97017aさん のコメント
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藤原組、バトラーツなどで活躍した 臼田勝美 インタビューシリーズ第2弾です!(聞き手/ジャン斉藤) 前回はこちら
臼田勝美インタビュー「念願のデビュー前に藤原組をやめたのは……」
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―― 先輩たちとの人間関係が原因で、デビューする前に藤原組をやめられた臼田さんは、そのあと正道会館の内弟子になりますよね。ものすごく意外なルートです!
臼田 藤原組をやめた直後は何も考えてなかったですけどね。しばらく練習もやってなかったんですけど、仕事をしながら何かできないかな……と思って。当時の『格闘技通信』の人にも話を聞いたりして、サンボをやろうかなとも思ったんですよ。
―― 当時はサンボが流行ってましたもんね。
臼田 結局正道会館に通うことにしたんです。始めた仕事はケータリングサービスのコック見習い。その会社が渋谷のほうにあって、当時正道会館の東京支部が下落合あたりにあったので、そこだったら通えるかなと思って。
―― 当時の正道会館って勢いがありましたよね。
臼田 ちょうど第1回K-1大会の直前で。正道会館がこの先、プロ化を目指していた感じだったので、やっぱりやるからにはプロという気持ちもあったので。最初は一般会員として通ってて、入会して何ヵ月も経ってないぐらいだったと思うんですけど。仕事が終わってから道場に行って、準備運動をしながら稽古の始まりを待っているときに、事務の女性の方から「大阪の石井館長からお電話です」と。
―― それまで館長と面識はあったんですか?
臼田 一度もないです。とりあえず電話に出たら「来月後楽園ホールで大会あるんやけど、平(直行)くんと総合ルールで試合やらへんか」と。
―― それが1993年3月のK-1サンクチュアリですね。UFCがこの年の11月に始まってますが、日本でもU系やシューティング(修斗)の流れがあって……。
臼田 たぶん入会書に書いた藤原組・練習生の経歴を見たんじゃないかなと。さすがに断りました。そのときは空手も始めたばっかりで白帯だし、なんら実績がないし、それなのに対戦相手が平さんだったから。
―― 当時の平さんは「総合格闘技の申し子」的存在でしたね。
臼田 当時リングスの実験リーグにも出ていたから、いちばん勢いのある時期だったし。いきなり平さんと試合はないだろうなと思って断ったんですよね。「まだなんの実績もないし、お断りさせてもらいます」と。そうしたら次の週ぐらいに今度は大阪の角田(信朗)さんから電話かかってきて、平さんとの試合を口説かれて。
―― 石井館長の次は角ちゃん!
臼田 それもお断りしたら、すぐに館長からまた電話があって「負けたら負けたで、かまへんやんか」と。これはもう断れないなと「押忍、わかりました」と返事しました。そうしたら「いますぐ大阪おいで。住む部屋も全部用意してあるから」ってことで正道会館の内弟子になったんです。
―― 平戦がきっかけで内弟子になったんですね。ちなみに試合はどういうルールだったんですか?
臼田 どうだったかなあ。ロープエスケープはあったと思います。15分3本勝負で先に2本先取したほうが勝ち。打撃は掌底ありだったのかなあ。もしくは首から下は正拳突きあり。平さんに先に2本取られて負けましたね。
―― よく試合を受けましたねぇ。
臼田 ホントはやる予定じゃなかったんですけどね(苦笑)。
―― そこから大阪での内弟子生活が始まったんですね。
臼田 大阪の天馬の駅前に本部道場があって、すぐそばにあったマンションの部屋が寮で。まだその頃は佐竹(雅昭)さんもその寮に住んでましたね。
―― 当時の内弟子はどういう立場だったんですか?
臼田 寮生はアルバイトしながら道場に通うんですけど。正道会館の職員になると、正道の事務の仕事を手伝いながら月謝免除で8万円もらえる。俺は職員だったんですよね。事務の仕事以外には正道会館がやっていたビギンスポーツという格闘技用品店の手伝い。
―― 他の空手道場がビギンスポーツに注文しなくなるから、正道会館がやっていることを隠してたんですよね。でも、電話があると佐竹さんはついつい「はい、正道会館です!」と応対しちゃったとか(笑)。
臼田 ハハハハハハ。ビギンスポーツはけっこう繁盛してましたね。
―― その頃から館長はやり手だったんですね。
臼田 やっぱり館長は頭がキレる人ですし、一度指導してもらったこともあるんですけど。「ローキックはこの間合いだったら、こういう角度で狙って」と下段蹴りを軽くちょこんと当てられたんですけど、ホントに痛くて立ってられなくて。「おっかないな、この人は」って(苦笑)。
―― 初期の正道会館といえば、中山猛夫師範の怪物ぶりが伝説ですが……。
臼田 先輩からは「中山さんにだけはすぐ挨拶に行くように。あの人は笑いながら、平気で顔面に正拳突きを入れてくるから」と(笑)。
―― めちゃくちゃ怖いですよ!(笑)。
臼田 中山さんとはそんなに接触はなかったですね。金(泰泳)さん、田上(敬久)さん、後川(聡之)さんに教わることが多かったです。
―― 正道会館の裏番と呼ばれた田島(晴雄)さんはどうだったんですか?
臼田 田島会長も寮にいたのかな。あとあとなんですけど、元Uインターのヤマケン(山本喧一)と初めて会って話をしたときに、「臼田選手が試合で使ったレガース、田島会長からいただきましたよ」と。
―― ヤマケンさんも正道の内弟子でしたね。田島さんってどうして「会長」って呼ばれてたんですかね。
臼田 いや、わからないです。みんなそう呼んでいたし、そのへんの関係性は途中から入った俺もよくわからなくて。あの頃の正道会館自体が漫画の世界みたいな感じで面白かったですね。みんな明るいし。
―― のちのK-1を支えるすごいメンツが揃ってますよね。
臼田 佐竹さんは明るくて面白いし。ちょうどボクが寮に入って1ヵ月後ぐらいに佐竹さんは東京に引っ越すことになって。荷物の整理の手伝いしてたら、いっぱいエッチなやつが出てきて(笑)。当時テレビや雑誌に出てるあのまんまの感じでなんだなって。
―― 天真爛漫な感じで。
臼田 まだK-1が始まる前ですけど、リングスに出てたときなのでホントにイケイケで。でも、何か気取った感じはなかったんですよね。
―― 佐竹さんはあれからいろいろとありすぎて、格闘技界とは壁があるというか距離ができちゃいましたけど……。
臼田 まあ、ありがちなパターンですよね。べつに格闘技に限らないですけど、いいときは相手からどんどん寄ってくるけど、坂を下り始めると、サーっと誰もいなくなっちゃったみたいな。いま思うと……俺と平さんと試合のあった大会は正道会館が初めて後楽園ホールでやったんですけど。後川さんがスタン・ザ・マン、佐竹さんも外国人と戦って。で、選手たちには後楽園近くのホテルの部屋が用意されたらしいんですけど、ボクは関係者から東京支部の道場に泊まるように言われて。俺は立場的にわかるじゃないですか、入ったばっかですから。だけど、俺が道場に戻ってシャワーを浴びていたら、あの佐竹さんですら道場にやってきて泊まりましたからね。
―― そういうことの積み重ねがあったのかもしれないですね……。第1回K-1も現場にはいたんですか?
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角田の全方位での評判の悪さも安定していて、ここまでくると芸として成り立ってる。
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