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「『ブレラン2049』はどうやったら面白くなるのか?」
この3つね。
劇場公開版の『ブレードランナー』と同じように、主人公のモノローグを入れれば大丈夫なんだよ。
ナレーションなんて、ライアン・ゴズリングをスタジオに呼んだら、半日で録れるんだから。
だって、映画の中で盛り上がるシーンは、全部ヴァンゲリスの音楽なんだから。
Kが、バーチャルリアリティのジョイと2人で駆け落ちして、スピナーが飛んで行く風景のバックに「チャーン、チャーン♪」って音楽を流しておけば、もう大丈夫。
つまり、「ハッピーエンドにしちゃえ」ということなんだよね。
これで『ブレードランナー2049』の本質が失われるのかというと、実は全く失われないんだ。
こういう場合はね、モノローグを入れちゃった方がいいんだよ。
「汚い仕事で汚い存在、それがこの俺だ。そんな俺でも家で待ってくれている女がいる。バーチャルリアリティのジョイだ。まるで30年前の日本のオタクみたいだって? こんな時代、男はみんなオタクでなければ生きていけないんだ」
「俺はジョイの偽物の笑顔に癒される。偽の笑顔に偽のキス。俺だって偽物。レプリカントだ」
――みたいなナレーションを冒頭で入れたとしても、映画的に、全然、問題ないんだよ。
むしろ、その方がテーマ性がはっきりするんだよね。
「デッカード? 誰でも知っている。伝説のブレードランナーで、裏切り者だ。レプリカントと逃げた男。そしておそらく……俺の親父だ」
――っていう台詞を入れた方が、わかりやすくなるって!
あんなに予算を掛けたハリウッド映画なんだから、もう少しわかるように作れよ!(笑)
だけど、その代わり、大衆性はものすごく上がるんだよ。
悪いことは言わない。
ためしにライアン・ゴズリングにナレーションをさせて、ダラスとサンディエゴで試写に掛けてみればいいんだよ。
そしたら、みんな絶対に「こっちの方がいい!」って言うから。
芸術性が高いバージョンは、その後で、“ファイナルカット版”として作ればいいんだよ(笑)。
これ、なぜかというと、言い方は悪いんだけど、『ブレードランナー2049』の中で掛かる音楽の中に名曲が無いからなんだよね。
Kが死ぬシーンとか、とりあえず印象に残るような名場面では、昔の『ブレードランナー』と同じ、ヴァンゲリスの音楽が掛かってる。
「ああ、ここ、いいとこだ」っていう感じになっちゃってるんだよね。
だったら、全部ヴァンゲリスでいいんだよ。
今まで、『炎のランナー』と『ブレードランナー』という2つの映画に音楽を提供しているんだ。……両方とも“ランナー”だよね(笑)。
で、この2作の音楽とも、シンセで作るわりには、メロディを中心に据えたセンチメンタルな曲なんだ。
そして、そもそもの問題として、『ブレードランナー2049』の本編では、そういうセンチメンタルな曲をほとんど流していないんだよ。
あの、当たり前だけど、普通のハリウッド映画っていうのは、盛り上がるところでは心臓がドキドキバクバクするような音楽を掛けるものだし、アクションシーンだったら、激しいギターリフレインが入っているような曲を入れるものなんだ。
そうやって、見ているお客さんの感情を、シーンに合わせて誘導することを意識した曲の使い方をするものなんだけど。
今回の『ブレードランナー2049』は、映像もアートぶっているし、音楽もアートぶっているからさ、余計にわかりにくくなってるんだよね。
その方が絶対いいと思うんだよね。
でないと、今が悲しいシーンなのか、ドキドキするシーンなのかわからないままなんだよ。
たとえば、Kが、自分の記憶の中にある木で彫った馬みたいなものの足の裏に、何か数字が彫ってあったことを思い出して、それを見つけようと焼却炉みたいなところに近づいていくシーンがあるんだけど。
これがワクワクするようなシーンなのか、それとも怖いシーンなのか、最初に見ただけじゃわからないんだよ。
まあ、画面だけを見たら、完全に怖いんだけど。
もし、ここで、ヴァンゲリスの『ブレードランナー』でデッカードの部屋にレイチェルが来た時に鳴っていたような音楽が入っていれば、それだけで、すごく気分が上がるんだ。
だけど、それをやってないから、よく分かんなくなっちゃってる。
こんな3時間近い映画を見た客にはね、“ご褒美”が必要なんだよね。
だって、フルコースの料理には、必ず最後にデザートが付くものじゃん?
これが1時間ちょっとで終わる一品料理みたいな映画だったら、どんな無茶をしてもいいんだけどさ。
ハッピーエンドっていうのは、その映画が当たるか外れるかを決める要素の一つという以上に、制作者側から観客への“詫び状”でもあるんだよね。
「長々とシンドい話しをしたけど、とりあえず笑顔で終わりますよ」というのが、大衆演芸の世界では大事だと思うんだけども。
「人間が作ったロボットなどというものを神が許すはずがない。故に、ロボットは人間に反乱するに決まっている」っていう偏見を意味しているんだ。
でも、リドリー・スコットの世界では、この逆のコンプレックスが蔓延している。
『ブレードランナー』シリーズにおけるレプリカント、もしくは『エイリアン』シリーズのアンドロイドは、なぜか必ず人間に憧れていて、「人間になりたくて仕方がない」というコンプレックスを持っている。
なので、『エイリアン;コヴェナント』に出てくるデイヴィッドも新しい生命を作って、“人間のまねごと”を始めちゃう。
これっていうのは、キリスト教徒からすれば「神に祝福された人間と、祝福されていないレプリカントが駆け落ちなんかして、果たしてそこに幸福があるんだろうか?」という、ちょっとショックな出来事だったんだけど。
それに、キリスト教徒にしてみたら、エデンの東のそのまた向こう、もう別の大陸に移住するくらいの大事件というふうになるわけだよね。
たぶん、こういうのでも人は感動するし、言いたいことは伝わるんだよ。
現実的には何もいいことなんて起きていないんだけど、あれを見て、俺たちは感動するじゃん?
それはなぜかというと、これによってネロの正しさが認められた気になるから。
そういう「誰かに認められた」っていうのがないと、やっぱり人間の心というのは不安定になるんだよね。
なにより、その方がよっぽど『ブレードランナー2049』のテーマに近いと思うんだけどね。
「え?!それってどういうこと?」「そこのところ、もっと詳しく知りたい!」という人は、どんどん、質問してみて下さい。
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