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岡田斗司夫の毎日ブロマガ「若かりし頃の富野監督は、なぜトラウマアニメ『海のトリトン』を作ったのか」
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岡田斗司夫の毎日ブロマガ「若かりし頃の富野監督は、なぜトラウマアニメ『海のトリトン』を作ったのか」

2019-12-13 07:00

    岡田斗司夫の毎日ブロマガ 2019/12/13

     今日は、2019/11/24配信の岡田斗司夫ゼミ「富野由悠季を語る 〜2010年11月講演感想戦」からハイライトをお届けします。


     そこから、富野さんの昔話に入って。
     日大芸術学部を卒業して就職先がないので虫プロのアニメの演出になったっていう話ですね。
     「仕上げのお姉さんたちに直に頭下げないと仕上げをやってもらえないんだよっ!」っていう。まあ、わりと昔話でした。
     まあ、昔話でありながらも、富野さんがすごく伝えようとしてたのが、リアルな人間関係ってやつですね。
     虫プロでは、同じフロアに全スタッフがいるんです。そこで、アニメ原稿の仕上げをするお姉さんたちに富野由悠季という人は嫌われていたそうですね。
     嫌われるとどういうことが起きるのかというと、本当に『鉄腕アトム』の富野さんの担当する話の色を塗ってくれなくなるんですね。目に見えない形のいじめみたいなもんではなくて、富野さんの担当カットのカット袋が積み上がって減らないわけです。
     で、富野さんはその自分を嫌っているとわかっている20人ぐらいのグループのお姉さん一人ひとりに会って。本当に具体的に頭を下げて「やってください!」とか言ったら、ものすごい文句言われたり、「何でこんな事を~!」とか「 だいたいアンタは~!」みたいな、言ってもしょうがないことを言われて。それでも、頭を下げてでも、無理言ってでも仕事してもらう、と。
     こういう誰かに仕事を頼むっていう時、その人が怒ってたり機嫌がよかったりするのは、必ずしも合理的な理由なだけでなく理不尽なこともあって。
     そういう場合でも何が何でも頭を下げてまでやってもらわなければいけない立場っていうのが、演出とか制作進行の立場で「こういうふうなことを君たちはわかってるのかっ!?」みたいなことも言うんですけども。
     富野さんの言うことは、別に『海のトリトン』の時代だけでなくて、僕がアニメを作ってた時代もそうなんですけど。
     富野さんの危惧は、それが東南アジアの下請け会社にネット経由で仕事を流して行って、断られた。断られたら「でも、もっと安い値段で受けてくれるところがこの国ではある」っていうふうに他所に頼む。そうやって、分散すれば分散していくほど、他人に頭をさげてやってもらうということがなくなってしまう、と。
     つまり、仕事っていうのは、値段とか条件とかでやってもらえたりするんだけども、「そういう、やってもらえないという理不尽な状況を前にして、具体的に目の前の人に頭を下げるという行為なしに、人は大人になれるのかっ!?」みたいな、問いかけをするんですね。
     富野さんの話ってね、自分のアニメの面白い経験談と、そういう説教が合体してるから、聞いてる僕も、もう、面白がっていいのやら、申し訳なく聞いていいのやら、わかんないですけども(笑)。

