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[MM日本国の研究864]「政治家が口を閉ざす日米関係の正体」
⌘ 2015年09月24日発行 第0864号━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■■■ 日本国の研究■■■ 不安との訣別/再生のカルテ■■■ 編集長 猪瀬直樹**********************************************************************http://www.inose.gr.jp/mailmag/◉--------------------------------------------------------------------◉━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━【好評発売中!】『さようならと言ってなかった』(マガジンハウス)都知事就任、五輪招致活動、そして突然の辞任激動のさなか、妻は突然の病に倒れ、帰らぬ人となった。辞任以来の沈黙を破り、招致成功の秘話がすべてここに!↓アマゾンはこちら↓http://goo.gl/Rjm9TB「必死に縦割りを超えていこうとした」「日本がひとつになったから勝てた。チームニッポンの勝利だった」(著者インタビューより)○------------------------------------------------------------------○◇ 猪瀬直樹のオンラインサロン「近現代を読む」 会員募集中です!◇↓↓↓http://synapse.am/contents/monthly/inosenaokiこのサロンは、戦前・戦後の知識人や事件を参考図書と共に取り上げ、学べる参加型のオンラインサロン。激動の昭和時代、確かにあった知識と経験を、現代の視点から再び読み解き語ります。憂国の視点を持ちつつ安直な国家批判や既得権益批判は決してしない、作家・猪瀬直樹ならではのファクトとエビデンスに基づいた批評と、現代に活かす前向きな姿勢を保つ、日本の課題を考える現代の教養塾です。既存のメディアとは一味違う、新しい活字体験と思考体験をお約束します。○------------------------------------------------------------------○集団的自衛権の行使を認める安全保障関連法制が参議院で可決されたが、国民の間には理解が深まっているとは言いがたい。その根源には何があるのか。猪瀬直樹は先月発売された「サイゾー」(9月号)のインタビューで「日本は半主権国家のまま」と題して語っています。「政治家が口を閉ざす日米関係の正体」――猪瀬さんは『東條英機 処刑の日』(文春文庫)でマッカーサーらによる日本国憲法制定の過程を克明に描き、田原総一朗さんとの共著『戦争・天皇・国家 近代化150年を問いなおす』(角川新書)では日本国憲法の成立過程を含めた日本の近現代を論じておられます。そこで、日本国憲法がどのような成立過程を経ているのか、あらためてお伺いしたいと思います。猪瀬 (日本国憲法制定における)アメリカの目的は日本の武装解除だったわけです。それと、その後の占領統治。連合国軍最高司令官のマッカーサーは、そのために天皇を残しておかないといけないと考えていた。一方、当時の外相だった吉田茂をはじめとする日本人は明治憲法の天皇大権を維持したいと考えていた。――日本側の憲法草案(松本試案)には、天皇大権がそのまま残っていました。猪瀬 当時の日本人の考えでは、それ以上のことを思いつかなかったんだね。それに、吉田茂ら日本人は世界情勢に対する認識が薄かった。戦争に負けたことの認識そのものが薄かったとも言える。松本試案でいけると思っていたわけだから。でも、それじゃ天皇は救えないよ、という認識がマッカーサーにあった。その後はこの本(『東條英機 処刑の日』)に書いてある通り、マッカーサーは来日してからすぐに天皇を残すために裏工作を行って、その結果が天皇との有名なツーショット写真だった。そこでマッカーサーは「テル・ジ・エンペラー(天皇に伝えよ)」と通訳に告げて、国際世論の厳しさを話している。つまり、世界的には日本の元首である天皇に戦争責任を問うべきだ、とする声は大きい、と。一方でマッカーサーには、天皇制をなくしたら日本が大混乱に陥るだろう、という予測があった。だから天皇制を残そう、と。そのほうが圧倒的に占領コストも安く済む。東京で勤務した経験もあるから日本のことをよくわかっていたんだね。――戦勝国が天皇を起訴するかどうかを決める極東委員会が開かれるのが、昭和21年の3月6日でした。