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野上彰として新日本プロレスでデビューした AKIRA インタビューシリーズ第2弾(聞き手/ジャン斉藤) 前回はこちら ・新日本プロレス入門、野上彰だった頃/AKIRAインタビュー
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―― AKIRAさんは新日本プロレスでデビューしたあとも今後の不安はあったそうですね。
AKIRA やっぱり、身体の線の細さが気になっていたんですね。しばらく自分に自信が持てなかったです。いま思えばデビューしたからって「これでバンバン行けるぜ!」と自信持って戦っているヤツなんかいないんですけど。
―― でも、あの当時の新日本って入門するのもハードルが高いし、デビューするのも大変で。そこにたどり着いた時点で相当凄いというか。
AKIRA まあでも、UWF騒動だジャパンプロレスだで人間が少なくなっていた時期でしたから。中堅層や若手のホープは軒並みいなくなっちゃってましたからね。
―― 逆にやりやすかった部分もなかったんですか?
AKIRA うーん、ある程度、分別のある上の人がコントロールしてくれて、何かしらのカリキュラムがあって育ててくれるならよかったんですけど……もう猿山みたいな感じでしたからね(苦笑)。
―― ハハハハハハハハ!
AKIRA 2個上の後藤(達俊)さんとかが仕切っちゃうわけだから、もうグチャグチャですよ。
―― 後藤さんは酔っ払うと包丁が投げつけるわけですからね(笑)。デビュー前から巡業にはついて回ってたんですよね?
AKIRA 新弟子時代からついてました。いつだったか、同じ年に入門した船木(誠勝)選手が巡業中に「どっかでデビューさせてやる」という話があったらしいんですけど。そのときに船木選手はリングシューズを持って行ってなかったらしくて怒られたという話がありましたね。
―― つまり、シューズは最初から用意しておかなくちゃいけないんですね。
AKIRA ボクも靴を履きながら練習してたり準備はしてましたからね。当時の新人は、なぜかみんな黒パンツに黒シューズでしたけど。
―― それは「デビューさせるから用意しろ」と言われるんですか?
AKIRA 「ボチボチだから用意しとけ」という感じです。それも全部特注だったんで。当時、新日本にジャージとかを卸してくださっていたスポーツ屋さん、「スワロースポーツ」というお店なんですけど、みんなそこに頼んでました。いまはお店もたくさんありますけど、当時はレスリングパンツなんかはその「スワロースポーツ」さんが仕切ってまして。あの新日本の白線ジャージを作っているのもそこだけでしたから。
―― となると「注文=プロになる」という高揚感もありますよね。
AKIRA いやあ、どうなんですかね。ボクは「よし」というよりも「……大丈夫かな?」という感じだったというか。新弟子で辞めちゃう人だけじゃなく、デビュー後に何試合かやってから辞める人もいると聞きましたんで。
―― AKIRAさんは誰の付き人だったんですか?
AKIRA ボクは2年ぐらい坂口征二さんに付かせていただいて、そのあと3年ぐらい藤浪辰爾さんに付いてましたね。
―― 坂口さんはどんな方でした?