    ・・・

     あと面白かったのは、富野さんが言ってた「アニメは映画であるということを早い段階から発見した」って話。
     アニメは映画であるというのは何かっていうと、例えば『鉄腕アトム』のように、止まっている絵を見せるしかないような作品であっても、そのコマを、止まっている絵を何秒も何秒も見せる、つまり、「見る側に時間を強要している限り、それは映画である」ていう話をしていました。
     そして、もう一つの特性は「ストーリーがないとアニメ作品というのは成立しない。映画というのは成立しない」と。
     絵に関しては、実はどうにでもなる。絵に関しては上手いやつっていうのはいるし、上手くないやつが集まっても何とか作品っていうのはできるんだろうけども。
     ただ、物語をつくる、お話をつくる、ストーリーを語るっていう才能は希有であって、いまだに富野さんは「やっぱ教えられない」って言ってます。
     北京大学で講演をする時も「そこの部分を教えてくれ!」と言われて、誠意を持って考えたんだけども、やっぱり教えられない。「希有な才能である」と。
     その才能は「何かを語りたい!」という意志や、語るべきことが自分の中にないとどうしても生まれてこない。その意味では、物語を語る才能、お話を作る才能っていうのは、すごく希有なもので。
     それは、8歳から10歳ぐらいまでに、何か習った時に「なんでこうなの? もっとこうすればいいのに」とか「ああ、君たちみんなはこういうの好きなの。でも僕はこっちのが面白いと思うけど。とりあえずこの話聞いてくれない?」っていうような、自分の状況に対する疑問と、それに対する再提案みたいな習慣が、子どものうちに身についていないと無理だ、って言ってます。
     で、そういう話を、会場中の、みんなオーバー30くらいの男達が聞いているわけですけど。「そんなこと今更言われても……」みたいな(笑)、 ちょっと面白かったです。

    ・・・

     じゃあ、アニメーションというのは、そういうすごい才能の人ばっかり集まってやるのかっていうと、決してそんなことはない。
     「アニメーションていうのは、虫プロに自分が入れたことでわかる通り、中途半端な才能でも充分作れる」と。まあ、富野さんは卑下して言うんですけども。
     そんな中で「まあ、宮崎駿とか大塚康生は、ちょっと、もう別格なんだよ」って話をしていて。
     富野さん自身が、昔、宮崎さんや大塚さんの引いた鉛筆の線を見た話というのをしてました。あの話は良かったです。
     僕も、上手いアニメーターの引いた線って見たことがあるんですけど。
     上手いアニメーターが引いた線ってね、別格なんですよ。鉛筆で描かれたものなんですけど。普段、「鉛筆で描いてペンで清書しない」っていうのは欠点にしかならないんです。だけど、上手いやつが描いた鉛筆画っていうのは、色がついてたり仕上がったりしてるものよりも、見てる側の想像力を喚起する、すごい力を持ってるんですよね。
     で、富野さんがそれに対して言ってたのが「上手いアニメーター、もう、宮崎、大塚レベルが描いた原画とか線は、消しゴムが掛けられない! こんなものにどうやって消しゴムを掛けたらいいかわからないから、もうそのままいただくしかない!」って話をしてたんです。
     これね、すごくわかるんです。
     で、「そんなスタッフがアニメ界に存在することが良いことかと言うと、必ずしも良いことばかりではない」っていうお話をしてました。
     なぜか? アニメというのは数十人の共同作業で作るんですね。数十人の共同作業で作る時には、全員のレベルが均一に高いというのはすごく良いことなんです。あるいは、全員のレベルがある程度バラバラというのも良いんです。上手いやつが下手なやつを教えられるから。
     でも、その中にものすごく上手いやつが一人いたら? それを見た全員が萎縮しちゃうんです。
     宮崎さんとか大塚さんがいた当時のアニメ界ではそういうことがよくあったそうです。彼らの絵を見たら、それは原画かもしくはレイアウトですから、アニメーターがその上に線を乗っけて動画に落としていかなければいけないんだけど。誰も怖がって出来ないんですよ。
     大塚さんの絵に自分の絵を乗っけて、間を作画で割っていく……割るっていうのは、間の動きを補完することですね。手を振るシーンだったら、原画家の大塚さんは振り始めと終わりの絵だけを描くんです。その途中の何枚かの絵を割っていかなきゃいけないんですけども、これがもう割れない。
     「大塚さんの絵を殺しちゃうから私はできません!」って言って、結局、スケジュールが遅れることになっちゃう。
     天才とか才能のものすごくある人っていうのがアニメーションのレベルを上げるのかっていうと必ずしもそうではないんですね。
     アニメというのは、ダメなスタッフがいたらレベルが落ちるんだけど、すご過ぎるスタッフがいたらスケジュールが遅れるんですよ。
     面白いですよ。確かにその通りなんです。……ああ、経験ある経験ある(笑)。

