小説『神神化身』第二部 
第五話

千思万考(せんしばんこう)インフルエンス

 浪磯(ろういそ)にも気持ちの良い風が吹き始めた。三言(みこと)は、この時期の浪磯の空気が好きだ。何かが始まる予感がして、どこか浮き足立ってしまう。そういえば、遠流(とおる)が帰ってきてくれたのも、同じような穏やかな晴れの日だった。
 今日はバイトが休みの日なので、舞奏社(まいかなずのやしろ)へと稽古に向かうまでに時間がある。だからこそ、三言は小さな白い箱を持って、ここにやってきたのだ。インターホンを鳴らすと、ややあって、中から長身の女性が出てくる。
「いらっしゃい、三言くん」
「こんにちは、千陽(ちはる)さん」
 七生千陽(ななみちはる)は、そう言って微笑んでみせた。
 三言の家の隣──家族がまだ存命だった頃、共に暮らしていた生家の隣──に住んでいるのが千陽だ。千陽の家は夫婦二人暮らしで、三言が小さい頃から、家族ぐるみの付き合いがある。
 特に、千陽の方は歳の離れた姉のように──あるいは、まるで母のように三言を見守ってくれている。そんな彼女の元を、三言は定期的に訪れることになっていた。
「今日もチーズケーキなんですけど……」
「チーズケーキ大好きなので、嬉しいですよ。さあ、私は紅茶を淹れますね」
 少しだけ弾んだ声で、千陽は三言を中に通した。
 いつからか、全力食堂で出す為のスイーツを千陽に試食してもらう習慣が付いた。彼女は昔から大の甘党で、甘いものに対する目が厳しい。だから、彼女が太鼓判を押すスイーツなら自信を持てるというわけだ。
 紅茶を淹れると、二人での実食タイムだ。今朝出来たばかりの改良版レアチーズケーキを一口食べると、千陽は
「美味しい! これ凄く美味しいと思いますよ。この前のものより更に美味しくなっています。下に敷いてあるクッキー部分を変えました?」
「そうなんです。前よりちょっとだけ固めに仕上げてみました」
「素敵だと思いますよ! これなら、今度こそ全力食堂に出せるんじゃないですか?」
「……そうですね」
 千陽の言葉には嘘が無いだろう。このレアチーズケーキは本当に美味しく出来ているのだ。自分でもそう思う。けれど、何故かしっくりこない。そんな三言の内心を悟ったのか、千陽は小さく首を傾げた。
「これでもまだ、何か違うんですね?」
「はい……。もう五回目になるんですけど、まだ」
「三言くんの納得がいくまでこだわった方がいいと思います。こんなことを言うのはあれですけど、私は美味しいチーズケーキを食べる機会に恵まれますので」
 茶目っ気たっぷりに千陽が笑う。その笑顔を見て、心が安らいだ。
「また持って来ます。そうしたら、感想を聞かせてください」
「こんなことでよかったらいくらでも協力させてくださいね。それにしても、本当に美味しい……」
 幸せそうに千陽が目を細める。それを見て、三言は改めて「ありがとうございます」と言った。

 

