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「久田将義責任編集 ニコ生タックルズマガジン」
日本で一番危ないWEBマガジンが創刊!
『実話ナックルズ』『ダークサイドJAPAN』元編集長の久田将義が、インターネットを通して新たな「アウトローメディア」を始めました。その名も「久田将義 責任編集 ニコ生タックルズマガジン」。編集長の久田氏をはじめ、様々なアウトロー著者陣営がどの既存メディアでも露出できない記事をお届けします。(毎週金曜日に はその週のまとめ記事を配信)
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拡張!東京ブレイキングニュース
「清原和博考」
東京ブレイキングニュースでプチ鹿島さんが、清原和博氏について述べていて、それが清原氏に対して抱いていた僕のもやもや感を解消させてくれた。
http://n-knuckles.com/serialization/pkashima/news001309.html
http://n-knuckles.com/serialization/pkashima/news001309.html
清原氏は僕とタメ歳なので何となく、気にはなっていた。気になっていたとしても、テレビに出たり話題になったりすると、「あ、そういえばタメ歳だっけ」という程度のものだったが。
「気になっていた」程度だったのが「アレ? この人大丈夫」という風になり、具合が変わっていったのが、バリー・ボンズばりに両耳にダイアピアス、スキンヘッドになってからだった。
はっきり言って違和感を抱いた。その頃には鹿島さん、ご指摘の「番長キャラ」が定着しており、彼としては、打率、打点、ホームランのどの賞が取れず苛立っていたところに『フライデー』が「おう、わいや」から始まる秀逸な記事で清原氏を「番長」へと「プロデュース」していった。清原氏は「フライデー」によって救われた。救われたし、球界での立ち位置も確保できた。それは現役引退後も続いた。飯のタネが出来たとも言える。
もちろん、清原氏がプレイヤーとしてダメだという事ではない。何しろ、PL→西武ドラ一、新人王という、日本プロ野球界を背負って立つであろう逸材であった。何かのインタビューで同期の桑田真澄氏が答えていた。「PLに入った時、凄いやつがいるなと思った。彼には一生、野球で勝てないと思った。彼は世界一のバッターだと信じている」というような事を語っていた記憶がある(媒体を思い出せなくてすみません)。
実際、清原氏と一緒のグラウンドに立ち、プレーをしたら恐らくそのような感想を持つのだろう。PLからプロ野球へ、という時点でアスリートとしては超一流であると言える。
長嶋茂雄、王貞治に並ぶのではと期待されていたし、僕もそういうバッターになるのだろうなと思っていた。
が、そのイメージを覆す出来事が起こった。1989年9月23日ロッテ戦。しつような内角攻めで堪忍袋の緒が切れたのだろう。ロッテ平沼投手のデッドボールに、激高したはいいが、バットをマウンドに向かって投げつけた。これを威勢がいいととらえるか、どうか。
僕は「アレ? この人、殴りあいの喧嘩した事ないんじゃないか?」とふと思った。そして、マウンドに走ってのヒップアタック。平沼投手も一歩も引かず大乱闘。こりシーンはプロ野球乱闘シーンなどをテレビで放映する際、大体流れるほどだ。
プロ野球の乱闘シーンは数多くあれど、バットを投げた選手は初めて見た。肉体と肉体のぶつかりあいが怖かったのだと思った。イコール、喧嘩をした事がないのではと推測した訳である。もっと言えば、「男らしくないな」と「気が小さいのだな」と感じた。
それから年月がたち、さらに違和感を抱いたのがスキンヘッドになってからである。もうその頃には「武闘派」というイメージを武器に球界に君臨していた。
総合格闘技用のトレーニングを始めたのも、大きかっただろう。ステロイドの噂は常にあった。人間、格闘技の練習をやり、筋肉がつき始めると、どうしても「自分は強い」と錯覚してしまいがちである。まして、清原氏は実際、アスリートとしても前述したように一流だし、体格もでかい。強いと錯覚しない方がおかしい。周囲も自分を「コワモテ」と怖がってくれる。「俺、強いんじゃね」と思うだろう。
ファッションも酒の飲み方も豪快になっていく。それはそれで否定しない。プロ野球選手ともなれば、ヤンチャでいい。昭和のプロ野球選手の豪快さを見よ、と言いたい。しかし、タメ歳の清原氏のそれは痛かった。それはおそらく、社会人デビューに由来すると思う。
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