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聖夜の長文
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聖夜の長文

2017-12-25 04:20
    もう年末だね!メリークリスマス!ぶうです。

    いつの間にかバンド結成12周年を迎えていて、二順目とも言える13年目に突入している2017年!

    ボクには全然世の中の動きが見えてません!!(笑)

    社会との繋がりが皆無!!
    浮世離れしていると言っても過言でないザ、バンドマン生活でございます!!
    (それができているのもいつも応援してくれている皆様のおかげ!本当にありがとうございます!)

    なので今年はイヴになってもまったくクリスマス的なもの、
    椅子を買ったり、雨が夜更け過ぎに雪へと変わったり、マライアがキャリったり、
    そうゆう歌とか、イルミネーションとか、
    本当にまのあたりにしていないのですが、
    世間じゃいつも通り盛り上がってるんですか?
    もしやいつの間にか下火になってたりします???

    とりあえずイベントごとは触っておくかって感じで、
    鶏肉をお腹いっぱい食べてみました(笑)

    美味しかった!です!

    けど、やっぱり型にはまって「せめてチキンを」なんてやってみたところでなんか物足りないですね(笑)

    街がちゃんとアホみたいに浮かれたクリスマスムードかましてるといいのだけれど…
    聖人なボクとしては、せめて今日くらいはそうあって欲しいなー。みんな満たされていて欲しいなーと、そう思います。


    世の中には「キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うのはおかしい(うかれるな!みっともない!)」とゆう意見を、おそらくは中二病をこじらせた嫉妬から発言する人がおります。
    思い返してみれば私もそんなことを言っていた時代があったかもしれませんなー(笑)

    がしかし、
    祭となればどんな形だろうと楽しんだ者勝ち。
    いや、人生とはいつだって楽しんだ者勝ちとゆうのが真理でしょう。

    「カップル限定」とかゆう完全なるイジメワードまで実在するこの世界線にあってはどうあがいてもリア充有利のこの日。
    皆さんどうにか間を開けられぬよう頑張って楽しんで下さい。
    こんな日だって諦めずに、できるかぎりは笑って下さい。


    そもそもにクリスマスとゆうのはキリストの誕生を祝う行事で、
    「じゃあなんで本人おらんのにパーティをやって、プレゼントを送りあうねん!」
    とゆうとこの理由としては、
    たぶん「神様がこの地上にキリストさんをプレゼントしてくれたよ!我々が神に愛されてる証だ!めでたいね!」「そこの君!神様に愛されてておめでとう!これをどうぞ!」「君も神様に愛されてておめでとう!これをどうぞ!」ってことであり、愛の証としてのプレゼントを喜び合う日なわけだと思う。

    そう。

    だから「キリスト教の神様もキリストの存在も信じないし俺には関係ないよ!」
    って人だって、
    「自分と関係無いキリスト教の人が凄く喜んでいるなー。喜べておめでとう!」
    ってやってもいいんじゃないかな。

    誰もが日々ケーキを食べる理由を探していて、それが見たことも話したこともない、それどころか存在だって定かでない男の誕生日でもいい。

    地球は365日誰かしらの誕生日で、その誰かしらの関係者が喜んでるわけだけど、
    今日は「喜ぶ関係者がすげー多い誰かさん」の誕生日として関係無いけと祝ってやってもいいんじゃないかな。

    どんなに薄い理由でも「不真面目」でも、
    楽しんじゃえるならそれでいいのだ。

    今年もメリクリ!
    キリスト教徒じゃなくたってテキトーにはしゃいじまえ!だ(笑)



    さてそんな中、

    クリスマスにはそれができてもそれを日々には適用できないって「不器用さん」がいっぱいいることもボクは知っている。


    身近なところで言うとうちの弟がそうだけれども、
    なんで世の中大半の「真面目」と呼ばれる人は「テキトー」ができなくてイライラしてみたり悲しんでみたり、時には自分で自分自身の精神を痛めつけ疲弊させるような言動をとってしまうのだろうか。

    例えば弟と口論(割といつも一方的に向こうがこっちの勝手さに怒っているだけだが)をした時などにボクは本当に哀れに思う。

    そんなに真っ向からストレスを受ける向かい風の道を行かなくてもよいのではないか。と。



    つまりここで言う「テキトー」ってのは、
    「力を抜いて7、8割でいい塩梅に。」
    ってことではなくて、

    その時その場その場で、
    「俺はこれでバッチリ満足だ!にんまり!」
    となれるように適宜「ものさし」の角度をかえて、
    世界の見方を変えてしまうことだ。

