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タカハシさん のコメント

小泉さんの記事や柳澤さんの著作を読んで共通するのは、『Gスピリッツ』の清水さんもおっしゃっていた「プロレスの教科書の書き直し」ではないかと。我々おっちゃん世代ももういい歳なので「だまされてた!」ではなく、「あ、そういうことだったのね」と新鮮な驚きとして受け入れられるという意味で、いいタイミングで改訂作業が始まっているのかなと思うし、小泉さんのような方たちの研究が広く目に触れられるような現状は素晴らしいですね。
No.1
120ヶ月前
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OMASUKI FIGHTさんやオレンジさんといったプロレス格闘技ブロガーがコラムを連載中のDropkickメルマガ。ほかの有名ブロガーさんの生態にも迫ってみようということでスタートした「 アナタはなぜブログを更新するのか」。 「多重ロマンチック」主宰の漁師JJさん に続く第2弾は 「プロレス桃源郷へのいざない」小泉悦次さん です。クラシックなアメリカンプロレスを追いかけ続け、『Gスピリッツ』にも寄稿する小泉さん。プロレス考古学の道を探ります。 ☆ 山本宜久 17000字ロングインタビュー、 ジャンボ鶴田 物語、地下格闘技インタビュー、他コラムが掲載!!  入会すれば今すぐに読める 12月度更新記事一覧  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201412 ☆非会員でも購入できる「大好評インタビュー詰め合わせセット」シリーズ一覧 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar672043 ―― まず小泉さんの年齢とプロレスを見始めた年を教えてください。 小泉  今年( 2014 年)で満 54 歳です。プロレスを初めて見たのは 1968 年の 8 歳 の夏で、テレビで馬場 vs ボボ・ブラジルを見たんですね。 ―― 75 年生まれのボクからすると、馬場 vs ボボ・ブラジルは神話の世界ですね(笑)。 小泉  ブラジルがロープに首を挟まれて …… と、いま振り返るとずいぶんと情けない試合なんだけど、当時はかなり盛り上がってたんですよ。猪木さんがワールドリーグ戦で優勝する前の年。ジャイアント馬場全盛の末期。あの人はね、全盛期があったんです(笑)。 ―― 68 年が馬場全盛の末期ですか。 小泉  辛うじて全盛期だったかなあ、と。馬場は衰えてからが長すぎたんですよね。商売上、それでもトップに居続けることは仕方なかったんですけど。 ―― 全盛期を見ちゃうと、その後の馬場さんは物足りないですか? 小泉  少しづつ衰えていったから気が付かないんだよね。スピードにしても体型にしても。柳澤(健) さんの 『 1964 年のジャイアント馬場』じゃないけど、アスリートとしては 64 年 あたり が絶頂期だったんじゃないですかね。その頃の馬場の試合は見ていないから、なんとも言えないですけど、情報を拾っていくかぎりでは、当時何人かいたトップのひとりですよね。 トップというのは NWA のルー・テーズ、 WWWF のブルーノ・サンマルチノ、 AWA のバーン・ガニア ら世界王者、 チャンピオンじゃないレスラーでフリッツ・フォン・エリック、ディック・ブルーザー らまでが含まれた 中で。 ―― その頃はどうやってプロレス情報を入手してたんですか? 小泉  本ですよ、雑誌。『プロレス&ボクシング』と、あと『ゴング』が創刊した年なんですよね。あたりまえのように 2 つプロレス雑誌があったんだけど、ひとつは創刊したばかりだったというね。当時は街の本屋さんが多かったから、立ち読みです。子供でお金がなかったから立ち読みで暗記する。 ―― 新聞のプロレスの扱いはどうだったんですか? 小泉  新聞の扱いでいえばね、スポーツニッポンが大きかったんですね。あとから『東スポ』もプロレスを扱ってるということを知ったんだけど。 スポーツニッポンを取り扱う 毎日新聞の販売店が近所にあって、テレビで試合を見て感動した翌日に買いに行くとかね。 ―― テレビに新聞とプロレスが身近にあった時代なんですね。 小泉  ボクの場合はプロレス以外の娯楽も一挙に来たんです。 68 年 11 月末 から 12 月にかけて東京 12 チャンネルで女子プロレスとレトロのプロレスアワー、 そして ローラーゲームがスタートしたのかな。相撲、野球、ローラーゲームのファンになったんだよね。 ―― 昭和娯楽の集中豪雨という。 小泉  小学生 2 年だったんですけど、それって男の子が漫画から現実のヒーローに興味を持つタイミングなんですよね。ちょうどウルトラセブンがつまらなくなり始めたときで。なんだか理屈っぽくなってさ。 ―― ウルトラセブンは深い話が多かったですね。 小泉  子供には重い話で、ウルトラマンにあったシンプルな魅力がなくなちゃって。そこで飛びついたんがプロレスや野球なんだよね。 ―― とくに野球は国民的スポーツでしたね。 小泉   ON (王貞治、長嶋茂雄)に江夏(豊)、村山(実)。アニメ『巨人の星』が土曜日にテレビ放送していた影響も大きかったでしょうね。 ―― いまも昔もテレビの力は大きいんですねぇ。 小泉  テレビの翌日は学校でもプロレスの話題でもちきりだから。学校が終わったら空き地でプロレスごっこをやってね。三本勝負で結末は決まっているけど、 先輩とやるときは 低学年は一本は取らせてもらうんですけどね。近所に子供をかわいがるお婆さんがいて、裁縫の片手間にデストロイヤーっぽい覆面を作ってくれたり(笑)。 ―― 当時のプロレスはそこまで世間に根ざしていた文化だった、と。 小泉  あと講談社から『ぼくら』という少年雑誌が出ていて。そこに『タイガーマスク』を連載してたんですけど。その『ぼくら』の付録に名刺サイズの小冊子がついていて、プロレス豆百科だったときがあったんです。それを夏休み中、繰り返し繰り返し読んでおぼえまくって。小学 2 年の夏休みが終わった段階で、プロレス 4 団体のチャンピオンの名前はすべて言えたし。覆面レスラーや事件史とかも書いてあって。ビル・ミラーとカール・ゴッチが控室でバディ・ロージャスを殴ったという事件も豆百科に載ってるわけですよ。当時はカール・ゴッチの評価は高くないので、ビル・ミラーの功績として扱われているんだけど。「なかなか挑戦を受けないバディ・ロジャースを控室でめった打ちにした」と(笑)。 ―― 実際は興行戦争が原因なんですよね(笑)。当時は私設ファンクラブも多かったと思うんですけど。 小泉  ファンクラブはね、中 3 のときに全日本プロレスの私設ファンクラブに入ったんですよ。 ○○○ という名前のね。会費を送ったんだけど、まあ梨の礫だったよね(笑)。 ☆このインタビューの続きと山本宜久、ジャンボ鶴田物語、木村フリップみのるなど、7本のインタビューが読めるお得な詰め合わせセットはコチラ  
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