 どうしてレアチーズケーキだけ上手く作れないのだろう。いや、むしろ何故上手く作れないレアチーズケーキに、自分はこんなにこだわっているのだろう。自分でもよくわからない。五回試してどれもしっくりこなかったのなら、他のメニューを試してみればいいのかもしれないのに。
 そんなことを思いながら、舞奏社(まいかなずのやしろ)に向かう。意外なことに、もう既に遠流と比鷺(ひさぎ)が稽古場にいた。尤(もっと)も、自主練習に勤しんでいるのは遠流だけで、比鷺は床に寝そべりながらスマホを弄(いじ)っているだけなのだが。
「あ、三言だ~。今日は三言が一番遅いじゃん。何やってたの? 俺ねえ、今日ここ一番乗りなんだよ! 褒めて褒めて」
「お前はただ舞奏社に来ただけで大口を叩くな。お前が舞奏社に来てやったことはエゴサとソシャゲだけだろうが」
 遠流が冷たい目を比鷺に向ける。
「残念でしたー! 今日はパブサもしてまーす。気になった単語から自分と特に関係の無い用語まで延々とサーチして無限にネサフ出来ちゃうのが俺だから!」
「誇るな、SNSゾンビ。気を抜き過ぎだ」
「ちょっ、生き生きくじょたんになんてこと言うの!? なんか超パーリィが終わりましたし、一つの節目として一段落致しまして、第一部完といいますか」
「お前の人生にもエンドマークが付くことになるぞ」
 遠流の言葉に、比鷺が大袈裟に「ひゃあ」という声を上げる。追撃を仕掛けようとする遠流を諫(いさ)めながら、三言は笑顔で言った。
「まあまあ、比鷺がこんなに早く舞奏社に来るなんて珍しいじゃないか。それだけでいいことだろ」
「ハードルが地面にめり込んでるんだよ。三言が優しいのはいいことだけど、ハードルを地面から出さないと、こいつはいつまでも地底にいることになるよ」
「ひいん、遠流が俺を地下行きにするぅ……」
「第一、お前昼前から舞奏社に来てるのに全く稽古してないってどういうことなんだよ。社人(やしろびと)に噂されてたぞ? 何をしてたんだ?」
 遠流が比鷺に鋭い目を向ける。すると、比鷺がおずおずと口を開いた。
「……なんか、あの人……いや、俺のクソ兄貴から、家宛に手紙が届いたらしいんだよね。俺宛だったら焼き捨てるんだけど、家宛。それで、なんか家の中が大騒ぎになって……居づらいから逃げてきた」
 子供のような所在なげな口調で比鷺が言う。その様子は、なんだかいつもの比鷺とは違って、心を固く閉ざしているようにも見える。
「鵺雲(やくも)さんから? 連絡があったなんて嬉しいことじゃないのか?」
「嬉しくない。あの人が何かしてくる時はね、最悪なんだよ。動いた時点で、晴天の霹靂(へきれき)なの」
 比鷺が苦虫を噛み潰したような顔で続ける。
「わかんないかな。あの人、何にでも寛容な顔して、結局は何でも自分の思い通りにするの。周りの人を誘導して、それとなく強制して、なのに、その人が自分で選んだみたいにさせんの。極めつけには、その選択を許してあげるわけ。性質(たち)悪いよねえ。あいつが選ばせて、あいつが許す究極のマッチポンプ。なのに、誰も逃げられないんだ」
 その言葉は、三言に聞かせるというよりは、自分に言い含めて復唱しているようでもあった。
「だから、家いたくないんだよー! うわーん三言! 今日は全力食堂に泊めてえ!」
「小平さんがいいなら別に構わないが……。何なら、朝までするか? 稽古。舞奏社なら泊まり込みも許してくれるかもしれない」
「げ、どうしてそうなるの!? うう、やとさまぁ」
「野宿しろ、野宿」
 すげなく言いながら、遠流が神楽鈴(かぐらすず)を構える。それを見た比鷺は、渋々ながら立ち上がった。

 

 *


 

