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「久田将義責任編集 ニコ生タックルズマガジン」
《TS可能な生放送》
《今後の生放送予定》
<久田将義・新刊情報>
『生身の暴力論』(講談社現代新書)
二年ぶりの書きおろしです。
僕たちは幼少の頃から先生や親に「暴力はいけない」と習ってきました。しかし、毎日のように大小の暴力事件がニュースになっています。
――この世の中、暴力に満ちていないか。なぜ暴力を振るうのか。なぜ悲惨な事件が起きるのか。
そういう思いが執筆のきっかけです。
そういう思いが執筆のきっかけです。
また、ヘイトスピーチを中心にネットでは「殺す」などという言葉が浮遊しています。
言論の自由の向こう側には暴力が存在しているという想像力を働かす必要があると思います。
想像力の無い人間は自身の言葉に復讐されるのではと考えます。
暴力を論じる事は言論の自由の大切さを論じる事にほかならないと思っています。
想像力の無い人間は自身の言葉に復讐されるのではと考えます。
暴力を論じる事は言論の自由の大切さを論じる事にほかならないと思っています。
本書では現代の空気感を捉えるのに暴力というキーワードから入ってみました。
色々な暴力を、事件を、色々な角度から考察・論考してみました。綾瀬女子高生コンクリ事件や川崎市中一殺人事件からネットでの言葉の暴力、駅構内での暴力、ヤクザの暴力等々を取り上げています。
「今」をとらえるのに、少しでも参考になればと思います。
色々な暴力を、事件を、色々な角度から考察・論考してみました。綾瀬女子高生コンクリ事件や川崎市中一殺人事件からネットでの言葉の暴力、駅構内での暴力、ヤクザの暴力等々を取り上げています。
「今」をとらえるのに、少しでも参考になればと思います。
東京オリンピックロゴ問題を出版業界から見た感想
佐野研二郎氏が「もう耐えられない」と言い残して、2020年東京オリンピックのロゴ使用を取り下げました。
ただ、発端となった、ベルギーのデザイナーさんのロゴと佐野氏のロゴは僕は「似ているっちゃあ、似ているけど」ぐらいの認識でした。
ただ、発端となった、ベルギーのデザイナーさんのロゴと佐野氏のロゴは僕は「似ているっちゃあ、似ているけど」ぐらいの認識でした。
その後「これもそうだったんじゃないの?」という類似例が発掘されてしまい、炎上。
結果、自ら取り下げる事になったのですが、実際盗作かどうかという判断は、実は僕らが判断するより裁判が一番手っ取り早い。
しかし、芸術系の裁判は判断が難しいので、かなり長期間にわたって公判が開かれる事になるでしょう。そうすると佐野氏の仕事にも支障をきたすでしょう。
結果、自ら取り下げる事になったのですが、実際盗作かどうかという判断は、実は僕らが判断するより裁判が一番手っ取り早い。
しかし、芸術系の裁判は判断が難しいので、かなり長期間にわたって公判が開かれる事になるでしょう。そうすると佐野氏の仕事にも支障をきたすでしょう。
※裁判で思い出しましたが、佐村河内守氏がゴーストライター新垣隆氏に、名誉毀損で訴えるという話があったのですが、どうなったのでしょうか。
ロゴ問題は実は、出版業界では結構ゆるいです。恐らく憲法21条の表現の自由の方が、著作権違反より説得力があるとみられているのではないでしょうか。
周りを見回してください。例えば週刊誌。表紙制作はデザイナーが担当するのですが、当然雑誌のタイトルロゴもデザイナーが考えます。で、例えば週刊現代と週刊ポスト。週刊文春と週刊新潮。アサヒ芸能と週刊大衆。漫画誌でしたサンデー、マガジン、ジャンプなど真似という訳ではないけれど、「雰囲気」は似ています。
発注側が「読者層はこうこうで、こういう店に置かれるから読者が手に取りやすい感じで」と指定するのですから、自然と似たような表紙デザインになってしまいます。
表紙デザインと言えど、著作物でありデザイナーに著作権があると思っていたのですが、裁判でも認められなかった例があったはずです。僕がミリオン出版に在籍していた頃。『実話ナックルズ』の編集長を務めていた時、コアマガジンの某編集が来て、「同じような雑誌を作るのでよろしく」とあいさつに来ました。「律儀だなあ」と感心しつつ「頑張ってください」と言って別れました。で、その後出た雑誌『実話ダイナマイト』というのですが、見てびっくり。表紙デザイン、タイトルロゴがかなり似ていたのです。が、弁護士曰く「こういうのは(裁判は)難しいんだよ」との事でした。
僕としても「わざわざ挨拶に来てくれたし、ま、いっか」とそのままにしておきました。しかし、本気で怒ってしまう編集者もいます。同じミリオン出版から刊行され、一時代を作ったギャル雑誌『egg』というものがありました。この時も似たような表紙デザイン、タイトルロゴの雑誌が他社から出版されました。当時の中川元『egg』編集長は怒りのあまり、編集後記で「厳重抗議する」というような事を発言されていました。
出版業界としては、あるジャンルの雑誌がヒットしたら似たような雑誌が出るのは自然の事として、黙認しているような現状です。僕は、中川元編集長の怒りも分かりますが、結局は出版の自由・表現の自由という思考にまかせても良いのだろうと考えています。
佐野氏はアートディレクターでした。僕が広告業界にいた時分と違っているかも知れませんが、クリエイティブディレクター(CD)は全体を見渡し、アートディレクター(AD)に指示します。そこから、カメラマンやイラストレーターに発注されていきます。
例えればクリエイティブディレクターは現場監督で、アートディレクターは総監督のようなものでしょうか。ですから、現場の責任と言い逃れをする事も出来るかも知れませんが、やはりデザインチームのトップである総監督は問題が起きたら責任を取らざるを得ないでしょう。「部下がやった事」「スタッフがやった事」では、どんな仕事でもそうですが、済まされない訳です。
デザイナーがデザインする自由度が、ある程度狭いケースは前記した雑誌の表紙のように似る場合が多々あります。というより、「似せてもいいからから」「(先発誌と)同じような感じで」と発注されますから、当然似てしまいます。タイトルロゴのフォントも何となく似てしまいます。その方が無難だからです。その方が売れる可能性があるからです。
つまり、商業ロゴと今回のオリンピックロゴの徹底的な違いは、商品であるかないかが最も大きい。オリンピックを象徴しようとすれば、アートディレクターの色々な想い、思考がロゴに反映されます。抽象的なものが多いかもしれません。商業ロゴは、一目で食品の場合「美味しくみせようとしているんだな」とか、デニーズやサイゼリアなどのお店の場合「遠くからでも目立つ」ようにデザインされています。
が、商品ロゴにデザイナーの「心」が入っていなという事ではありません。デザイナーも「自分の作ったロゴで一人でも多くのお客さんに手に取って欲しい」と思って制作しています。従って、商品ロゴも今回のオリンピックロゴも作り手の「心」が入っているはずなのです。
問題は、心は模倣出来ないという点。佐野氏がもしも、他にもロゴをトレースしたとしたなら、それは罪深い事になります。作り手の心を土足で踏みにじったように僕には見えます。
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