    平たく言えば、
    「お前かけっこで1等賞狙ってたんちゃうんかい!!」
    「いやー転んだ時に拾った100円玉でジュースを買ったんだ。足も痛かったしね。そのベンチから見る景色が最高でね!満足したよ!」

    などと、こんな風にやれるとてもテキトーな奴になることである。

    「それは言い分けだ!詭弁に過ぎない!本音だとしても自己洗脳しているだけで負け犬だ!」
    「そうかもー。でも本当に素敵な景色で、ジュースがいつもより美味しくてね。感動したんだよ。」

    そう。テキトーな奴は都合がいい。
    ブレても、ズレても、カッコ悪くても、
    他人にどう思われようと自分が笑えればいいのである。

    で、それに対して
    「そんな生き方美しいとは思えない」って人もいるよね。
    でもそんな頑なな人はどう考えてもだ、
    残念きわまりないことにいばらの道を行っているのだ。
    頑張れども生傷が絶えず痛々しいほどなのだ。



    たぶん人生ってのは「どこに到達したか」ではなくて「どのように過ごしたか」とゆう、
    結果よりも過程を、
    日々の積み重ねを最後の最後に清算する、
    ある意味で巻き返しの難しい残酷なシステムでできているとボクは思っている。

    ほれ。
    ゆえに青春時代、学生時代を陰鬱に過ごした者は、
    たとえ晩年、誰もが羨む人生の成功者となろうとも、どこかで拭えない劣等感に苛まれることになるのだ。


    「ボクは毎日怒り焦り泣き、最終的に大金持ちになり死にました。」

    「ボクは毎日喜び穏やかに笑い、ホームレスとして死にました。」

    あの世で対峙した二人のボクのうち、どちらがハンカチを噛むだろうか?

    これは極端な例ではあるけども、やはり不幸せな成功者と、幸せな落伍者とゆうのはどちらもあり得るだろう。

    どれだけ笑顔でいる時間を多く過ごせたのか。
    どれだけ暗い気持ちでいる時間が少なかったのか。

    あの世でこれまでの毎日を振り返り、
    「1時間ごと区切って○か×をつけていき、その数で人生の良し悪しを判断する。」
    なんて言われた時に後悔せぬよう、一歩一歩をヘラヘラゆくべきなのだ。
    あまり細かいことを気にしてはいけない。
    自分のルールを守りすぎてもいけない。
    ふにゃふにゃな心で笑っていくべきなのだ。

    時には大きな成功の為に苦しい時を過ごす事もあるだろう。
    さてその時、たどり着く大きな○は積み重ねる×何個ぶんなのか。
    「高校受験の為に投げ捨てる戻らない青春の日々」などを考えてみるとよいのかもしれない。

    その釣り合いは人それぞれだろう。

    だから平坦であることが良いとも言わない。
    大きな○を狙うなと言うんじゃない。

    だけどどんな大きな○を狙おうとも、
    「そこまでの×だってある意味では○だ」と心から感じることのできるペテンを自分にかけれないものだろうか。
    ×無しで大きな○にたどり着かないものか。

    誰しもそれを目指すべきなのだ。






    どう足掻いても人並みにできない。

    周囲とうまくかみあわない。

    理由もなく負の感情がわいてきて笑えない。



    そんな人が世の中にはたくさんいるようだ。
    悪いけどもこれは人として明らかな欠陥品であり、世の中からはみ出してしまわざるを得ない。

    でもそうなったらもう「ものさし」を都合よくねじ曲げて、
    はみ出した世界で笑うしかないのだから、

    むしろわかりやすいじゃないか。

    自分勝手なものさしの使い方を極めるしかない。
    それをやれ。





    しかし残念なことに、
    ボクの場合はそうではない。



    受験でもなんでも、
    今まで特に努力せずになんとか人並み(もしかしたらそれ以上)にできてきた。

    周囲の人と(表面上)うまくやることもできる。

    だいたい笑って生きていられる。

    強いて言うなら、
    おそらくボクはスクールカーストを維持し当たり前の社会でそれなりの立ち位置を築き、普通の大人になることだってできたはずだ。
    (と自分では自信を持っている。笑)



