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Tony Montanaさん のコメント

>吉田さんの「落ちた落ちた!」というアピールをレフェリーが真に受けてしまって。

今になってですが、この試合を検証をしてほしいです。
ホイスが落ちてないなら、なぜホールドしてる吉田をスクッと簡単に立たせてしまったのか?
その瞬間は落ちてたからに、他ならないと思うので。
No.5
6ヶ月前
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☆2017年8月に掲載された記事です  大反響だったUSA修斗・ 中村頼永 師父インタビュー前編! シューティング黎明期の知られざるエピソードが続々と披露されたが、後編となる今回はヒクソン来襲編! 渡米した中村師父がグレイシー一族と出会ったことが日本の格闘技界を大きく変えることになる……13000字のロングインタビューでお届けします!(聞き手/ジャン斉藤) 【前編はこちら】 ・「佐山先生に言われたんです。俺の影になってくれと」…中村頼永インタビュー ―― アメリカに渡った中村さんはジークンドーの学校に通ったんですね。 中村  89年1月にアメリカに渡ったときに私がシューティングの人だと知った向こうの格闘技関係者から「グレイシー柔術という連中は誰にでも挑戦してくるから気をつけろ」と注意されたんですよ。 ―― 喧嘩上等のヤバイ奴らだったんですね(笑)。 中村  「クレイジー柔術?」「そうなんだよ。クレイジーなんだよ」と(笑)。アルティメット(UFC)が始まる4年前のことですよ。 ―― まだバーリトゥードの存在が知られてない時期ですね。 中村  佐山先生とは「バリツーズ」について話はしたことがあるんですけど。佐山先生が新日本プロレスにいた頃、イワン・ゴメスというブラジル人のバーリトゥードファイターが留学してたじゃないですか。ボクらは「バリツーズ」とはブラジルの格闘技という認識で「なんでもあり」を意味するとは思ってなかった。 ―― グレイシー柔術とはどういう出会いをしたんですか? 中村  ボクは2つの学校でジークンドーを習ってたんですけど、89年のある日、1つの学校のオーナーが「俺の知り合いにシュートレスリングを教えてくれないか?」って頼まれたんです。向こうではシューティングは射撃を意味するのでボクは普段「シュートレスリング」と呼んで説明していたんですね。その知り合いの人に2〜3時間丁寧にシューティングのグラウンド技術だけを教えていたら、最後にオーナーが「じゃあ2人でスパーリングをやってみて」って言われて。スパーしてみたら寝技がとにかくしつこかったんです。シューティングは当時寝技30秒ルールだったり、膠着したらブレイクで、積極的に速攻で極めないといけないからポジショニングの考えがなかったんですね。 ―― ポジションの概念が広まるのはUFC以降ですね。 中村  ポジションを取ってバランスを取って、ちょっとずつ崩して極めるのは30秒じゃとても足りないですから。でも、その人はいまでいうガードポジションを取ってジワジワと攻めてくる。「変わったペースで攻めてくるなあ……」と思いながら、ボクは相手の攻めをすべてブロックしてたんですよ。ボクたちも下から極める関節技のトレーニングをたくさんしてたので防御は知ってて。あのスパーはギじゃなくてTシャツでやったので、Tシャツを着た汗まみれのドロドロした戦いはボクのほうがうまかったので、最後は横四方固めをとってから手で肩を掴んで前腕で首を絞めたんですね。それで相手はタップ。 ―― そして、その相手の正体は……。 中村  じつはその人はホリオンの道場の黒帯のちょい前の人間で。当時のホリオンのところにはヒクソンもホイスもいますからね。 ―― 知らないあいだにグレイシーの使い手とやらされていたんですね。 中村  そのオーナーは「誰と誰をやらせたら面白いか」みたいなことをやらせる人なんですよ。でも、やらせる前にボクのほうの種明かしをさせるのはね(笑)。こっちは相手が何をやるか知らないですから。 ―― グレイシーは当時は未知の格闘技ですもんねぇ。 中村  一本取ったことで何が起きたかというと、オーナーとダン・イノサント先生(ジークンドー最高師範)が評価してくれまして。アメリカの格闘技界隈でも話題になって、ボクが格闘技雑誌の表紙になっちゃったんですよね(笑)。 ―― 日本から凄い格闘家がやってきた!と。 中村  巻頭特集もされて、アイドルみたいにピンナップになったり、シュートレスリングという技術本も出すことになったんです。向こうは実証すると認めてくれる人種なんですね。そこからボクのシュートレスリングのクラスにいろんな人が来るようになって、アルティメット出場前のホイスも見学に来たんですよ。 ―― メジャーデビューする前のホイス! 中村  当時はホイス・グレイシーと言われてもピンとこないですから「ああ、この人がグレイシー柔術の人なんだな」って感じで。向こうは「いつか戦うんじゃないか……」って青白い炎を燃やしてたんですよ。フレンドリーじゃないというか、あきらかにバリアを張ってるんです(笑)。 ―― ギラギラしてたんですね(笑)。 中村  そうこうしてるうちにヒクソンもやってきたんです。 ―― おお! 中村  ヒクソンはボクと同じ89年にブラジルからアメリカに渡っていて。アメリカの永住権を取るには何人かのサインが必要だったんですね。ボクのクラスに来てる生徒の中にはヒクソンの道場に通ってる子もいて、共通の知人がいたこともあって、イノサント先生がヒクソンの身元引受人の一人になってくれることになったんですよ。ダン・イノサント先生には確固たる地位がありますから。 ―― ヒクソンの身元引受人がイノサント先生。 中村  その御挨拶でヒクソンがイノサントアカデミーを訪れて、一緒にご飯を食べに行ったんですね。ヒクソンとはそこからの付き合いなんです。当時はまだチョンマゲ頭の冴えない兄ちゃんって感じですよ(笑)。強いんでしょうけど。 ―― その出会いがヒクソンの日本登場に繋がっていくわけですね。 中村  そうなんです。93年に織田無道さんがシューティングのスポンサーになって賞金を出してくれて第1回オープントーナメントをやるんですけど。それまでシューティングのリングは8角形だったのに6角形になったんです。なぜかというと、織田無道さんのマークが6角形なんですね。 ―― そんな理由が!(笑)。 ・織田無道トーナメントに出るヒクソン? ・骨法を崇拝していた格闘技通信 ・アントニオ猪木vsヒクソンの幻の賞金マッチ ・ヒクソンvs安生洋二道場マッチの裏側 ・長州力戦でフェイクを持ちかけた新日本……13000字インタビューはまだまだ続く! この続きと馬場元子、長井満也、“Show”大谷泰顕、曙、AKIRA……などの5月バックナンバーが450円(税込み)でまとめて読める「 8万字プロレス記事詰め合わせ 」セットはコチラ https://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar2200075 この記事の続きだけをお読みになりたい方は下をクリック!1記事200円から購入できます!  
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