東京・大手町の平将門首塚というのは、実際には将門の時代以前からある古墳であって首塚ではないのだが、これと同じような古墳は東京にいくつもあって、その多くは省みられることもなく地面の下に埋没している。明治以後に皇居になった江戸城の敷地も、官製歴史では太田道灌が築いて以来のことしか強調しないが、なぜ道灌がこの地に江戸城を築いたかといえば、それ以前からこの地に旧領主・江戸氏の館があったからである。ならばなぜ江戸氏がこの地に館を築いたかというと、もともとこの地が高台になっていて、周囲の低地との間で人々が住み分けていたからである。徳川幕府による開発以前の東京エリアは、山の手方面は森が広がり、低地は河川が入り乱れて海とのつながりが濃厚だった。

 古墳時代の東京エリアにいた人々は〝アイヌ〟とも〝プレアイヌ〟とも言われているが、彼らが現代人のマジョリティとは異なる種族だったというのは、明治時代に米国の動物学者エドワード・モースが大森貝塚の調査をしたときから言われていたことである。縄文時代の丸木舟は関東での発掘例が最も多いし、また1989年に米国の人類学者ローリング・ブレイスが中世の鎌倉攻めの犠牲者人骨を調査した結果、鎌倉武士は人種的にアイヌと近縁であることがわかったという。なんだか怪しい説ではあるが、日本の古代史ジャーナリズムが邪馬台国ばかりを喧伝しているうちに、東国の実相が置き去りにされてきたのは確かである。どういう人々にとってそれが好都合だったかと考えてみると、明治天皇がわざわざ東京に来て江戸城を皇居にしたことからして、実は江戸=東京の地下の隠蔽に役立ったという経緯がある。

 武蔵野は満州に似ていると言ったのは鳥居龍蔵である。この日本人類学の先駆者は、関東に分布する物部氏の一族の痕跡に注意せよと言った。『萬葉集』にあるように、武蔵野国荏原郡(品川・太田・世田谷あたり)にいた物部歳徳(もののべのとしとこ)・物部廣足(もののべのひろたり)などの人物や、武蔵野国橘樹郡(たちばなぐん/横浜・川崎あたり)にいた物部真根(もののべのまね)などの人物は、防人として筑紫に派遣された人々である。また武蔵野国埼玉郡(埼玉県東部域)にいた物部刀自賣(もののべのとじめ)という女性は、夫が防人として出征するのを見送るおりに、着物の袖をふる夫の姿がよく見えるようにもっと衣の色を深く染めておくべきだった……という痛切な絶唱を残している。

 物部氏は各地に分布するが、東国の物部氏は平将門の乱より前に、その呼び水となる戦争を起こしている。朝廷にまつろわぬ者たちが群盗となるなかで、その戦闘集団の頭領に物部氏永(もののべのうじなが)という者がいて、朝廷への反乱を起こした記録がある。

 物部氏というと、通常日本史では6世紀に蘇我氏との争いに敗れて没落したことになっている。しかし、もともとは大和朝廷の有力な軍事氏族であって、神話上の先祖は饒速日命(にぎはやいのみこと)とされている。この神は天孫降臨よりも以前に河内国(大阪)に根を張っていた。天皇より前に日本の中央に存在し、しかも天孫族と同じく天から降りた神とされていた。神武天皇の大和平定の大義を記さなければならない正史にあっても、饒速日命が先住の天つ神であることを認めざるを得ず、その記述を削除できなかった存在である。

 饒速日命を先祖とする物部氏は、天皇と同格の天つ神の子孫だったことになる。そうであれば、物部氏は大和朝廷に服属したというより、物部氏から天皇へと皇統が交替した暗示ともなる。ならば物部氏は前王朝の流れになるが、その末裔が没落後に東国で反乱軍を形成したのである。埼玉の所沢に北野天神社という神社があるが、これは10世紀に菅原道真の子孫が北野天満宮を合祀する以前は、物部天神社であった。物部氏の霊を祀っていたのが祖形である。ついでに言えば、失脚して怨霊となった菅原道真の末裔の痕跡も関東にあり、また大和朝廷以前に西日本を支配した出雲の痕跡も関東にある。それと同時に、関東には古くから海人族(あまぞく)の痕跡があり、これは関東以外の各地にも及んでいる。

