディ……ローデス親子それぞれの物語 ■ジェリコvsケニー実現で考える「アメリカから見たプロレスの国ニッポン」 ■ 旭日双光章受賞!! 白覆面の魔王ザ・デストロイヤー ■みんなが愛した美人マネージャー、エリザベス! ■職業は世界チャンピオン! リック・フレアー!! ■怪死、自殺、大事故……呪われた鉄の爪エリック一家の悲劇 ■ミスターTからメイウェザーまで! WWEをメジャー化させたセレブリティマッチ ■馬場、猪木から中邑真輔まで!「WWEと日本人プロレスラー」 ■WWEの最高傑作ジ・アンダーテイカー、リングを去る ■『1984年のUWF』はサイテーの本! ■プロレス史上最大の裏切り「モントリオール事件」 ■オペラ座の怪人スティング、「プロレスの歴史」に舞い戻る ■なぜ、どうして――? クリス・ベンワーの栄光と最期 ■超獣ブルーザー・ブロディ ■「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯…… ■『週刊プロレス』と第1次UWF〜ジャーナリズム精神の誕生〜 ■伝説のプロレス番組『ギブUPまで待てない!!』  ■SWSの興亡と全日本再生、キャピトル東急『オリガミ』の集い ■「現場監督」長州力と取材拒否 ■ジェイク“ザ・スネーク”ロバーツ…ヘビに人生を飲み込まれなかった男 ■追悼ジミー・スヌーカ……スーパーフライの栄光と殺人疑惑 ■ドナルド・トランプを“怪物”にしたのはビンス・マクマホンなのか ―― 今回取り上げるプロレスラーは、つい先日の12月2日にお亡くなりになったパット・パターソンです。 フミ  あまり知られていませんが、パット・パターソンはアメリカと日本のプロレス史にもの凄い功績を残している存在なんです。しかし、その歴史的な重要性がそこまで認識されていないんですね。 ―― ちょっと前までWWEでビンス・マクマホンの右腕として活躍してましたが、日本のプロレス界にも影響を。 フミ  パット・パターソンは50代以上の、いや、おそらく60代以上の年輩のファン層にとって一世を風靡したプロレスラーとして知られています。1941年生まれ。1945年(昭和20年)に第二次世界大戦が終わったときは4歳ですから、ある意味で戦中派と言えるかもしれない世代です。カナダのモントリオール出身で、典型的なフレンチ・カナディアン。母国語はフランス語で、大人になってからアメリカのテレビを毎日見て英語を身につけたと言われています。パット・パターソンはリングネームで、本名はピエール・クレモントというフランス人然とした名前なんです。 ―― パット・パターソンって本名じゃないんですね。ちょっとビックリしました(笑)。 フミ  アメリカのプロレス界では、ゲイであることを公表した最初の1人なんです。同業者や一部のマニアにはその事実は知られていましたし、日本でもパット・パターソンがゲイだというヒントは活字メディアによって与えられていたんです。公表したのはWWEネットワークがスタートしたときに製作されたリアリティー番組。そこで初めてパット・パターソン本人の言葉でゲイであることが明らかにされました。 ―― アメリカのスポーツ界ではゲイに対する風当たりが強いどころではないですよね……。 フミ  それは差別なんですが、現実にはそういう部分はまだ残っています。NFLやMLBにもゲイは一定数いるはずなのですが、スポーツの世界ではいまだに偏見の対象です。LGBTQに対する理解が高まっている時代だからこそ、ボクたちの認識も高めていかなければいけないと思うんですね。同性愛、性的マイノリティに対して差別的な扱いをすることは間違いですから。ただ、プロレスの場合は、ゲイを公表したことでキャラクター設定やプロレスとしてビジネスが成立するかどうかも問われるんです。ゲイであることとレスラーであること、そしてたとえばヒールであること、リング上のキャラクターとの整合性の面でどうなのか?と。 ―― 見る方も混乱しますよね。 フミ  パット・パターソンにはそういうやや複雑なバックグラウンドがありますが、まず日本との関係からひも解いていくと、アントニオ猪木さんのアメリカ武者修行時代の親友なんですね。 ―― 猪木さんと親友! フミ  猪木さんがアメリカ武者修行に出たのは力道山死後の1964年(昭和39年)。それから2年間アメリカマットで試合をしてたんですけど、オレゴン州ポートランドを拠点としたノースウエスト地区というテリトリーで10ヵ月ぐらい戦っていたんです。そこで一番仲が良かったのがパット・パターソンなんです。猪木さんが21歳の頃ですよ。