猪瀬 それまでに、早く憲法を作って間に合わせなければいけなかった。本当にぎりぎりで間に合って、4月4日に天皇は不起訴になった。その後、4月29日の天皇誕生日に東條英機らA級戦犯28人を起訴するんだね。そして東條らの死刑執行が行われるのが今上天皇の誕生日の(昭和23年)12月23日。この日付の作り方も、非常によく考えられている。――まさに『東條英機 処刑の日』で猪瀬さんが書かれていたことですね。このような過程を経て成立した日本国憲法を、「押し付け」と日本人が表現しています。猪瀬 でも実際には、むしろ、「日本の憲法は素晴らしい」なんて言ってる人が圧倒的に多いと思うよ。彼らは憲法の制定過程を知らないで言っているのではないか。つまり、敗戦国の立場、戦争に負けたという認識があまりない。だから僕は「戦後日本はディズニーランド化している」と言っているのです。――防衛はアメリカに任せっぱなしにして、日本は思う存分平和を謳歌していたから「ディズニーランド」だったと。猪瀬 戦争に負けたということは、主権を奪われたということだという意識がない。占領下で主権がないところで作られた憲法だから、「押し付け」も何もないんだよ。日本はサンフランシスコ講話条約でとりあえず独立したけれど、基本的には半主権国家のままだからね。――そこが認識されていないわけですね。だから議論がかみあわないのでしょうか?猪瀬 先日『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)でも話したんだけど、例えば道路交通法でいえば、時速40キロ制限になっているところを、実は我々は60キロで走っているわけだ。そうでないと渋滞してしまうから。ここで言う「40キロ制限」が憲法だけど、現実には我々は60キロで走っているわけだ。湾岸戦争の後、PKO法をつくったり、海賊対処法を作ったり、インド洋で給油をしたり、サマワで給水活動をしたりしている。これは全部60キロ。集団的自衛権の行使については、それを今度は80キロにスピードを上げてほしいとアメリカに言われているわけだ。20キロオーバーなら捕まらなくても、80キロ出すと捕まってしまう。今、憲法学者が憲法違反だと言っているのは80キロの話。でも、実際には60キロで走っているという現実をきちんと認めていないから、80キロが妥当かどうかという議論ができない。――議論がかみあうようになるためには、憲法の成立過程やその後の国際社会がどのように作られていったのかをよく知ることが重要だということでしょうか。猪瀬 要は、日本は今もアメリカの属国であるということについての現状を認めないといけないんです。だからこの議論は難しい。12年にペルシャ湾で機雷掃海の演習があって、30カ国くらいが参加している中、日本は参加していない。とりあえず船一艘浮かべておけば、アメリカに対するカードになったはず。代わりに、沖縄をはじめとした在日米軍基地や、米軍の管制下にある空域の一部返還など、日本の負担軽減について交渉があってもいい。そういう駆け引きができないから、すぐに「戦争か平和か」という二元論になってしまう。ペルシャ湾に船を浮かべておくことひとつでさえ、今の特別措置法では対応できない。インド洋の給油も特別措置法、サマワも特別措置法で対処してきたのは、憲法の問題を回避して、その都度、当面のアメリカの要求に融通を効かせる便法だった。――岸信介、中曽根康弘といった憲法改正を目指した政治家も、首相になってからは結局改正を行いませんでした。猪瀬 日本で憲法改正はできないでしょう。だから解釈改憲にした。だけど、これが問題なのは、アメリカの属国の度合いが高まるだけなんですよ。アメリカに何かを要求して勝ち取っていれば、言うことを聞いてもいいんだよ。不平等条約だった日米安保を改定した岸さんは勝ち取ったように見えるけど、実は整理しただけ。今回の安倍さんも、アメリカの言うことをきちんと聞いて整理している。ところが、属国の立場は向上していない。中国の軍事費の膨張と、アメリカの軍事費の削減という大きな情勢の変化の中で、日本がアメリカの軍事費を肩代わりしなければいけない状況がある。安倍さんのイニシアチブというよりは、アメリカの要求にどう答えるかというところが本当のところなんです。それを国会で議論できずにいるところが問題なんだよね。――「国民の理解が進んでいない」と安倍首相は言っていましたが、そもそも説明すると日本がアメリカの属国だとみんなに知られてしまう。猪瀬 要求を飲まされているということになってしまうからね。つまり議論をする前提ができていないんだ。日米関係で言えば、日本は黒船がやってきて以降の近代化のプロセスの中で“黒船レジーム”というべきものに支配されていて、そこから独立しようとして、さんざん苦労し、そして戦争に負けてしまった。