─────────────────────────────
「『天空の城ラピュタ』の不思議なエロス・後編」
『ラピュタ』というのは、かなりエロいことを描こうとしている作品だ、という話なんですけども。
これですね。
つまり、肉体化されるわけですね。
この時のシータの胸、おっぱいというのは、わりとつるペタに近い。
かなり小さい感じで描かれています。
“服のシワ”と言われても分からないような感じ。
あるように見えるけど、ないかもわからないというような感じになってるんですね。
だからといって、じゃあ「宮﨑駿はそういうのが好きなのか?」というと、別にそうじゃないんですね。
ここで、シータが「我を助けよ」という、お母さんから習ったおまじないを唱えた直後、胸の飛行石がガーッと輝き出すんです。
この輝く時、胸の合間で飛行石が輝くわけだから、胸の中心部にハイライトがあるまではいいんですけど、胸の膨らみの両外側に影が落ちる様子を、わざわざ作画しているんですね。
こんなことをわざわざ作画するというのは「そこを見せたいから」なんですよ。
だけど、やっぱり上手いんです。
どこがというと、エロいシーンとして描かないところなんですよ。
むしろ、「エロいことを考えたこっちの方が悪い」という罪悪感を感じさせるというのが、宮﨑駿の手口なんですよね。
これは、ワザとこういう服を着せているんですよ。
つまり、もしかすると下着を着ていないのかもしれない裸の肩の辺りまでがチラチラ見えるんですよね。
でも、本当にそうなんだったら、こんなフワフワの袖が開いた服を着せなきゃいいだけの話なんですよ(笑)。
なぜ、こんなのを着せてるのかっていうと、「この裸の上にまとった服がビラビラと はためいているところを見せたいけれども、エロいシーンだと見て欲しくはない。でも、見てる人にドキドキさせたい」と思うからです。
たとえば冒頭の、上空を飛んでいる飛行船をドーラ一味が襲うシーン。
船の中に侵入してきたドーラ一味に気が付いたシータは窓から逃げるんだけど、その時、風がブワーッと吹いて、スカートが思いっきりめくれ上がって太ももの辺りまで見えるんですけど。
これも、女の子が生きるか死ぬかのシーンだから、エロいようには見えないんです。
宮﨑アニメには、こういうふうに、太ももが見えるくらい女の子のスカートが はためくシーンというのは必ず入っているんですけども。
こういった緊迫感のある場面にそれを描かれると、見ている人間としては、「あ、パンツが見えそう」だなんて思った こっちが悪い。
そんな恥ずかしいことを考えてしまう自分のほうがエロいんだ。
そういうふうに思ってしまうんです。
これこそが、「罪悪感がエロい」という考え方ですね。
脚から血を吹き出していたり、脚がなくなっていたり、そういうシーンをいっぱい描くことで、「ジョーズに襲われたかどうか」というのは脚を見ればわかるというように作ったんです。
ブレディー所長がバーっと走っていくと、息子が海岸で気絶してるんですね。
気絶した息子が砂の上を引きずられているんですけども、もうエゲツないことに、脚を映さないんですよ。
ブレディー所長の小さい子供の顔だけを映して、それが引きずられていくにつれて、おへそが見てて、太ももが見えて、そして、最後に無事な脚が見えるというこの順番。
これ、何かというと、見ている人間に期待させるためなんですね。
そして、期待させることで恐怖させているんです。
「この子供には脚があるのだろうか? ないのだろうか?」
「なんでこの子は気絶してるんだろう?」
「なんでブレディー所長は青ざめているんだろう?」
「なんで周りの人間は突っ立っているんだろう?」と。
息子がズルズルと引きずられている間に、観客のたちの中に「どうか脚が無事であってくれ」という心と、「脚まで食われてしまっていればすごいのに」という本の少しの黒い思いを湧き起こさせる。
つまり、怖い目に遭いそうな人が、本当に怖い目に遭うことを無意識に望んでいるんですよ。
なぜなら、そこで怖いことが起きないと、僕らはその後ホッとしちゃって、恐怖を感じられないから。
だから、本当に怖いことが起きることを望んでしまう。
そういった「劇中の登場人物には怖い目に遭ってほしいと期待してしまう」ところに罪悪感が生まれて、それが『ジョーズ』という作品の恐怖感を作っているんです。
では、なぜ、こんなにもおっぱいが大きくなったのかというと、もう、こういうふうに描かないと気が済まなかったからなんです。