AKIRA 木村健悟さんや藤波さんからはよくお小遣いをもらっていたんですけど、坂口さんはそんなには(苦笑)。
―― あら(笑)。
AKIRA 猪木さんは何かの機会に私物をくれたりすることがあって。お下がりのイッセイミヤケの服を持ってきてくれたりしてましたよ。撮影か何かで1回着たら、もう着ないんでしょうね。合宿所に持ってきて「着ていいぞ」と。
―― 全日本や新日本の付き人は巡業に行くと「洗濯代」と称して、けっこうまとまったお金をもらったりしていたと聞きますね。
AKIRA 藤波さんのお小遣いはその洗濯代という名目ですけど、坂口さんの場合は本当にきっちり洗濯代の額だったりするわけで(苦笑)。
―― 文字どおりの「洗濯代」! 誰の付き人になるかで懐事情は変わるんですね。
AKIRA でも、坂口さんはちゃんと面倒は見たがってた人みたいですよ。坂口さんって石原軍団とかに憧れてたりするんで。大好きなんですよ、渡哲也さんとか。巡業バスの中で『西部警察』だったかな? 朝バスに乗ると、みんなまだ眠いから「寝かせてくれ」という感じなのに、『西部警察』を録画したVHSテープを持ち込んで再生して「バキュンバキュン」とか派手な音させて。藤原喜明さんはよくそれにキレてました。
―― 「うるさいぞ」と(笑)。
AKIRA 藤原さんは後ろほうの席なんですけど、ちょうどスピーカーがあるんですよ。だから、傘の尖ったところでスピーカーを壊そうとしてましたから。というか、壊してましたね(笑)。
―― ハハハハハハハハ! 藤原さんの破壊ぶりのほうが石原軍団っぽい。
AKIRA 坂口さんは石原軍団に憧れていたから、たとえば選手たちを盆と正月は家に呼んだりとかね。まあ、ボクは付き合いが悪いんで、一度断っちゃったんですけど。
―― 副社長のお誘いを断れるんですか!
AKIRA 巡業先で「腹減ってないか? メシでも食いに行こう」と誘われたこともありましたけど、それも断ったことありました。いま考えればとても優しい方だったんですけど、当時は「早く寝かせてくれ」という思いが勝っちゃって「まだ仕事残ってますんで」と。坂口さん、ちょっと寂しそうでしたね。「行きます!」と言っていれば、また違ったレスラー人生だったのかもしれないですけど……そういうところがボクはダメでしたねえ。
―― その後の面倒見も良くなったり。
AKIRA そうですね。坂口さんはその場にふさわしいというか、どちらかというと盛り上がる人を連れて行きますね。酒を飲むのがあんまり好きじゃない人は「じゃあ、いいや」と。そこは気遣いをしてくださる方でした。
―― 試合のほうは手応えを感じつつあったんですか?
AKIRA デビューしてから最初に高揚感があったのは、やっぱり船木&野上組vs安生洋二&中野龍雄組でしたね。
―― UWF勢が新日本に戻ってきたときの。
AKIRA 手応えというのは、あの時期ぐらいからですけど。でも、本当にいまと昔ではプロレスの仕組みが全然違うというか。最初の頃はすべてが手探りなんですよね。
―― いわゆるフリースタイルを超えた勝負というか。
AKIRA こっちのさじ加減で「もうお客さんが満足しているな。これ以上、お互いに出すものないな」って探りながら着地点を見つけたり。
―― それ、ホントに難しい試合じゃないですか!
AKIRA どっちも退かないとなると、試合が永遠と終わらないという。
―― 新日本プロレスの前座が15分一本勝負でドローが多かったのはそういう理由で。
AKIRA 橋本真也選手との試合では腕ひしぎをかけられたんですけど、「ここで終わるわけにはいかない」ってギブアップしなかったんですよ。そうしたら、最終的に腕ひしぎの腕を離してもらえなくて、ヒジを捻挫してしまったということもあったりしましたね。
―― すごいなあ……前田日明さんが新日本前座時代を誇りにしてるのは、格闘技を超えた勝負をしてきたからなんでしょうね。
AKIRA だから緊張感ありましたよ。あの当時、アメリカの有名なスポーツライターが新日本を見にきていて、それを見抜いてました。「前座のヤングボーイたちがそういう試合をやってるから、上の試合が成立するんだ」と。だから上のカードもある程度ショーとして成り立つものが、リアルに写るんだと書いてました。
―― 正直、それはそれで怖いプロレスですよね。
AKIRA いや、怖いですよ。いつ誰がどうなるかわからないじゃないですか。
―― 後年になって小川直也vs橋本真也の1・4事変なんかがありましたけど、当事者でさえ先の見えない試合は前座では普通にあったということですよね。
