リジーさんは病が原因で辛い経験を何度もしてきました。でも「自分自身を決めるのは他人ではなく、自分自身であるということを」と言います。
そんな彼女の生き方に感動したので、皆さまにご紹介させて頂きます。
この記事はSmile Shine! 輝きと共にさま、アカデミー学院さまを参考にさせて頂きました。ありがとうございました!
産まれた時の体重はわずか950g
テキサス州サンアントニオ市で生まれて、4週間の早産でした。母親のリタさん(45歳)はデイリーメール紙に語っています。
「医師たちは、この子がどうやって生き延びるか想像もつかなかったと言いました。ベビー用品の服は大きすぎて、おもちゃ屋に行って人形の服を買わなければなりませんでした」
医師はリタさんと夫のルーペさんに警告しました。
「あなたがたのこの一番上のお嬢さんは一生歩いたり、話したりすることはできないでしょう。ましてや普通の生活など送ることはできません」と。(彼女のふたりの弟妹は同じ症状を患うことはありませんでした)
ところがなんと、彼女は成長したのです。身体は本当にとても小さいのですが、内臓も脳も骨も普通に成長しました。
リジーさんが行動したきっかけ
幼稚園に入園したリジーさんは他の子どもから怖がられたり、嫌われたりしました。でも両親は障害者や病人としてではなく、普通の子どもとして彼女を育てました。
リジーさんは自分は普通に振る舞うのですが、周りの反応はやはり普通とは違いました。
もう少し育ったある日、自分の顔が「世界で一番醜い女性」としてインターネットに投稿されてしまった。そして、そこにはものすごい数のコメントが書き込まれ、Lizzieを苦しめた。
「頼むから頭に銃を当てて、死んでくれ!」
この苦しみがLizzieをトコトン考えさせた。
「私って何なんだろう?」
そしてLizzieは気づいた。自分自身を決めるのは他人ではなく、自分自身であるということを。
リジーさんは4つの目標を立てました
- モチベーションスピーカーになる
- 本を出版する
- 大学を卒業する
- 家族と仕事を持つ
モチベーションスピーカーとなって数年、リジーさんは200回以上もセミナーを開き、「自分のユニークさをありのまま受け入れる」、「いかにいじめに対処するか」、「試練を乗り越える方法」などのテーマで話をしています。
リジーさんは冒頭から辛い体験談をユーモアたっぷりに話し、聴く人を引きつけます。他人にひどい態度を取られたら、右側に立ってもらうようにする(右目を失明しているため、右側は見えないそうです)とか、ダイエット食品会社ウェイト・ウォッチャーズやスポーツジムのイメージキャラクターになりたいと言って聴衆を笑わせます。
「私は本当に困難な人生を送ってきました。でも、それでもいいのです」、「自分の外見ではなく、目指す目標や成功、成果によって自分の価値を決めるつもりですから」とリジーさんは語ります。
How Do YOU Define Yourself Lizzie Velasquez at TEDxAustinWomen
※字幕付きの動画がないので、YouTubeの自動字幕機能をオンにしてご覧ください。
リジー・ベラスケスさんのインスタグラムはこちらです。
【参照元:Smile Shine! 輝きと共に/アカデミー学院/HUFF POST】
コメント
コメントを書く多感な時期に差別的な態度をとられるのは辛かったろうとは思うな。そこから他人の価値判断基準なんて所詮はクソって真理を悟れたのは幸運だったと思うよ。よく社会的弱者を蔑視する人間が存在するけど、それって大昔の顔も見たことのない赤の他人が作り出した価値基準でしかないんだよね。美人の基準が平安時代と現代では違うように、人としての価値も稼得能力で決まるわけじゃないということが今の世界的な不況の時代でも理解できないレイシストが多過ぎる。
「自分のユニークさをありのまま受け入れる」「いかにいじめに対処するか」「試練を乗り越える方法」<ただ、この人は他人の価値基準という呪縛から抜け出せたのはいいけど、結局「能力主義」「能力信仰」に陥って、それで全ての問題が解決すると勘違いし出したみたいだね。他人の「美醜という判断基準」から「能力という判断基準」に変わっただけ。その価値観じゃあ社会的弱者である障害者なんかは結局救われない。大事なのはこの世で最も価値がある人間は自分自身だけであって、他人なんて所詮は自分の人生の添え物でしかないという意識。極論人間なんてみんなエゴイストなんだから、自分が社会のお荷物であろうが、そう感じる連中にとって不利益だから利己的にそう判断してるだけに過ぎないのだということを知るべき。努力信仰という他人の価値基準を捨て去ることも大事。
「自分の外見ではなく、目指す目標や成功、成果によって自分の価値を決めるつもりですから」<この発言に能力信仰の全てが詰まっているね。
何言われても動じない程強く生きるって誰にでも出来ることじゃないよね。
だからこそ大多数の人間は攻撃対象にされないように、社会の中で予め決められた価値観から大きく逸脱しないように生きてるわけで。彼女のような人間は生まれつきそれが難しかったろうから、そういう状況を打破する為にこういう考えを持つことは有効だしこの上ない強みになる筈。ただ、彼女と似た境遇にいながらそれが出来ない人はどうすればいいかってとこまで考えた時、結局それだけじゃこういう人達が理不尽被り続けなきゃならない世の中の根幹は変わっていかないんだよなぁという思いもあるっちゃあある。
俺が危惧するのは能力信仰に目覚めた人間が今度は自分が差別する側にならないかってことですね。実際そういう事例には枚挙に暇がないですから。正直言って、社会へ与える弊害を考えると能力信仰は否定しても問題ないように思えます。だって差別しか生み出さないでしょう?
「自分にできること」に価値を見出す生き方は素晴らしいなあと素直に思う。美しい事が価値と思って生きる人だって居ていいと思う。障害などで話すことも歩く事も出来ないけど意識はしっかりしている、という人がどこに価値を見いだせるかって所かなあ…いやそもそも「価値」がなければ生きてちゃいけないのか?っていう問題になるのかな。
とりあえず五体満足な自分は出来る事が沢山あるんだから、自分の価値探して生きようかなと思えた。
もちろん自分の能力に誇りを持つこと自体は悪くないが、能力こそ至上価値として他人を見下す「能力(至上)主義」に陥ったら人間として終わりだよね、っていう話。
人の外見を面白がって「世界で一番醜い女性」と勝手に投稿する奴といい
「頼むから頭に銃を当てて、死んでくれ!」とコメントするやつといい
よくそんな事が平然と言えるな・・・信じられない
他者の気持ちとか痛みがわからない人間にはなりたくない・・