 海人族というと、海女さんのイメージがあるので、海に潜る人々とばかり思われているが、太古に海の向こうから列島にやってきた海人族は、もちろん男も女もいて、またひととおりの種族ではなかった。海辺ばかりを拠点としていたわけでもなく、河川のあるエリアに分布したので、関東では利根川水域に長いこと海女の習俗があった。この人たちは生活基盤の広がりにつれて、山に入って狩猟もしたし、農耕民族にもなっていく。列島に稲作を持ち込んだのはもともと大陸の長江流域にいた苗族(ミャオ族)とも言われているが、私たちが思う以上に列島には多くの種族が流れ込み、それぞれの生活が確立されていたのである。

 現在の苗族の人々は、太古に日本に来た人々と同じとは言えないかもしれないが、彼らの写真を見ると、ああこの人たちは私たちと同じだなと直感される。苗族は古代に大陸にいたときに、北方からの漢族の圧力で東に逃れたと見られている。そして漢代に朝鮮半島を殖民していた楽浪郡の漢人たちも、中央政情の悪化から高句麗の圧力を受けて政治機能を消失し、列島に逃れて帰化した経緯がある。日本列島というのは東の果ての最後のアジールだったと見えて、亡命生活にはうってつけだったようである。列島より東には逃れようもないから、種族の違う人たちの間で軋轢があったとしても、おのずと運命共同体として共存せざるを得ない。日本人の心性はここに育まれたと見るほかはない。

 海人族ベースの列島では、かなり多くの国が築かれ、それぞれの集落で異なる神事がおこなわれていた。同じ海人族でも一種族ではないので、言葉も違えば風習も違う。しかし同じ山海の恵みを得て生活しており、いずれも母系社会であって、基盤となる信仰も一致していた。つまるところそれは太陽信仰だったので、そこが一致していれば、異なる神を祀る別個の集団であっても、ゆるやかな連合体を築くことはできたのである。言いかえれば、その基本となる信仰の基盤を破壊してしまえば列島の支配者となることはできなかったはずであり、大和朝廷が海人族の神であるアマテラスを利用した理由もそこにあった。

 もともと列島にいた海人族の母系社会に、天孫族の父系の論理がやってきて、支配の上塗りをした。そのプロセスはいろいろあるにせよ、だいたいにおいてこれが日本が成立したいきさつである。その事情について柳田國男の民俗学は何も語らない。だから日本を知ろうとして民俗学に入ってしまうと、大きな遠回りをすることになる。結局のところ今日の日本民族源流論は、明治期に大陸に渡って苗族を実地調査した鳥居龍蔵の業績に回帰している。ところが戦後のムーブメントは、柳田國男のテキストばかりが入手しやすいようにされて、また古代史といえば邪馬台国の話ばかりが耳目に触れやすいような状況を作ってきた。だからみんなそこから入門するが、vol.32で述べたように、これも意図的に作られた迷路の入口である。

 しかし戦後の日本人は一般的に自ら迷路にはまることを好み、真実から目を逸らすことに安住してきた節もある。それを意識的にも無意識的にも望んできたとすら思われる。歴史というのは多かれ少なかれ直視しがたい面を持つからである。柳田國男も当初は日本人のベースとして異種族の混淆という問題を扱っていたのである。戦前の日本人論はむしろそれが主流であって、1876年(明治9年)に東京医学校(現・東京大学医学部)に招聘されたドイツの医師・エルヴィン・フォン・ベルツは、日本人を実地に調査した結果、1.アイヌ型、2.満州・朝鮮型、3.マレー・蒙古型の3種に分類していた。このうち、日本の支配層は2に該当し、これをベルツは〝長州タイプ〟とした。そして多くの下層民は3に該当し、これを〝薩摩タイプ〟とした。

 ベルツは〝長州閥の正体〟を見抜いていたのである。