AKIRA ただ、15分間だけだし、そこまで背負っているものはないので、ダラダラした試合で15分引き分けになることもあったんですけど。ボクはあんまりダラダラしたつまんない試合は見せたくなかったので、そこは妙にお客さんの空気を読みがちで。そのままプロレスをやっていたらまったく成立しなくなるんで。
―― そこで大人の態度を取れるってすごいですよ。背負ってるものがないといっても、相手がUWF勢となると話が違ってくるじゃないですか。
AKIRA やっぱりボクらもデビューして1~2年のわりにはそれなりの意識があったので一生懸命でした。いま思うと、あの頃の一生懸命さというのは、とても素晴らしいことをやってたなと思ったりしますよ。その後のチャンピオンシップの一生懸命さとは、また違った意味があったなと。10代後半だったりするのでフィジカル的にも最高潮ですし、いくらでも動ける身体だし。お客さんに対するサイコロジー的なものはそれほど考えられなくても、身体が続くかぎり動こうとしたことに関しては、もう奇跡的なものを作っていたんじゃないかなとは思います。だから、その思いというのは、何かの取材で安生選手や船木選手と会っても「あの頃が原点だね」という話をしたりしますね。
―― 何かを残した手応えがあったということですよね。
AKIRA ただ、やっている本人は盛り上がりはそんなに感じてなかったし、ただただ一生懸命で。身体や体力で負けちゃいけないということで、その準備のために等々力不動の階段を20往復ぐらいして、本当に一生懸命でした。
―― そういう意味では、新日本の選手って特殊な前座の環境で鍛えられていたわけですね。
AKIRA まあ、そうなんだろうけど、そこは従来のプロレスとは違うものになっちゃいますけど
―― そこは受け中心の全日本プロレスとの違いというか。
AKIRA だから世界基準で言ったら、新日本出身のレスラーと戦う相手は困っちゃいます。絶対に「何この人?」って戸惑ったと思いますよ。
―― いわゆる“固いレスラー”すぎて。
AKIRA 海外修行のときには、みんなそういう経験があったと思いますね。
―― AKIRA選手は海外修行としてヨーロッパに行かれましたね。
AKIRA そうです。坂口さんからは「メキシコだからな」と言われていて、それを断ったことがありました。
―― またしても坂口さんの話を(笑)。
AKIRA いま思えばメキシコでよかったんでしょうけど……メキシコのルチャというのは、約束事で成立するアクションショー的な部分が大きいじゃないですか。
―― 新日本の前座とはまったく違いますよね。
AKIRA つい最近までUWF勢と試合してて、リアルなプロレスを追求している空気があったのに、またそこに行っちゃうのか、と。しかも当時のメキシコは治安も衛生状況も悪かったというか。そういう話を保永(昇男)さんがいつも面白おかしくバスの中で言うわけですよ。「あんなところ行くもんじゃない。行っても一銭にもならなかった」とか。
―― これから行く身としては冗談とは受け取れない(笑)。保永さんもメキシコの経験があるから、あのうまさがあったように思えますけど。
AKIRA ブラック・キャットさんがお膳立てしてくれてたんでしょうけど、それを聞いちゃうと「スミマセン、行きたくないんですけど」と(苦笑)。そうすると、坂口さんも優しい人だから「ああ、そうか」ということで、行き先がヨーロッパになったんですよね。
―― そんなことが許されたんですね(笑)。たしかに当時は格闘技思考が強かったから「ルチャなんて」というムードはありましたもんね。
AKIRA アームドラックですら「どうなの?」という空気がありましたよね。リッキー・スティムボードとかキレイで派手でカッコいいんだけど、それを真似ようとしたら練習すら付き合ってもらえなかったですから。全日本だったらバンバンやったんでしょうけどね。だから、ボクらの世代はあんまりやる人いなかったですし、あってもロックアップでゴロンと自分が倒れて引き込むようなものはあるけどもという。
―― 90年頃にそのリッキー・スティムボードが新日本に初来日してグレート・ムタとのドリームカードが組まれましたけど、お客受けが悪かったですよね(笑)。
AKIRA まあ、いまだったら絶対に面白がれるんですけど、お客さんも巻き込んでそういう価値観になってましたよね。本当、難しいですよ。
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