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第20回 サンフランシスコ

デンバーでの衝撃的な暴力的な残酷的なシーン。あれから20年が過ぎても僕は混乱してるのか、“~的な”が続く変な文章だ(笑)。

1995年、僕はサンフランシスコに向かう飛行機に乗った。1994年3月にデンバーで行われた第2回アルティメット大会から約1年が過ぎていた。サンフランシスコに向かう飛行機の中で僕は新たな悩みを抱えていた。まったく悩み的が多き的な時代だった。こんな言葉はないが、“的”が付くと大げさでカッコいい(笑)。

当時のグレイシー柔術は神秘的な存在だった。オクタゴンの中で圧倒的な存在感を誇ったグレイシー柔術。その強さと共に精神性も神秘的だった。“グレイシー柔術の為なら死ねる”的な言葉の数々が神秘性を高めていた。また“的な”が出てきたな(笑)。神秘的な物は大げさな幻想を産み出す。

日本を出発する前に僕はこんな噂を聞いた。グレイシー一族はグレイシー柔術を教えることはない。絶対に断る。それでもしつこく教えてくれと言われたら……お金だけ貰って、スパーリングで潰す。こんな噂を僕は聞いた。これを聞いた時には効いたな。聞いたら効いたのだ(笑)。これが、くだらない駄洒落だとさえ気が付かない混乱“的な”状態で僕は飛行機に乗った。

そもそもグレイシー柔術を教えないのなら、道場は存在しない。彼らの収入源は道場なのだ。ホリオンの道場で断られたのも僕には効いていた。だから、そんな噂を僕は完璧に信じた。

だけど、遂にサンフランシスコでグレイシー柔術が習える。グレイシー柔術に憧れて、どうやっても道が開けなかった約1年。あの日の電話から急速な進展が起こった。とある日、正道会館に電話がかかってきた。石井館長からの電話だった。「おー、平君。今なサンフランシスコなんや」。いきなりの混乱を呼ぶ的な話から始まった。「河合さんと一緒や」。河合さんというのはK-1の外国人選手関係の契約やマネージメントをしていた人で、第2回アルティメット大会にも来ていた。市原選手が負けて、号泣した僕の隣に座っていた人でもある。河合さんはサンフランシスコの旅行会社の社長でもある。