『海賊とよばれた男』は、2時間サスペンスの“絵”をすごく豪華にした感じなんだよ。
その意味では『ファンタスティック・ビースト』に対抗できる作品。
「西に『ファンタスティック・ビースト』があれば、東に『海賊とよばれた男』あり」っていう、言っちゃえば安物映画。
山材監督は『永遠のゼロ』で「あれ?俺はここまで描けるんだ!」というのが分かったんだ。
だけど、それでは山崎監督が求めているような作品には、ならない。
いわゆるハイドラマ系を作って、「分かる人には分かる」っていう作品をやっちゃうと、自分の良さが伝わらない。
そう思ったのかも分からないな。
おそらく「“泣かせ”でお客さんを満足させる部分に特化しよう」って思ったんだよ。
『ALWAYS 三丁目の夕日』の時には客は泣いたんだ。
だけど『永遠のゼロ』の時には、泣く客もいるんだけども、泣かない客もいた。
「これは何故か?」っていうと、最後の感動の部分がちゃんとベタに作れてないから。
なので山崎監督は、思い切って振り切ったんだよね。
新海監督の場合は、『君の名は。』で「僕は作家性を捨てて、」と極端な言い方をしたんだけども、「作家性の一部を諦めて」っていうのが正確な表現なんだ。
だけど山崎さんの場合は、自分の中にある「もっと凄いものを作れる」という“作家性の半分”をおいて、「俺はもう大衆作家になる」という宣言をしたような気がするんだよ。
なので『海賊とよばれた男』は、映画の『レ・ミゼラブル』なんです。
『海賊とよばれた男』の作中で「国岡商店の歌」っていうのが何回も何回も出てくる。
クライマックスシーンで国岡商店の船が出てきて、死んだ登場人物も、生きてる登場人物も、全員その船の上に乗ってる。
そして「あぁ~我々は自由の為に戦う~♪」って文字通り旗を振りながら歌う。
それが曲調といい、作りといい、本当に『レ・ミゼラブル』とそっくりなんだよね。
『レ・ミゼラブル』の場合は、元が舞台劇でミュージカルだったんだ。
最後にバリケードを作って、その上で、これまでの全登場人物が出てきて、旗を振りながら歌うっていう感動のクライマックスがある。
そこから「これだ!」と。
『ALWAYS 三丁目の夕日』の日本的なの登場人物の顔のクローズアップだけで感動させるんではなくて、シュチエーションとして、メタファーとして、モンタージュとして人を感動させるには、どうすればいいのか?
それで山崎監督が出した答えが、今回の『海賊とよばれた男』だった。
俺も『海賊とよばれた男』を見た後は、ちゃんと胸が高揚したよ。
俺も「日本男児は働いて何ぼですよ!」って思ったぐらいだから、良い映画は良い映画なんだ。
だけど、感動としては、やや安かったんだよね。