だから、その象徴として胸が急に大きくなっているんですね。
これは、別にエロの話というだけではないんです。
宮﨑駿というのは、エロだけじゃなく、“女性のすごさ”というのもちゃんと描く作家だということを言いたいんです。
タイガーモス号の中で、シータが厨房で働かされることになる。
すると、そこに、シータを一目 見て「かわいい」と思ったドーラの息子達が「何か手伝うことない?」って次々と言いに来て、その結果、全員こき使われるというシーンなんですね。
宮﨑駿は、ここでのシータの表情を見せていないんですよね。
これがもし、今時の普通のアニメだったら、どんなふうに描いているかを考えてみてください。
絶対に、ちゃんと女の子の表情を描いた上で、「みんなが手伝ってくれるっていうから、お願いしちゃった、テヘッ☆」みたいな感情を見せる。
もしくは、「この女の子は、本当にそんなことなんて全く考えていない天然キャラなんです」みたいな台詞のやり取りをさせるはずなんですよ。
それが、普通のアニメの作り方なんです。
だけど、宮﨑駿は、“テヘペロ”も“天然なんです”というのも、どちらもやらない。
それでは“手塚治虫がやりそうなこと”になってしまうからですね(笑)。
「そんなのは普通だ」と。
「そんなのは当たり前だ」と。
「違うだろ」と。
なので、ここではシータの後姿しか見せないんです。
すると、「このシータという女の子は、船の中で自分がモテているのがわかっている。だからこそ、他の男に次々と仕事を頼んでいるんだ」ということが暗に示されるんですよ。
でも、だからといってパズーを呼んだりはしない。
なぜかというと、自分が惚れた男だから。
つまり、ここでシータは「自分が惚れている男はこき使わずに、自分のことを勝手に好きになったどうでもいい男はこき使う」ということをやってるんですね(笑)。
クラリスがカリオストロ伯爵と対決する時に、伯爵はクラリスの顎をガッと掴んで、「さすが、血は争えんな。もう男を操ることを覚えたか」というふうに言うんです。
それを聞いた僕らは、ついつい「いや、それはカリオストロ伯爵の読み過ぎだろ! クラリスはそんな子じゃないよ!」というふうに思っちゃうんですけども。
でも、その言葉を全く否定しないクラリスを含めて、「これ、何回目にあったことなのか?」というふうに、ついつい考えちゃうんですね。
つまり、クラリスはルパンが来たから弱い女の子になった。裏を返せば、ルパンが来る前は強い女の子だったはずなんですね。
他にも、ルパンが去る時に、「泥棒をやめて私と一緒に暮らしましょう」ではなく、「私もあなたと一緒に行って泥棒をします」と言いますよね。
その意味では、クラリスというのは、わりと“したたかな女”という部分もあるんですよ。
宮﨑駿は、この後ろ姿だけを見せて表情を読ませないことを通じて、明らかに「女ってすごいよね」ということを表現しています。
『ラピュタ』について、ドーラのしたたかさはよく語られるんですけども。
じゃあ、そのドーラから「あの子は将来、私みたいになるよ」と言われたシータが本当はどんな女の子なのか?
それは、劇中におけるシータは、あくまでも観客の男の子たちがドキドキして、胸を焦がして憧れるような存在だから、はっきりとは描かない。
でも、「その後ろ姿だけはちゃんと描く」という意地悪さは持ってるんですね(笑)。
エロスに対する考え方なんですよ。
エロス自体は描きたい。
パンチラも描きければ、女の子のおっぱいや太ももも描きたい。
しかし、だからといって、エッチなシーンとして描きたくない。
昨今のアニメーターがやっているような、「こういうの、好きでしょ? 僕も好きなんですよ!」っていうやり方が一番下品だ、と。
宮﨑駿というのは“自分が好きなもの”は描かないんですよ。
「『風立ちぬ』を見ろ! 俺はあんなにゼロ戦が好きなのに、ゼロ戦の戦闘シーンが1カットもない! なぜなら、そこでゼロ戦を描いてしまうと、手塚治虫になってしまうではないかっ!」っていうのが宮﨑駿なんですね(笑)。
「宮さんはすごいと言いながら、ジブリを逃げていくような演出家がわりと多いのはなぜか?」とか。
ここら辺も、宮﨑駿が持ってる魔力なんですね。
「え?!それってどういうこと?」「そこのところ、もっと詳しく知りたい!」という人は、どんどん、質問してみて下さい。
番組内で取り扱う質問はコチラまで!