 阿城木(あしろぎ)家では、朝食の時は食事中でもテレビを点けていいことになっている。天気予報とかニュースとか、あるいは占いなんかの重要なものが観られるから──というのが魚媛(うおめ)の言だ。
 なので、今朝もテレビからはニュースが流れていた。時事的な話題が終わり、今度は芸能関連の話に移っている。そこまで興味の持てる内容じゃないので、阿城木は黙ってあずきと生クリームの載ったトーストを囓った。
 七生(ななみ)がこの家に来て以降、食卓の様子が少しばかり変わった。具体的に言えば、夕食後のデザートは当たり前になったし、トーストが出る際は、マーマレードジャムよりもシュガーメープルだったり今回のようなあずきだったりが添えられるようになった。完全に、甘党な七生に合わせた結果である。
「だって、入彦(いりひこ)はちーくんみたいにいちいち大はしゃぎしてくれないでしょ? そりゃあ私もちーくんを甘やかしちゃうし、卵焼きも甘くしちゃうわ」
「俺だって毎回美味しいって言ってるだろうが……! というか、それで卵焼きの味がロシアンルーレットになってたのかよ! 甘いの作るなとは言わねえけど、せめてしょっぱいのと分けてくれって」
 卵焼きにしろ何にしろ、七生は出されたものは全部幸せそうに食べるので、作り甲斐があるのだろうということはわかるのだが。
 居候として置いているはずなのに、段々と阿城木家の方が変わっていっている。おまけに、魚媛が朝早くから出かけていて、家に二人っきりな時の七生ときたら。まるで自分の家であるかのように、こんもりとあずきを盛っている。それはもう、トーストを言い訳にしてあんこを食べているだけなんじゃないのか。
「何? じろじろ見つめないでよ」
「おい、お前あんこのっけすぎじゃ……いや、お前はちょっとくらい太った方がいいんだろうけど、流石に」
「まだあんこいっぱいあるんだからいいでしょ。むしろ遠慮してる方だよ。感謝してよね」
 お前、ここ俺んちだぞ。という言葉が出かけて、すんでのところで止める。ここに七生を置くと決めたのは自分なのだ。あれこれ目くじらを立てるのも潔くない。そう思った矢先に、七生はリモコンを操作して勝手にチャンネルを変えた。すぐさまテレビが別のニュースに切り替わる。暴挙だ。
「お前、ここ俺んちだぞ」
「知ってるけど」
 七生は全く悪びれることなく、トーストの振りをしたあんこを頬張っている。
「急にチャンネル変えやがって……」
「あ、リモコン取んないでよ」
「取ってねえっつうの。戻しただけだ」
 半ば意地になって、元のチャンネルに合わせる。すると、画面には今をときめく人気アイドル・八谷戸遠流(やつやどとおる)が映し出された。どうやら、八谷戸遠流の新しいCMが決まったらしい。爽やかな笑顔で、彼が「楽しみです」と言っている。
 八谷戸遠流はついこの間、覡(げき)として相模國(さがみのくに)・櫛魂衆(くししゅう)に所属することを宣言した現役アイドルだ。噂によると、彼はれっきとした化身(けしん)持ちらしい。それを知った時、納得したのが悔しかった。アイドルなんて特別な立場の人間だからこそ、カミは化身を与えるのだ。八谷戸遠流には、傍目から見ても才能があった。
 きっと櫛魂衆は勝ち上がるだろう。まだ舞奏(まいかなず)を直接観たことはないが、素晴らしい実力を持っているらしい。そう思うと、阿城木の胸の奥にじわりと負の感情が滲んでくる。これは、よくない。慌てて、向かいの七生に話を振った。
「最近凄い人気だよな、八谷戸遠流。お前、こいつが出た途端にチャンネル変えたってことは、ぶっちゃけ嫌いだったりする?」
 何の気無しに言った言葉だった。雑談の延長線上だ。
「嫌いじゃないよ。嫌いじゃない」
 だが七生は思いの外、静かに言った。
「苦手なだけ。痛々しいから」
 七生の目は、辛そうに細められている。テレビの中の八谷戸遠流は、痛ましさなどない完璧な輝きを放っている。国民の王子様、なんて肩書きがよく似合っていて眩しいくらいだ。もしかすると、痛いというのは別の意味なのかもしれないが、それにしては七生の顔は真剣だった。まるで、画面の向こうのアイドルと痛みを分け合っているような顔だ。
「あー……うん。そうか。生クリーム足すか?」
「ちょっと、何その感じ。足すけど」
 七生がいつもの生意気そうな顔に戻って、もりもりと生クリームを足していく。その様子を見て、少し安心している自分に驚いた。この家にいる限りは、出来れば七生にはそういう顔をしてほしくない。たとえ七生が、自分に限られた範囲の助けしか求めないのであっても。
「そうだ。拝島(はいじま)の件、結局どうすんだよ」
「どうするも何も……どうしようね」
「無策かよ。あの自称九尾の狐ワールドに取り込まれてたんだから、油揚げでも持って懐柔(かいじゅう)しに行くんじゃないのかよ。というか、何であいつはあんなことしてんだよ」
「さあね、詳しい理由はわからないけど、拝島去記(はいじまいぬき)がどうして水鵠衆(みずまとしゅう)に入ろうとしないかは理解出来る」
 七生のトーストから、ぼとりとあんこが落ちた。
「一つは、拝島の血筋が舞奏社に厭われてきたこと──上野國(こうずけのくに)が化身にこだわるようになった理由だからね。そしてもう一つは──」
 七生がそこで言葉を切る。
「……また後で話すよ。少し込み入った話なんだ」
 そう言って、七生はもう一度テレビに視線を向けた。
 そこにはもう八谷戸遠流の姿は無く、魚媛の好きな占いが始まっていた。





著:斜線堂有紀

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。





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