    ・・・

     じゃあ、そんな中で富野由悠季という人間がどのようにして『鉄腕アトム』という作品を作って生き残ってきたか? 「それは富野由悠季という人間が一度たりとも締め切りを破ったことがないからだっ!」ってふうにおっしゃってました。
     つまり、「実は一回もコンテとかで褒められたことがないんだけども、絶対に締め切りを破らずに納品していた」と。
     当時のアニメ界では絵が上手いということは、今言ったように祝福だけでなく呪いでもあるわけですね。福音ではないんです。
     絵が上手いやつが一人いると、それによってスケジュールがくるっちゃう。絵が下手なやつがいたら、クオリティが下がっちゃう。
     じゃあ、どんな人間が当時のアニメ界で一番ありがたがられていたかっていうと、一番ありがたがられるのは、絵が上手いやつでもなければ、もちろん絵が下手なやつでもなくて、単に、スケジュールを守るやつが一番偉かったんですね。
     ここから、富野さんは「今、みんな、なかなか就職とかが上手くいってない人が多いけども、何が一番大事かと言うと、おそらく人柄だろう」という話をはじめました。
     どんな専門学校であろうと、どんな資格試験であろうと、会社という現場、仕事という現場でそんなのが通用するほど、試験というのは上手くできていない。
     例えば、アニメの専門学校へ行って3年とか4年やったとしても、アニメーション作る現場に入って2ヶ月とか3ヶ月してから「あっ! やっと仕事がわかってきた!」ってなるわけですね。まあ、これは別に大学から企業入った人でもわかると思うんですけども。オン・ザ・ジョブ・トレーニングっていうか、企業で実際に働かないと、絶対に仕事ってわからないんですね。
     だから、実は雇う側の人間が欲しいのは才能ではないんですよ。人材としてのスキルでもなければ能力でもなくて、人柄であると。人柄がよければ、そこでもうほとんどOKで。
     あとは中学・高校レベルの理解力ですね。例えば、「スポーツで国体を目指す」ということがどういうことか知っている。国体を目指してサークル活動をやるっていうことは、国体に出た経験があるかないかじゃないんですよ。「国体を目指すんだったら、練習はこれくらいしなきゃいけないな。キャプテンはこれくらいのことしなきゃいけないな」っていうことがなんとなくわかっているというレベル。文化系のクラブで言えば、「県のコンテストを狙う」ですね。
     そういうふうなことがわかっているくらいの理解力があれば、人柄プラス中高生程度の理解力があれば、それで充分働けるし、「それ以上の人材というのはもう望まれてないはずなんだけどな」っていう話をしてました。

    ・・・

     なんかね、この辺、面白かったんですよ。
     というのも、僕たちはよりよい社会っていうのを作るのに、どうしてもシステムで考えちゃうんですよね。
     僕は2ヶ月ぐらい前に、東京の六本木で『国民スナフキン化計画』って話をしたんです。
     今の日本人がだいたい思っている「家を持たなきゃいけない!」とか「家族を持たなきゃいけない!」とか「結婚しなきゃいけない!」、もしくは、さっき話した恋愛不全にも出てきたんですけども「恋愛しなきゃいけない!」「誰かと友だちにならなきゃいけない」ということ。
     この辺のプロテクトを外して人間関係、家族関係、あとは住む所っていうのをもっと拡張型にしていって。お互い縁もゆかりもない者同士がルームシェアするところから始まって、最終的にはネットカフェみたいなところで国民が暮らすような社会でも別に構わないんじゃないかなって話をしたんです。
     その時に、同時に僕が、自分では強調したはずだと思ってたのが「それはおそらく人格者文明になるであろう」という話でした。
     つまり、国民全員がスナフキンのように生きていくということは「ネットカフェをどういうふうに整備するのか?」「ベーシックインカムをどのように整備するのか?」っていうシステムの問題ではなくて。
     そこで生きている人間、構成員一人ひとりが人格者であったり、もしくは、人柄的にいいやつでないと、そんな社会成立するはずがないんですね。
     「どこへ行っても何をやってもそれなりに生きて行ける」ってことは「それだけ好かれる人だ」ってことなんです。
     でも、それを講演で話したり、あと、ネットとかでそれの感想言ってる人を見たら、みんなやっぱりシステムのことを気にしちゃうんです。
     「そのためには社会をどういうふうにすればいいのか?」、もしくは「その財源はどうするのか?」と、システムの方を気にしちゃって「それを構成する自分達自身がどういうふうに変わると、そっちに行くのか?」っていう話にはなかなかいかない。
     なんか「富野さん人柄の話が、ここらへんで自分の考えてることにつながってきたなあ」と思いました。