この流れを理解した上で、現在の議論が出てこないといけないんだけど、ほとんど今の人たちは戦後レジームしか知らなくて、しかもディズニーランドの中にいる。――「押し付けだから変えよう」とか「平和憲法だから守ろう」という物言いは、短絡的すぎるということですね。猪瀬 とにかく議論の土壌ができていない。そのための材料を、メディアももっと提供し続けなければいけない。(「サイゾー」(9月号)より)* * *「日本国の研究」事務局 info@inose.gr.jp○------------------------------------------------------------------○【お知らせ】メールマガジン日本国の研究は、今週号をもって休刊します。長らくご愛顧いただき、ありがとうございました。編集長の猪瀬直樹はひきつづき、ツイッターやフェイスブックを通じて積極的に行っていきますので、ぜひフォローして注目してください。また好評をいただいております有料オンラインサロン「猪瀬直樹の近現代を読む」も会員募集中です!↓↓↓http://synapse.am/contents/monthly/inosenaoki━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━バックナンバーはこちら。 http://www.inose.gr.jp/mailmag/ご意見・ご感想はメールでどうぞ。 info@inose.gr.jp猪瀬直樹の公式ホームページはこちら。 http://www.inose.gr.jp/○発行 猪瀬直樹事務所○編集 猪瀬直樹○Copyright (C) 猪瀬直樹事務所 2001-2015○リンクはご自由におはりください。ただしこのページは一定期間を過ぎると削除されることをあらかじめご了解ください。記事、発言等の転載については事務局までご連絡くださいますよう、お願いします。 -
[MM日本国の研究863]「警備業を認知させた『ザ・ガードマン』」
⌘ 2015年09月17日発行 第0863号━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■■■ 日本国の研究■■■ 不安との訣別/再生のカルテ■■■ 編集長 猪瀬直樹**********************************************************************http://www.inose.gr.jp/mailmag/◉--------------------------------------------------------------------◉━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━【好評発売中!】『さようならと言ってなかった』(マガジンハウス)都知事就任、五輪招致活動、そして突然の辞任激動のさなか、妻は突然の病に倒れ、帰らぬ人となった。辞任以来の沈黙を破り、招致成功の秘話がすべてここに!↓アマゾンはこちら↓http://goo.gl/Rjm9TB「必死に縦割りを超えていこうとした」「日本がひとつになったから勝てた。チームニッポンの勝利だった」(著者インタビューより)○------------------------------------------------------------------○◇ 猪瀬直樹のオンラインサロン「近現代を読む」 会員募集中です!◇↓↓↓http://synapse.am/contents/monthly/inosenaokiこのサロンは、戦前・戦後の知識人や事件を参考図書と共に取り上げ、学べる参加型のオンラインサロン。激動の昭和時代、確かにあった知識と経験を、現代の視点から再び読み解き語ります。憂国の視点を持ちつつ安直な国家批判や既得権益批判は決してしない、作家・猪瀬直樹ならではのファクトとエビデンスに基づいた批評と、現代に活かす前向きな姿勢を保つ、日本の課題を考える現代の教養塾です。既存のメディアとは一味違う、新しい活字体験と思考体験をお約束します。○------------------------------------------------------------------○日本の「安心・安全」はどうして成り立ってきたか――。敗戦・占領、再武装、復興の象徴・東京五輪警備……。民間警備会社の黎明期の秘話から戦後史の謎を解き明かす猪瀬直樹の意欲作「民警」が「週刊SPA!」誌上で大好評で連載中です。今回のメルマガでは、まだ読んでいない読者のために、特別に発売中の最新号「警備業を認知させた『ザ・ガードマン』」から、さわりをお届け!