戦前に言論統制が強まったのは昭和15年(1940年)ぐらいからのことである。それまでは神話時代の歴史を国民にどう示していたかというと、たとえば大正11年(1922年)に刊行された『国民の日本史』という叢書の第1編『大和時代』では、日本人の始まりを神々の天孫降臨などとしていたわけではない。日本人の先祖は主として南ツングース族であり、若干は北ツングース族に属するものとあたりまえに記述していた。この書では日本人の先祖が列島に移住してきた経緯を次のように述べている。
原日本人の移住は、一時に大部隊が来たのではなく、群集をなして来たとしても、それは一家族、あるいは二、三家族ぐらいのものであった。時には一人あるいは二、三人からなる小集団もあったろうけれど、大体としては移住者の単位は家族であったに違いない。
*原文は旧表記。
原日本人、すなわちツングース族の集団が、旧アイヌ族などの他種族と軋轢しながらも共存し、信仰生活におけるシャーマンの存在から皇室の祖形が勃興する。神話抜きのそのプロセスを戦前刊行の史書では〝国民の日本史〟として普通に記述していた。
この『国民の日本史』シリーズの第1編『大和時代』を執筆した人類学者・西村真次は、原日本人を7種の人種の混合民族と説明している。その7種とは、以下の通りである。
この『国民の日本史』シリーズの第1編『大和時代』を執筆した人類学者・西村真次は、原日本人を7種の人種の混合民族と説明している。その7種とは、以下の通りである。
1.ネグリート族、2.旧アイヌ族、3.ツングース族、4.インドネシア族、5.印度支那族、6.原支那族、7.蒙古族
ネグリート族というのは、フィリピンの先住民族で、いわゆるピグミー族、小人族のことである。西村はこの種族が日本にやってきたのを紀元前3000年頃とし、旧アイヌ人より以前に列島に住んでいた先住民とする。つまり、アイヌの伝説に言われる先住の小人族(コロボックル)というのはネグリート族を指すものということになる。
旧アイヌ人というのは現在のアイヌ人ではなく、北方白人族のことである。この人々は紀元前2000年頃に日本列島に入ってきたと西村は説明する。そして、その次にやってきたツングース族が原日本人の主流とされる。これは満州エリアにいた複数の遊牧民の部族がそれぞれに移住してきたもので、東北ルートで来た部族は旧アイヌと混合して蝦夷族を形成し、半島から日本海ルートで山陰地方に入った種族は出雲族を形成した。
九州に入ったツングース族は日向族を形成し、後に天孫降臨と称して大和に東征する。一方で南から九州に入ったインドネシア族は薩摩に根を張って隼人族となった。また印度支那族というのは大陸の南国境、すなわち現在のブータン、ミャンマーあたりから来た部族である。列島に稲作を持ち込んだ苗族(ミャオ族)もこの領域にいたことがあるが、彼らは東に移動して長江流域から日本列島に入った。〝倭人〟というのは苗族を含む江南にいた人々を指して原支那族が呼んだ名称であるが、それはひとつの種族を指すのではなく、原支那族から見て自分たちとは異なる文化風俗の民をざっくり呼んだ名称である。主として刺青と抜歯の習慣のある海洋民を指していた。
原支那族というのは、西村真次によると「混血する前の漢族」ということになる。しかし、これは人種ではなくて民族を指して言う便宜的な名称なので、たとえば古代中国の殷王朝を建てたのは一説にツングース族とも言われているから、この時代の漢族の定義は曖昧である。したがって「混血する前の漢族」というのは、劉邦が統一した漢代あるいは後漢までの構成者たちをさしあたり想定するしかなく、その後は主に中国南朝が継承した国の人々、せいぜい隋による統一以前のシナを構成した人々のことである。現在の大陸で漢民族と称している人々とは違う。また西村真次が言う蒙古族というのは、中央アジアの遊牧民全般を指しているようだが、主として匈奴などのトルコ系民族のことを指して言っているようである。
ちなみに原支那族、すなわち原漢族は、たびかさなる王朝の滅亡やら交替やらで離散し、朝鮮半島や日本列島に逃れている。そのときに漢族帝室の末裔と称すると半島や日本ではステイタスになったので、後世までそのような伝説を利用して亡命政権を企てることがあった。倭人が自らを呉の太白の末裔と伝承していたのもその類いであるが、実際に呉・越の残党が東に逃れた可能性はあり、江南で発見された人骨と弥生人の人骨の同一を示すDNA鑑定報告もある。