    だが…



    たちの悪いことに、


    そしてこれが最大にして最悪の大問題なのだが、




    それでは、それだけではどうしても満足ができない。


    日々に堂々と○をつけ続けることができなかった。



    これはおそらく病気に近い。
    目に見えない欠落と言えるかもしれない。


    普通に友達がいて、普通にバイトをして、普通に大学に行き、
    普通なことをして毎日笑って過ごす。

    それがボクにはできたし、
    その上さらに楽しくて大好きなバンド活動もやっていられた。

    全てを手に入れたかのような日々、
    そんなの最高じゃないか。

    そう思う人が大半だろう。


    だけどその日々の中でボクは、
    人生の自己採点表に○を書き入れながら、
    同時にその○の脇にこっそりと小さな×を刻み続けていた。


    どちらにも嘘はない。



    我ながら自分のことを本当に器用だなーと思う。

    なんならたぶんボクは口先の力8割でたいていのものを手に入れることができるんじゃあないかとすら思うのだ。



    だけど、
    小さな×をつけるのに、いい加減飽きた。



    だからバンドマンとして生き始めて10年になる前にバイトをやめた。




    「何事も10年継続すればプロになる。」


    って言葉を信じたのだ。



    あのまま
    「バイトをしながらバンドをやるプロ」
    になってしまってはたまらないと思った。



    器用で、「いい意味でテキトー」が得意なボクにとっては、
    笑って満足しながらその生活を続けることなど容易だったし、
    いつか日々の○の横に小さく添えた正体不明の×さえ、
    上手なペテンで自分の中で分解してみせてしまったかもしれない。

    でもそんなの何年後の話だよ!

    だからクリスマスや「とりあえずのチキン」を、
    安物の○を捨ててみた。




    それが数年前。



    今は小さな×と「戦い」続けてる気がする。

    そのおかげか、この数年で精神状態がかなり変わった。

    アタリマエを当たり前に幸せに感じれる人達の幸せを心から願えるようになったし、
    アリキタリな幸せを手にすることができない人達に特別な幸せが訪れるのを心から祈るようになった。

    バンドしかやってないから「できなくて、足りない」ってことがハッキリとわかって、
    モヤの中にいた敵が、
    倒すべきものが何なのかがわかるから、
    傷つける必要の無いとこに切りかからなくてよくなったのかもしれないし、
    単純にフォーカスを「バンド生活、音楽業界」に絞ったことで視野が狭まって余計なものが見えなくなったのかもしれない。




    怒られるのを覚悟で欠落者の皆様に言うが、



    できないから×

    足りないから×



    そんなハッキリとした×なら敵としてよく見えていいではないか。

    むしろそんなのマシじゃないか。

    器用なボクがそのひっくり返しかたを教えてあげられるんじゃないかなって、
    そう思ってるから、
    近くで付き合っててくんねぇかな。



    それよりもさ。

    問題はボクの抱えたこの、
    「できてるのに満足できない」
    「足りてるはずなのに足りない」
    とゆう、よくわからない小さな×こそが、
    それ以上にたちの悪い、
    本当に厄介な欠落だよ。


    不味いものしか食べれない。
    少しだか食べれない。

    なら目に見えた不幸な状況でまだいい。


    どれだけ美味しいものを満腹になるまで食べようとも満たされないこの見えない胃袋。

    どうしてくれようか?

    いつか、
    富、名声、その他全てを手に入れようとも、
    この飢えだけは変わらないんじゃあないかと心配になる。



    あと数年の後、

    「バンドだけやって生きてるバンドマン」のプロになれた頃、
    ボクの人生の自己採点表には、もう二度とアタリマエの世界の○をつけることはできなくなっているだろう。
    (すでにバンドはおろか、学生時代やってたはずの電車通いすらやれる気がしないのだから)
    その時にこの小さな×を打ち倒してどんな○をつけているのか今から凄く楽しみだ。

    果たして、社会人永久失格の烙印と生き仏、聖人的浮世離れ感が我が物となる日は来るのか。
    はたまた……!?




    まずは来年、2018年は、
    「堕落による回帰と進化」がテーマです。

    一人前の大人から堕落してモラトリアムの最中にある選択肢無き無敵さを手に入れ、
    バンドとして積み上げてきた12年を一段階上へのせれたらなと。





    凄く凄く簡単に言えば。




    「あの人はバンド以外でも生きていけるだろう」って言われちまうだろうなって自覚があるからこそのモヤつきを越えて「バンドマンとして生きる道を選んだ男」の帯びる神的な鮮烈さをこの手に。


    アーティストやアイドルの誕生日にファンがケーキを食べてお祝いする。
    それってすごくキリスト的でしょう?

    バンドマンだって少なくともそれに相応しい存在になるべきだよ。
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