「東京五輪の選手村警備で名をあげた日本警備保障(現セコム)は帝国ホテルの警備の受注に成功した。大映のテレビ映画部門の女性プロデューサーはホテルの玄関に颯爽と立つスーツ姿の民間警備員の姿を見て、その後6年9カ月つづくことになる大ヒットドラマの着想を得る……」全文はぜひ書店・コンビニで本誌をお求めください。・週刊SPA!の電子版→ http://www.magastore.jp/product/28258・紙版はアマゾン→ http://goo.gl/XlL1yf*「警備業を認知させた『ザ・ガードマン』」テレビ界には高視聴率シリーズをつづけた実績がある名プロデューサーがいる。山口百恵主演の「赤い疑惑」「赤い衝撃」「赤い絆」など「赤いシリーズ」は1970年代後半かなりに話題になった。三浦友和との共演が結婚へと結びついたからである。プロデューサー野添和子は、映画会社の大映にテレビ映画制作セクションがあり、そこに所属していた。映像コンテンツ市場が、映画からテレビに移りはじめたころだった。大映が倒産すると制作会社大映テレビとして残った。野添和子の双子の妹が女優野添ひとみである。プロデューサーと女優と別の道を歩んでいるが仕事の舞台は同じテレビである。「赤いシリーズ」より10年前、プロデューサー野添和子はまだ30代、走っている車のなかから帝国ホテルが見えた。「ホテルの玄関にすらりとした素敵な男性が二人、すっくと立っているさまがいいのよ。背広にネクタイがまたピシッときまっていてね」いまも鮮明に記憶しているのだ。同乗の野添ひとみとこんな会話をしている。「あの人、何かしら?」「守衛さんみたいな人のようね」「でもふつうの守衛さんとはイメージが全然違うよね。どんな人たちなのかしら」東京五輪が成功裏に終わりかけていたころ、野添和子は、翌年4月からのドラマの新番組の企画で頭を悩ませていた。スポンサーがサントリーだった。サントリーの広告は粋でモダンで……、と思われている。番組の中身もそうでないと企画は通らない。「彼らは何者なのか」を質問するためにあらためて帝国ホテルに行って訊ねた。そこで日本警備保障という会社の存在を知った。自分の知らない間に新しい職業が生まれていることに興味を抱いた。いきなり日本警備保障に取材を申し込んでは断られるかもしれないと考え、帝国ホテルを通し面会の希望を伝えた。ビルの屋上の脇の狭いオフィスでなく、そのころすでに神田神保町の大通り沿いのビルの一室へ移転していた。見栄えが格段によくなったオフィスに野添和子が訪ねたのである。「そこにいた二人がまた立派でタフな感じで、品もいいしねえ」飯田亮と戸田寿一は、たしかに若い二枚目の俳優のような印象を与える。野添には新しいドラマのイメージがふくらんだ。ちっぽけな日本警備保障が、日本を代表する一流ホテルである帝国ホテルの警備の仕事がとれたのは、オリンピック選手村の警備によって箔がついたからだった。オリンピックは10月24日で終わる、期限付きの仕事だった。終わったとたん、100人に膨らんだ警務士の給料を払えなくなってしまう。飯田にとっての心配の種は東京五輪後にあった。営業に駆け回ったが、新規契約に際しては「警備開始の準備が必要なため10月25日からになります」と了解を取って歩いた。帝国ホテルのほかにデパートの有楽町そごうの契約が取れた。「いま選手村の警備をやっています」は切り札だったが、実際に相手側がその気になって契約取得に成功したのは大会閉幕後、国民的熱狂の五輪の警備を無事に終えてからであった。帝国ホテルの犬丸徹三社長から「ちょっと見に来ないか」と電話が入った。夕方、暗くなりかけていた。「灯りのついている部屋と消えている部屋があるが、君はこれをどう考えるか」「ルームキーがフロントに返されているのに、灯りがついていることを、セキュリティの視点でどういうふうにとらえるか」と矢継ぎ早に、質問された。的確な応えができるわけがない。77歳の犬丸社長は、若者にホテル業の奥深さをさりげなく伝えているのである。そして付け加えた。「ホテルのセキュリティは目立てなければならない場面と、目立ってはいけない場面の両方がある。制服で警備したり、私服で警備したりするのはそのためである。大事なことはお客様に不快感を与えてはいけないことだ」こうして帝国ホテルの警備を始めたばかりの翌11月、野添和子が、正面玄関を私服で立哨している警務士をめざとく見つけたのである。TBS系列で金曜夜9時30分から1時間のテレビドラマ『ザ・ガードマン』がスタートしたのは、東京五輪から半年後の1965年(昭和40年)4月である。最高視聴率40・5%を記録して1971年12月まで延べ6年9カ月(全350話)つづいた看板番組が誕生する。