「作品は観客のもの!? 岡田斗司夫 流・映画の解釈法」
僕の映画解釈は、すべて僕の独断で出来ているんだ。
監督インタビューとかもほとんど読まないし、あまり大事に思わない。
なぜ独断で話をするのか?
マンガ夜話をやってる時や『オネアミスの翼』を作っている時に発見したんだけど、「マンガは、作者のモノか?読者のモノか?」って考え方があるんだ。
作者が見ているマンガっていうのは、紙の上に描いているインクの塊ではなくて、自分が「こんなふうに描きたかったもの」として見ている。
なので作者のマンガ像というのは、実際の作品よりも必ずズレている。
それに対して読者もマンガを見るんだけども、作品を見るときに自分の人生経験を測って、その上で作品を評するんだ。
たとえば、借金ですごく酷い目に会った人は『闇金ウシジマくん』が辛くて読めなかったりする。
そういう経験が無い人は、ただ単に「面白い話」として見える。
つまり、読者によって作品は一つ一つ違う。
これが「評論」というものが必要な、本質的な理由なんだ。
人は感動すると不安になるし、心配になるんだよ。
自分が「面白い」と思ったポイントが、他の人と一緒かどうか知りたくて仕方がない。
だから僕らは、本当に感動したり面白い映画を見たら、真っ先に映画評論サイトとか、みんなのコメントを読んじゃうんだよね。
なぜ「映画の評論」が必要なのか?
それは感動は孤独なものであって、他人の感動を知る事によって、初めて連帯が発生するから。
映画館が面白いのは、感動を全員が共有しているから。
だから僕は「映画館に行って映画を見ろ」って言うんだよ。
なので、作者が伝えたいモノと、読者が見ているモノは必ず違う。
僕がそれを実感したのは『オネアミスの翼』って作品を作った時。
その時の33歳の僕はバカで「作者が考える作品が正しい」と思ってた。
「読者や観客は、作者の意図を見抜くのが正しい」と思ってたんだ。
つまり、作家主義だよね。
でも今の僕は、それを徹底的にバカにしている。
他人に誤解されるような映画を作っておきながら、後のインタビューで「それは違うんですよ!」って言ってた自分が、すごいイヤだから(笑)。
作品って、そう解釈されたなら、それで正しいんです。
みんなの心の中で辻褄が合ってるなら、作者がそれを「違います」って言うのは恥ずかしい事なんだ。
映画の解釈は、多様性があることが素晴らしいんだと思います。
なので岡田斗司夫は独断で『風立ちぬ』を語りますし、『シン・ゴジラ』を語りますし、『君の名は。』を語るわけです。
だから後で作者が「それは違います!」と言っても、「オレの解釈の方が面白いんだから、お前の負けだよ!」って思っちゃうんだよね(笑)。