この記事は「アントニオ猪木」を語ったDropkickニコ生配信を記事にしたものですが、原型を留めていないどころか、インタビュー形式となっています(語り:ジャン斉藤)
――我らがスーパースター、アントニオ猪木さんがお亡くなりになりました。
斉藤 猪木さんを追悼するニュース記事、SNS、動画の数から、いかにプロレスというジャンルを超えた英雄だったことが伝わってきますよねぇ。ボクの猪木さんの好きな言葉のひとつはこれなんです。ライバルだったジャイアント馬場さんが亡くなったときに「死んだことによって馬場さんが美化されてる」って言ってるんですよね。
――猪木さんらしいですね(笑)。
斉藤 愛弟子の破壊王(橋本真也)の葬儀でも「あの世でも元気ですか?」とコメントを残して物議を醸したんですよ。いまからすると「猪木さんらしい」の一言なんですが、ほら当時の猪木さんって一部のプロレスファンから嫌われていたから……。
斉藤 追悼記事で猪木さんが美化されてるわけじゃないですが、やっぱり猪木さんってダメな部分を含めて面白い方だったので、ズンドコ方面も振り返りたい。さっきの「嫌われていた」という話でいえば、アントニオ猪木のイメージって世代によって違うと思うんですよ。猪木さんの全盛期の試合をリアルタイムで見ていたのって40代後半がギリギリでしょう。よく知らないファンが大半だと思うんですよね。
斉藤 70年代はモハメド・アリと戦ったりプロレス最強を掲げるスーパースター猪木、80年代はIWGP舌出し失神をはじめとするカオスな猪木、90年代前半は政治家にしてリングにスポット参戦して印象を残すキラー猪木、引退後は新日本を苦境に追い込むフィクサー猪木ですよね。この時代はPRIDE人気に乗っかって一般的には「ダーおじさん」化していく。アントニオ猪木のことはよく知らないけど「1、2、3、ダー!!」で盛り上がるみたいな。ただ、プロレスファンからはけっこう嫌われていた。
――アントニオ猪木による新日本プロレスへの強権介入で。
斉藤 そこには誤解もあるんですけど、のちほど説明します。じゃあボクはどの時代の猪木ファンかといえば、プレイヤー時代もそれなりに好きだったんですけど、引退後のフィクサー期が本当に面白かったんですね。猪木さんを中心に魑魅魍魎が跋扈する世界が刺激的で。
斉藤 同時に猪木さんが永久電機とか発明や事業にのめり込んでいる姿も最高だったんです。手前味噌になっちゃいますけど、ボクが所属していたカミプロって、引退後の猪木さんのキャラクター形成において重要な役割を担っていたところがありまして。カミプロからダーク猪木や実業家・猪木の面白さを知った読者も多いと思うんですね。何か事件や問題が起きたときに「さわってねえんですよ」と無責任に言い放つ無責任な言葉をクローズアップしたり。
――猪木さん周辺や新日本からすれば「余計な報道をするな!」って感じですよ(笑)。
斉藤 当時の猪木さんはアメリカに住んでまして、日本とアメリカをファーストクラスで行ったり来たりしてたんです。で、アメリカに帰る前は成田空港のVIPルーム、もう20~30人ぐらい入れる大部屋が使えていた。そこで猪木さんがくつろぎながら記者会見をやってたんですよ。記者会見というか懇親会。成田空港に集まった記者は10名くらいかなあ。そこで猪木さんの独演会が始まるんですけど、話が発明やら政治情勢とか脱線しまくるんです。プロレスの話もするんですけど、抽象的な内容でまとまりがない。それだと記事にしづらいし、媒体によって内容が違ってくることも起こってしまう。
斉藤 それに書けないこともあるでしょう。ある人が亡くなったときも「○○が殺したんだろう」ってブラックジョーク的に口にしたら、さも猪木さんが真実を語ったみたいに伝わったこともあったし、けっこうデリケートな場だったんですよ。トラブルにならないように会見後はマスコミが集まって、記事の方向性を話し合って決めることがあったみたいなんですよね。
――「あったみたい」ってアナタも現場にいたんでしょ?
斉藤 ボクは猪木さんの成田会見番でしたからね。でも、前に松澤チョロさんの記事でも話ししたことがあるけど、当時のカミプロの連中って挨拶もまともにできないから。本当は「カミプロに入りました○○です!」って他媒体の人間に挨拶して回るもんだけど、いっさいやらない。
斉藤 で、成田会見が終わって、記者がみんな集まってる輪にボクも加わろうとしたら、ある記者が「おまえはくるな」みたいに手で払いのけられたんですよ。
斉藤 そりゃあもっともなんですけど、手で払いのけるほうもどうかしてるでしょ。当時のボクは超やさぐれていて、べつに編集者なんていつやめてもよかったので○○○○○○○○○○○○○○○したんですけどね。
斉藤 本当ですよ。で、それでも怒りが収まらなかったから、こっちは好き勝手書いてやるってことで、みんながスルーしていた発明の話から始まり、猪木さんのキツイ新日本批判もそのまま載せることにしたんです。どういう局面だったか忘れたけど「テレ朝、死んじまえ!」とか。
――ひどい発言だけど、面白い(笑)。
斉藤 成田会見は毎回面白くて、往復で3~4時間かかったんですけど、まったく苦にならなかったですね。中でも最高だったのは国立競技場『Dynamite!』直前のやつかな。世紀のイベントについてのコメントを聞くために記者が大集合したんですけど、猪木さんは開口一番「皆さんに大事なお知らせがあります。ついに永久電機の会見を行ないます!」って吠えだしてみんながズッコけるという。
斉藤 このへんの発明ネタって猪木さんの人生を考えるうえですごく重要で。実業家・アントニオ猪木を通して見えてくるものがあるんですよね。猪木さんのお父さんは石炭商をやっていて、猪木さんがエネルギー事業に熱心なのは、そもそもお父さんの血なんですよ。母方のおじいさんも石炭商で財をなしている方ですし。あとお父さんは選挙に出馬中に急死しちゃってるんですよ。
――猪木さんがエネルギーに関心を持ち、政治家を志すのは宿命なんですね。
斉藤 猪木さんは祖父のことを『猪木寛至自伝』でこう語っていて。
「祖父は、よく言えば豪傑、悪く言うと山師的な、スケールの大きい快男児だった。良いときは天下を取る勢いだが、悪いときは無一文になってしまう。とにかく極端なのである」
斉藤 力道山との出会いがプロレスラー・アントニオ猪木の始まりですね。それで日本に戻るんですけども、猪木さんは自らプロレスがやりたくて日本に戻ってきてるわけじゃないんですよね。そこが面白いところ。プロ野球をクビになったジャイアント馬場さんも同じです。自分の居場所を求めた結果、それがプロレスだった。あの時代のプロレスラーはみんなそうなんですけど、好きで始めたものではないこともあって、猪木さんはそのコンプレックスを爆発させることになりますよね。
斉藤 猪木さんは力道山の付き人でしたから。ただ猪木さんはそこは否定気味なんですよ。力道山は不動産に投資する堅実なビジネスであるとしてて。
――自分は堅実ではないと(笑)。
斉藤 まあ猪木さんは力道山に対しては愛憎溢れてましたから、額面どおりのお言葉を受け取れないんですけどね。だって付き人時代の常軌を逸したかわいがり、しごきはホントにキツかったですから。火のついた巻きを身体に押し付けられたり、ゴルフのドライバーで頭をぶん殴られたり。
15万字・記事14本詰め合わせセットはまだまだ続く……