*全文はぜひ書店・コンビニで本誌をお求めください。・週刊SPA!の電子版→ http://www.magastore.jp/product/28258・紙版はアマゾン→ http://goo.gl/XlL1yf* * *「日本国の研究」事務局 info@inose.gr.jp━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━バックナンバーはこちら。 http://www.inose.gr.jp/mailmag/ご意見・ご感想はメールでどうぞ。 info@inose.gr.jp猪瀬直樹の公式ホームページはこちら。 http://www.inose.gr.jp/○発行 猪瀬直樹事務所○編集 猪瀬直樹○Copyright (C) 猪瀬直樹事務所 2001-2015○リンクはご自由におはりください。ただしこのページは一定期間を過ぎると削除されることをあらかじめご了解ください。記事、発言等の転載については事務局までご連絡くださいますよう、お願いします。 -
[MM日本国の研究862]「東京五輪に影を落とした米国駐日大使刺傷事件」
⌘ 2015年09月10日発行 第0862号━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■■■ 日本国の研究■■■ 不安との訣別/再生のカルテ■■■ 編集長 猪瀬直樹**********************************************************************http://www.inose.gr.jp/mailmag/◉--------------------------------------------------------------------◉━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━【好評発売中!】『さようならと言ってなかった』(マガジンハウス)都知事就任、五輪招致活動、そして突然の辞任激動のさなか、妻は突然の病に倒れ、帰らぬ人となった。辞任以来の沈黙を破り、招致成功の秘話がすべてここに!↓アマゾンはこちら↓http://goo.gl/Rjm9TB「必死に縦割りを超えていこうとした」「日本がひとつになったから勝てた。チームニッポンの勝利だった」(著者インタビューより)○------------------------------------------------------------------○◇ 猪瀬直樹のオンラインサロン「近現代を読む」 会員募集中です!◇↓↓↓http://synapse.am/contents/monthly/inosenaokiこのサロンは、戦前・戦後の知識人や事件を参考図書と共に取り上げ、学べる参加型のオンラインサロン。激動の昭和時代、確かにあった知識と経験を、現代の視点から再び読み解き語ります。憂国の視点を持ちつつ安直な国家批判や既得権益批判は決してしない、作家・猪瀬直樹ならではのファクトとエビデンスに基づいた批評と、現代に活かす前向きな姿勢を保つ、日本の課題を考える現代の教養塾です。既存のメディアとは一味違う、新しい活字体験と思考体験をお約束します。○------------------------------------------------------------------○日本の「安心・安全」はどうして成り立ってきたか――。敗戦・占領、再武装、復興の象徴・東京五輪警備……。民間警備会社の黎明期の秘話から戦後史の謎を解き明かす猪瀬直樹の意欲作「民警」が「週刊SPA!」誌上で大好評で連載中です。今回のメルマガでは、まだ読んでいない読者のために、特別に発売中の最新号「東京五輪に影を落とした米国駐日大使刺傷事件」から、さわりをお届け!「東京五輪開幕約半年前の1964年(昭和39年)3月24日、米国大使館のロビー前で、当時の駐日大使ライシャワーが、敷地に侵入した19歳の少年に刺され負傷する永田町を震撼させる事件が起きた。それを重く見た東京五輪組織委員会次長・村井順は、選手村工事の警備を託した民間警備会社の若き経営者を呼び寄せた……」全文はぜひ書店・コンビニで本誌をお求めください。・週刊SPA!の電子版→ http://www.magastore.jp/product/28113・紙版はアマゾン→ http://goo.gl/hEP0k7*「東京五輪に影を落とした米国駐日大使刺傷事件」第2回で、原宿のセコム(日本警備保障)の高層ビルの最上階の大きな窓から、かつて東京五輪の選手村だった代々木公園が見えた、と書いた。82歳の飯田亮・最高顧問は窓辺で言った。