かつてはPRIDEやDREAMの運営に携わり、格闘技界一の読書家として知られる笹原圭一氏がお送りする書評コーナー。今回取り上げる本は偽書「東日流外三郡誌」事件です
歯痛くて、歯痛くて、震える~♪ 虫歯カナ? と案じている笹原です。
というわけで歯痛におびえながら、復活書評三回目をお届けしますよぉ!
と、力んで宣言してみましたが、昨今の格闘技やプロレスの動きに背を向けるように、淡々と読んだ本の感想なんぞを書いていて良いのでしょうか。
正直申し上げて最近の格闘技の試合はほとんど見ておらず、どうにかツイッターやニュースで追いかける程度。あかんではないか、と思いつつも、先日の金村キンタロー選手のインタビューとか、小佐野さんの全日本プロレスの話しの方に興味をそそられる。
平田選手のインタビューを読めば、お前は平田だろう!いやピラタ・モルガンです、と眼帯をしてふざけていたことも思い出し、記憶にまどろんでいる自分がいるわけです。
昔のレスラーたちはトンパチで、豪放磊落なエピソードが満載で面白い。
過ぎ去った歴史を振り返り「あのときは、実はこうだった」という真実が垣間見えるから。
ということなのでしょう。
そうそう、あとは「総合格闘技が生まれた時代」シリーズのインタビューも、実に興味深い。
90年代後半の話しは、少なからず私自身も当事者だったわけですが、「夜明け前」というか、明治維新のような熱があったんだなぁと、改めて感じ入ってしまう。時代が変わる瞬間の放熱は、そこに関わる人間の狂乱の大きさと比例します。その狂乱に身を置いた人達のインタビューが、面白くないわけがありません。
そして、これらが実に楽しく読めるのは、そのエピソード自体の面白さだけでなく、語り手が「話しを盛っているから」ということもあるのでしょう。もちろん、それがけしからん!とは全然思いません。同じ事実であっても、語り口の巧拙によって面白さは変わってきます(インタビュアーの腕もあるでしょう)。記憶は、当然当人のバイアスがかかっているので、一つの事件や出来事を語っても、そこには個性が立ち昇ってくるわけです。
でも、ほとんどの人は、過去や思い出を話す際に、自分の都合の良いように語った経験をお持ちなのではと思います。
敷衍して言うならば、人間というのは記憶や過去を意識的にせよ、無意識的にせよ、脚色したり、改変したりする生き物といえるかもしれません。
ちょっと話しが飛びますが、皆さんは昨今話題の「江戸しぐさ」ってご存知でしょうか。
ざっくり説明すると、江戸時代に庶民のあいだで使われていたとされる生活マナーのことです。例えば「傘かしげ」であれば、雨の日に傘を差して通り過ぎる際に、お互いが濡れないように傘を外側に傾けて通り過ぎていたそう。
この江戸しぐさは、道徳の教科書に採用されたり、テレビ番組やCMで紹介されたりして、「現代でもこういった江戸時代の人々のような心づかいをしましょう」という、教育的・道徳的な後押しとともに流布されました。
が、これは全てデタラメのようです(江戸しぐさでググると、色々出てきますので各自調査を!)。破壊王が火事の家のなかに飛び込んで、おばあさんを助け、名乗る程の者じゃありません、と言って立ち去ったようなデタラメ的伝説ならば楽しいのですが、こういった歴史の捏造って、何故生まれるのでしょうか。