日本人を呉の太白の末裔と考えるかどうかは南北朝時代から議論されている。つまり皇統が分立したことから正統性の議論に関わって浮上した問題であり、江戸時代に至るまで知識人の間で課題とされていた。林羅山や新井白石などの儒学者はシナの文献に基づいて研究したが、呉の太白説を嫌って『記紀』の神話を重視したのが水戸光圀であり、本居宣長も神話をそのまま受け入れる立場を取った。このあたりの議論は現代人の観念の基礎的な部分を左右しているのであらためて述べる。
ちなみに原支那族、すなわち原漢族は、たびかさなる王朝の滅亡やら交替やらで離散し、朝鮮半島や日本列島に逃れている。そのときに漢族帝室の末裔と称すると半島や日本ではステイタスになったので、後世までそのような伝説を利用して亡命政権を企てることがあった。倭人が自らを呉の太白の末裔と伝承していたのもその類いであるが、実際に呉・越の残党が東に逃れた可能性はあり、江南で発見された人骨と弥生人の人骨の同一を示すDNA鑑定報告もある。
日本人を呉の太白の末裔と考えるかどうかは南北朝時代から議論されている。つまり皇統が分立したことから正統性の議論に関わって浮上した問題であり、江戸時代に至るまで知識人の間で課題とされていた。林羅山や新井白石などの儒学者はシナの文献に基づいて研究したが、呉の太白説を嫌って『記紀』の神話を重視したのが水戸光圀であり、本居宣長も神話をそのまま受け入れる立場を取った。このあたりの議論は現代人の観念の基礎的な部分を左右しているのであらためて述べる。
さてツングース族すなわち北東アジアの遊牧民族を日本人の主な祖先とする説は、西村真次より以前に鳥居龍蔵が述べていた。西村はその説を継承したのである。前回述べたドイツの医師ベルツによる日本人源流説に始まって、鳥居から喜田貞吉などに継承された日本人複合民族説は、戦前の日本人ルーツ論においてほぼ主流の学説だったのである。西村真次はそれを詳細に体系づける仕事をしたが、この学者の名前も業績もいまは忘れられている。
というより、大東亜戦争の敗戦で日本人がすっかり健忘症になったのかもしれないが、戦後に江上波夫の騎馬民族説が出てくる下地は、戦前にすでに整備されていた。国民の間にも流布していたことである。したがって江上説というのは敗戦後の日本人にとって特段に驚くような説ではなかったはずである。しかし、江上説は天皇のルーツという文脈を明確に打ち出した説だったため、そこが戦時であれば言えないことだったという事情から、戦後の日本人には新鮮に受け止められたという経緯はある。ただし、内実としては戦前からとっくに言われていたことを江上説は少々大げさに描いただけである。
ところで、この日本人のルーツをめぐる種族の混淆という問題について、過去の日本人がどう考えていたかというと、中世ぐらいまではあたりまえの認識だったようである。戦国時代には東北地方のことを〝日の本〟(ひのもと)と呼んでおり、その名称が〝日本〟(にほん)と区別されていたことが『人国記』という地理書でわかる。また豊臣秀吉が小田原攻めのおりに書いた書状のなかでも、奥州のことを〝ひのもと〟と呼んでいたことはよく知られている。いずれも有名な話であるが、かつて奥州があたりまえに〝日の本〟だった意味については必ずしもよく知られているとは言いがたい。
『人国記』の成立年は不明だが、武田信玄が愛読していたという記録もあるので、戦国期にはすでに流布していた書物である。後に江戸で旅行ブームが生まれた元禄期に『新人国記』という改訂版が出て広く知られた書物だが、そのなかの陸奥国の説明、すなわち奥州の人々の特徴として、この書は次のように記している。
この国の人は日の本のゆえにや、色白くして眼色青き事多し。
色白で眼の色の青い人が多いというのだが、その理由として、陸奥国すなわち東北地方が「日の本のゆえ」だろう、としている。そして他の箇所では「陸奥国の風俗は日本の偏鄙(へんぴ)なるゆえに……」とか、この国の人は「勇気正しき事、日本に劣るべき国とも思われず」などと書いてある。したがって〝日の本〟は〝日本〟と同じ意味ではないのである。日本は列島の諸国全体を指し、そのなかの奥州が特に〝日の本〟と呼ばれた。