「あそこは……、僕にとって古戦場でしてね」東京五輪の代々木選手村の警備は、日本警備保障の跳躍台となった。オリンピックの翌年に綜合警備保障(アルソック)を創業する村井順は、東京五輪組織委員会事務次長である。工事中の選手村警備の契約が成立してしばらくしてから、日本警備保障という会社はふだんどんな仕事をしているのか、そのシステムについて訊きたいと、村井次長は飯田を呼んだ。でっぷり太った達磨顔の55歳の元警察官僚と30代に入った若い経営者がこうして初めて顔を合わせた。原宿の高層ビルの最高顧問室で飯田は、それまでの穏やかな表情から、やや憮然とした顔で語り出した。この思い出は、あまり愉快なものではないようだ。「村井さんに、いろいろなことを訊かれました。契約の書類のこととか、システム? まだそんな上等なものではありませんでしたが、人をどうやって採用するかとか、教育訓練とかローテーションのようなものとか、実際に警備業をしている会社はどこにもないわけですので、こちらの経験を話すしか知る方法はありませんからね」村井は、根掘り葉掘り訊ねた。もちろん、飯田は東京五輪後に村井が同種の新会社を立ち上げることになるとは気づいていない。村井自身もまだそこまでは考えていなかったであろう。ただ何か、企業機密を利用される微かな不安、暗い雲がふくらみ覆われるような圧迫を感じている。1964年4月14日に選手村工事の起工式が行われた。錆びた水道管を埋め直し、白い住宅に新しいペンキを塗り、芝生を手入れし、選手の数に合わせた7200のベッドを運び込み、1000人収容の大食堂を二棟新築し、郵便局や銀行支店をつくり、という作業を夏までに突貫工事でやらなければいけない。開村式は9月15日で、開幕は10月10日である。それまで残り半年もない。村井次長が、起工式の前に若い飯田に警備のシステムについて訊ねたいと思ったのは、永田町に驚天動地の衝撃を与えた直後だったからでもある。3月24日正午過ぎ、アメリカ大使館の建物のロビー前で、敷地に侵入した19歳の少年に、エドウィン・O・ライシャワー大使がいきなり襲われ、ナイフで右大腿部を刺された。以下は警察に残されたライシャワーの調書である。「階段を降りて行くと、ロビーには何人か(少なくとも5、6人)人がいました。正面のドアを通り抜けようとした時、小柄で痩せた日本人がぶつかってきました。動作が妙に荒っぽく、わざとやったように思えました。男は黄褐色の薄汚れたレインコートを着て、何だか怒っているような表情でした。見るからに狂信的というか、頭がおかしいような顔つきです。30歳くらいに見えましたが、たぶんちらっとしか見なかったせいでしょう。不審に思った私は振り返って、周囲の人に『この人は何をしているんだ?』というような意味のことを言いました。その声を聞いてか、それともぶつかった瞬間だったか(どちらかは覚えていない)、とにかく男ははっとしてこちらを見返し、目が合うと、くるりと向きを変えて突進して来るなり持っていた包丁を私の右太股に突きたてました。包丁はレインコートのポケットの中で握りしめていたのでしょう。(略)一瞬、痛みを感じなかったので、それほどの深手とは思いませんでした。『捕まえろ』と怒鳴ると、館員が飛んできて男をねじ伏せました。気がつくと、血がどんどん流れていました」(3月26日)日本政府は動揺した。*全文はぜひ書店・コンビニで本誌をお求めください。・週刊SPA!の電子版→ http://www.magastore.jp/product/28113・紙版はアマゾン→ http://goo.gl/hEP0k7* * *「日本国の研究」事務局 info@inose.gr.jp━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━バックナンバーはこちら。 http://www.inose.gr.jp/mailmag/ご意見・ご感想はメールでどうぞ。 info@inose.gr.jpメールアドレスの変更の方はこちら。 *|UPDATE_PROFILE|*配信解除の方はこちら。 *|UNSUB|*まぐまぐの配信解除は http://www.mag2.com/m/0000064584.html猪瀬直樹の公式ホームページはこちら。 http://www.inose.gr.jp/○発行 猪瀬直樹事務所○編集 猪瀬直樹○Copyright (C) 猪瀬直樹事務所 2001-2015○リンクはご自由におはりください。ただしこのページは一定期間を過ぎると削除されることをあらかじめご了解ください。記事、発言等の転載については事務局までご連絡くださいますよう、お願いします。
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