超人ミウラマンさん のコメント
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齋藤彰俊 インタビューは プロレスラー引退 です(聞き手/ジャン斉藤) 【 齋藤彰俊バックナンバー 】
①「名古屋の街の風紀を正していた高校時代」
②「W★ING参戦、新日本プロレスvs誠心会館」 ③「新日本プロレス道場で過ごした日々」 ④「平成維震軍の愉快な仲間たち」 ⑤伝説のバー『ココナッツリゾート』はこんな店だった ⑥令和に“昭和”なプロレスラーたちはどう生きるか ⑦ダーク・エージェントの戦いは真剣勝負だった ⑧2009年6月13日、三沢光晴さんのこと
⑨ クビから再雇用……苦しかった頃のノア
―― この取材前に、中京高校の同期である松永光弘さんのお店『デンジャーステーキ』に行かれていたとか……。
彰俊 あっ、来週の予定です。
―― あ、そうなんですね。引退に向けて各方面でいろんな方に会われて、ご自身のルーツを探る旅をされてるというか。
彰俊 そうですね。いままであんまり忙しくなかったんですけど、引退が決まった途端、忙しくなって(苦笑)。
―― しばらくぶりにお会いになった方もいらしたんですよね。
彰俊 あー、越中(詩郎)さんは久しぶりでしたねぇ。でも、一番久しぶりだったのは、これは引退とは関係ないんですけど、小林(邦昭)さんのお葬式のときに坂口(征二)さんの奥さんですね。
―― 引退が決まったあとに縁の深かった小林さんがお亡くなりになって。
彰俊 ビックリしました……。亡くなったことは小林さんの娘さんから連絡があったんですけど、病気のことは本当に身近な方以外にはあまり言ってなかったみたいで。佐山(聡)さんとはしょっちゅう連絡を取ってたみたいです。返信が来なくなったときがあったらしくて、「もしかして」と思ったら……と。
―― 小林さんと最後に会われたのはいつぐらいですか?
彰俊 小林さんとは、どのぐらいですかね……。どこかで一度お会いしたんですけど……。自分は98年から2年間ほど、ハングリー精神を取り戻すということで、リングには一切近づかない時期があったんです。自分がプロレスラーということも一切、周囲には触れないような生活で。
―― 地元・名古屋に戻ってバーを経営されたり、産廃関連の仕事をされていたんですよね。
彰俊 その時期に小林さんの引退試合が後楽園ホールであったんですよ。そのときだけは私服でリングに上がらせていただきました。
―― 小林さんとの抗争がきっかけで彰俊さんは大ブレイクされましたし、それぐらい大事な方だったということですね。
彰俊 そのあと小林さんとは平成維震軍で一緒にやらせていただいて。リング外の小林さんは優しかったですからね。ご自宅に遊びには行ってましたんで……本当に残念ですねぇ。
―― いろんな媒体でもお話されてると思いますけども、引退しようと思った決め手はどういうものがあるんですか?
彰俊 引退する理由は……2009年6月13日、三沢光晴社長との試合(バイソン・スミス&齋藤彰俊vs三沢光晴&潮崎豪)ですね。あの4人の中で、いま現在プロレスをやっているのは、自分と潮の2人だけなんです。あの頃、三沢社長が潮をなんとかしたいという気持ちはすごい伝わってきてたんですね。
―― 潮崎さんにノアを背負って立つレスラーになってもらいたかったと。
彰俊 そのあと潮がGHCのチャンピオンになったときに日本武道館で挑戦をしたことがあったんですけど。潮と戦いながら何かを伝えなければ、という思いはあったんです。ただ、いつも潮がチャンピオンで、自分が挑戦者という構図。かなり遅くなりましたけど、今年になってなんとかベルト(世界ヘビー級王座)を取って、潮が挑戦者ということで。前は自分が負けて、3カウントを聞いて日本武道館の屋根を見上げて感じるものがあったので、逆に潮にその風景を見せて何かを感じ取ってほしかったんですけど、結局また自分が見ちゃってね(笑)。その潮とは面白いもんで、「チームノア」というノアを謳ったチームのメンバーとして一緒にやっていて。引退をするのは、いましかないな……って思いましたね。 ―― キャリア33年目のシングル初タイトルの防衛戦には、そんなドラマがあったんですね。 <まだまだ続く>
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小林邦昭が後のサクラバアームロックを使ってた記憶…Uの技も原点は新日道場にありと言いますか。
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