    ・・・

     で、ここら辺りから富野由悠季が熱を帯びてきて。
     『海のトリトン』の頃の話で「子供達に向けてテレビでオンエアする作品として、本気で作った!」って仰ってましたね。
     『青いトリトン』っていう手塚治虫の原作をアニメ化する時、富野さんは途中から呼ばれた監督だったんですね。
     その時には、もう企画書は仕上がっていて、企画書を作ったのは、あの悪名高い……ってことはないですけど、こないだ死んじゃった西崎義展さん。あの人が、虫プロを倒産させた張本人と言われてるんですけども(笑)。
     『トリトン』という作品をやることになった時に、一応、原作で決まってる設定と、そして人間関係がもう、西崎義展さんの描いた絵図で決まっていた。
     どんなのかっていうと、「主人公は15歳の少年」で「真っ赤っかのマントを着ていて、なんかショートパンツみたいなのをはいてる」と。で、「なぜか白いイルカに乗ってる」と。「友だちとして3匹イルカがいて、おまけにガールフレンドが一人いて、そいつらと海をさまよっている話だ」っていうふうに言われて。
     「こんな、どうにもならないような原作を与えられて、どうしようっていうの?」って。
     だけど、その中で富野さんは、なんとかそれでも、子供達に「人生とは何か?」「俺が今生きている本気っていうのは何か?」っていうのを伝えようとしたんですね。

    ・・・

     で、その当時、ちょうど同時期に放送されていたテレビドラマが『木枯し紋次郎』って時代劇の作品でした。富野さんはこの話をしていません。僕は覚えてるんですけど。
     それは何か、どんなものかっていうとアンチヒーローだったんですね。
     それまでの時代劇のヒーローっていうのは「悪いヤツがいたら成敗する。困ってる人がいたら助ける」っていうものでした。でも、木枯し紋次郎っていうのは、口に楊枝をくわえて、困っている人がいて頼られても、「あっしには関わりのねえことです」とか「いや、僕には関係ないからやめてください」と言って逃げるようなヒーローだったんですね。そういうのが描かれていた。
     つまり、その当時は日本という国が大きく舵をかえていた時代だったんですね。
     1970年代半ばあたりのことです。宇宙戦艦ヤマトのちょっと前ぐらい。そこでは、大人が見るような番組でも、木枯し紋次郎のような「ヒーローでないヒーロー」を描くようになっていた。
     じゃあ、子供が見るような番組では何を描くべきかと言うと、「なぜ、人は木枯し紋次郎になるのか?」「なぜ、人間はアンチヒーローになるのか?」「なぜ、私たちはヒーローでないのか?」っていうのを描くべきだと、おそらく、富野さんは考えた。
     この辺は『海のトリトン ロマンアルバム』のインタビューで、昔、富野さんもちょっと答えてるんですね。
     でも、その話はそれを読んだ当時の20歳ぐらいの僕には全くわからなくて。数年前、『BSアニメ夜話』でトリトンをまとめてとりあげる時にもう一回読んだ時、当時30歳くらいの富野さんの言葉を、50手前ぐらいの僕が見て「うわあっ!」と衝撃を受けたんですけど。
     「トリトンで描きたかったのは青春の挫折だ!」って書いてあったんです。
     「少年っていうのは、何か取り返しのつかないことをして、失うことによって青年になる。彼はポセイドン族を全滅させるという原罪を背負うことによって、ようやく青年になれた。青年になった彼がさまようところから、彼の人生は始まるんだけど、それは我々の描くべき物語ではない」と、そう言い切っているんです。
     つまり、「子供に見せるものはなにか?」について「子供が青年になる話を見せよう!」というのが富野さんの考えだったんです。
     青年とは何かと言うと、「取り返しのつかないことをして傷ついた状態」で、そして、その傷を癒やす方法は彼自身に任されている。そして、それは「でも、なんとかなるだろう」と無責任に観客が見られるようなものではない。
     じゃあ、青年になった彼らはどうなるのかっていうと、おそらく、木枯し紋次郎のように「あっしには関わりねえことです」って言って、スネて生きていくしかない。そんな、アンチヒーローとして生きていくしかないような時代である、と。
     これが富野さんが考えた、1970年代という時代のとらえ方と、その中でまじめに作られた子供向けアニメの全貌なんです。