21歳の猪木さんの姿はちょっとイメージしにくいですけど、一緒の車で会場に向かって、一緒にトレーニングして、一緒に試合をして……その出会いが猪木さんにとって重要になるんですが、猪木さんが新日本プロレスを旗揚げしたときにロクな外国人レスラーを呼べなかったですよね。日本プロレスと全日本プロレスがアメリカのありとあらゆるテリトリーと関係が深くて、新日本プロレスが一流外国人レスラーを呼べないようにブロックした。 ―― 新日本に嫌がらせをしたわけですね。 フミ  そんななかでカール・ゴッチさん以外で最初に新日本プロレスにやってきた一流の外国人選手はジョニー・パワーズ、そしてパット・パターソンだったんです。 ―― それは武者修行時代の繋がりから。 フミ  そうなんです。アメリカ武者修行時代に親友だった事実を隠しつつ、敵に回って戦いつつ新日本プロレスに協力していた。 ―― 馬場さんにブルーノ・サンマルチノやドリー・ファンク・ジュニアがいたように。  フミ  もちろん新日本プロレスにはストロングスタイルの象徴としてカール・ゴッチ先生がいたんですが、アメリカの、とくに西海岸のテリトリーとビジネスをしていくうえでこのパット・パターソンの存在はもの凄く大きかったんです。ちなみに猪木さんが2010年にWWEホール・オブ・フェイムで殿堂入りして、表彰式に出席するためにアメリカに行ったときにパット・パターソンと久しぶりに再会をはたして。ボクもそのときのレッスルマニアを現地で取材したんですが、ホテルのラウンジで2人が一緒に盃を交わしているところを目撃しました。 ―― 貴重な光景! フミ  ニック・ボックウィンクルさんも交えてにこやかに談笑しながら楽しそうにワインを飲んでいましたね。事情を知らないとオールドタイマーがただ歓談してるだけに見えるんですけど、実は深い関係なんです。 ―― 猪木さんが殿堂入りできた背景には大物パット・パターソンとの親交もあったのかもしれないですね。 フミ  アントニオ猪木さんがアメリカでもいかにビッグな存在かというところが凄くよくわかるんですね。パット・パターソンの初来日は日本プロレスの第10回ワールド・リーグ戦。1968年(昭和43年)で27歳でした。力道山時代から続いていたワールド・リーグ戦の記念すべき第10回大会にはキラー・コワルスキーやフレッド・ブラッシー、ジェス・オルテガ、ターザン・タイラーといった歴代の名レスラーたちがやってきて、まだ若かったパット・パターソンは7番手ぐらいの位置でした。2回目の来日は1973年(昭和48年)12月。新日本プロレス旗揚げ2年目ですね。坂口(征二)さんが新日本に合流した年ですが、パット・パターソンの新日本来日には前振りがあって、その年の夏に猪木さんと坂口さんの黄金コンビがロサンゼルスに遠征します。そこでジョニー・パワーズ&パット・パターソン組が保持するNWA北米タッグ王座に挑戦しました。このベルトはのちに新日本の看板となるものなんですが、そのとき猪木さんたちはベルトを獲れずに帰国して、その年の12月にジョニー・パワーズ&パット・パターソン組がNWA北米タッグのベルトを腰に巻いて新日本プロレスにやってきたんです。 ―― ロサンゼルスで前哨戦があったんですね。 フミ  日本でも猪木&坂口の黄金コンビはジョニー・パワーズ&パット・パターソン組に挑戦するんですけど、3本勝負の3本目が反則決着で王座奪取ならず。いまの感覚で考えれば反則絡みということは翌年もパターソンたちを呼ぶつもりだったんだろうなあという仮説が成り立ちますね。 ―― つまり因縁を引っ張ったということですね。 フミ  面白いのはジョニー・パワーズとパット・パターソン組が保持していたとされるこのNWA 北米タッグの王座は、ボクがプロレスマスコミになってからいくらリサーチしても、それ以前の歴史が存在しないんですよ。 ―― えっ!?  フミ  想像するに新日本プロレスとテレビ朝日(当時はNET)がアメリカで最も権威のあるタッグ王座としてプロデュースした。しかもその名称はNWAの3文字までつけて、ジョニー・パワーズ&パット・パターソン組が持っているとすれば、それっぽく見えるじゃないですか。 ―― いわくつきのベルトなんですね。 この続きと、斎藤裕、北尾vsテンタ、斎藤裕、所英男、西良典、スダリオ剛…などの12月更新記事が600円(税込み)でまとめて読める「15万字・記事21本の詰め合わせセット」はコチラ https://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1980138 この記事の続きだけをお読みになりたい方は下をクリック! 1記事100円から購入できます!  
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