『日本書紀』によると、朝廷から見た東夷には〝日高見国〟(ひたかみのくに)という広大な国が存在したという。「その国を撃って取るべし」というのである。いまでも奥州の古名を日高見国とする感覚は生きているので、〝日高見国=日の本〟という認識が古来あった可能性がある。すると大和朝廷がその地をのっとって〝日の本〟になりすまし、国号を〝日本〟としたという見方もできそうなのだが、だいたいにおいて〝日本〟というのは〝東方〟という意味の言葉だったので、西国から見れば東国が普通名詞としての〝日本〟だったのである。
また大陸のシナ王朝から見ると、半島も日本列島もひっくるめた東夷のことを〝日本〟と呼んだ節がある。つまり、大和朝廷が〝日本〟という国号を採用したのは、大陸から見た東夷を統一的に支配する権限を有するという意味だったことにもなる。しかし、もともとは列島の東北にある日高見国の通称が〝日の本〟および〝日本〟だった。ゆえにその既成事実を消し去る必要性から大和朝廷は東国を蝦夷と呼んで必死に攻撃したのであろう。その間に大和朝廷は、内政的には自分たちの国号を〝やまと〟とし、対外的には〝日本〟という漢字を使って、その読み方を〝やまと〟としたわけである。
しかし『人国記』などが示すように、中世になっても奥州は〝日の本〟と呼ばれ続けていた。当時の日本人にとっては〝日高見国=日の本〟という記憶が思いのほかに鮮明だったことになる。元禄14年(1701年)に改訂刊行された『新人国記』でも「この国は日の本のゆえに、色白うして、眼青みあり」と記されている。近世社会でも〝日の本〟が奥州の別名であることはそれなりに常識の範疇だったと思われる。
ところが、徳川時代が終わって半世紀近くが経った頃、すなわち日清・日露戦争に勝利して近代日本が欧米に伍する世界の一等国になったと国民が認識するようになった明治44年(1911年)になると、事情が違ってくる。この年に『新人国記』を復刻した『六十六州人国記』が刊行されるが、そのなかでは陸奥国の説明が次のように記されている。
ところが、徳川時代が終わって半世紀近くが経った頃、すなわち日清・日露戦争に勝利して近代日本が欧米に伍する世界の一等国になったと国民が認識するようになった明治44年(1911年)になると、事情が違ってくる。この年に『新人国記』を復刻した『六十六州人国記』が刊行されるが、そのなかでは陸奥国の説明が次のように記されている。
此国の人は、色白くして眼に青みあり。
「日の本のゆえに」という部分が、省かれているのである。
この近代版の『人国記』の刊行にあたって旧本を校訂したのは、『日本風景論』で知られる地理学者・志賀重昂である。志賀はこの書の校訂にあたって元禄版と天保年間の写本を対照したと述べている。この点について、戦後に『人国記』を復刻した心理学者・渡邊徹によると、志賀は旧『人国記』の天保版写本を加工したようである。「日の本のゆえに」という部分を意図的に省いたのは、ナショナリストだった志賀の政治的配慮によるものと思われる。奥州を〝日の本〟と呼ぶ日本人の感覚は、近世を通じて自然に薄れたにせよ、明治期にはその記憶を徹底して消す作業があって、今日に至ったのである。
国民国家という概念のない古い時代の日本人の感覚について、別の材料からも見てみると、16世紀にイエズス会の宣教師たちが残した記録がある。日本侵略の地ならしとして布教活動をしていた彼らのなかに、ジョアン・ロドリゲスというよく知られた人物がいる。この人は日本語がよくできて、『日本語文典』などの書物を残しているから、一般的には語学者みたいに思われている節もある。だが、この人物は子供の頃に日本に送り込まれて自然と日本語に熟達するように育成された筋金入りのエージェントである。その実態は、日本の大名との商取引を差配するべく暗躍した国際金融資本の財務担当者だった。
ロドリゲスが、日本人と日本の歴史をどう見ていたかは、『日本教会史』という著書に述べられている。その内容を見ると、ロドリゲスの認識はだいたい倭人伝系の中国史書に基づいており、それ以外には神武天皇に始まったという平凡な知識が述べられている。日本は大陸からの移住者が建てた王国というのが基本的な見方である。
だが、次のような意味深なことも書かれている。
だが、次のような意味深なことも書かれている。
日本のいくつかの特別な領国や、海に接する場所には、昔のシナの本来のシナ人が移住したことも確実であり、周知のことである。例えば、天草Amacusaの島々がそれであって、そこの領主はシナの一帝王の子孫であった。
*青字は引用者による。以下同。