    ・・・

     で、こんなものを全部込めて作っちゃったから、『海のトリトン』はトラウマアニメとしてすごい有名なんですね。
     というのも、面白いもんで。こんな理屈が子供に伝わるはずがないんです。
     それはもう、富野さんも認めてます。大人がすごくまじめに説教しても、子供には「なぜか?」は伝わらないんですね。でも、「なぜか?」は伝わらないんですけど、「本気だ!」という部分だけは伝わるんです。
     「それでいいんだ! 本気だっていう部分さえ伝われば、なぜかは子供が大人になった頃に考えるから、それでいいんだ! 大人の役割というのは、そんななぜの部分を、子供が理解しなくてもいいから、本気で伝えることだ!」って仰ってます。
     で、これが、さっきの『プリキュア』の話に掛かってきちゃうんですけども。
     『プリキュア』というのは、これを無意識にやっちゃったわけですね。子供にバレないだろうと思って、本気で「いやあ、ロリっていいよねっ!」ってやっちゃったわけですね(笑)。
     で、それを、もう、まともに子供が受け取ってしまったっていう……。
     だから、楽屋でも「富野さんの話を応用すると、ロリアニメの与えた影響っていうのはこういうことになりますよね?」って話したんですけど、富野さんは「もう言わないで! 言わないで!」ってなってました(笑)。

    ・・・

     富野さんの講演会をザッとまとめるとそんな話でした。
     その後は「地球がこれから戦争になるのかどうか?」みたいな質問が出たのに対して、面白い返し方をしてましたね。「もう今の地球上では、戦争ができるほどエネルギーが豊かではない」と。
     私たちはすでに1944年の第二次大戦直前、世界中が産業革命を起こして、世界中に工場ができて石炭をモクモクモクモク炊いてた時代の8倍のエネルギーを、平和な状態で使用している。
     1944年ていうのは戦争をガンガンやってた時代なんですよ。その時よりも、現代の戦争も何もやってない状態のほうが8倍も多くエネルギー使ってる、と。
     だから、ここから先は、そんなエネルギーを無駄使いするような戦争なんか、出来るはずがない。具体的に言えば、どこかの国が戦争やろうとして、その為に戦車や船とか動かしたら、あっという間に石油原価が跳ね上がって、それぞれの国が戦争という経営ができなくなるに違いないと考えられます、と。
     これは、確かにそうだと思います。

     で、ここから先、富野さんは「世界人口は6億ぐらいが適切だよね?」とか言い出して(笑)。
     その真意を聞きに、後で僕は楽屋へ行ったわけでありまして。

     以上、第1部、富野由悠季講演会の解説でした。
     この後は質疑応答。大質問大会ってことで、今回の富野さんの話でも構いませんし、なんでも構いません。今日のイベントの本番はここからです。
     今の話を題材にして、富野さんを考えてもよし。ガンダムを考えるでもよし。日本と中国の文化を考えるでもよし。アニメの将来を考えるでもよし。ロリアニメを擁護するでもよし(笑)。何でも語っていきましょう。
     それでは10分間の休憩です。お疲れ様でした。
    (動画停止)


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