第16回 ミッキーの「ビンボー・怒りの脱出」 〜『カジノフォーリー』旗揚げ前夜〜
「アホ」なことを考えるのが大好きだ。
小学生から今まで漫才や落語、松竹新喜劇や吉本新喜劇が大好きだった。
大阪の「河内(かわち)」の八尾で高校入学(実家は今も八尾)まで、生まれ育ったせいか、親子や友人の会話がどこか漫才風だったから、オレの遺伝子の中にはたぶん「お笑い」が組み込まれているのだろう。
《※編集部注:言い回しが、ややおかしい気がしますが、言いたいことはわかるので原文ママ》
そのせいなのだろう。
オレがお笑い雑誌『カジノフォーリー』を出版したのも。
(2013年)12月23日に草野球チームの忘年会があった。
そのときも、馬鹿話の延長で、前回の「かみぷろ」の原稿に出てくる「オメパカ(女性器がパカっと開く事)」が話題になり、これに類する「スケベ馬鹿ことば」を後輩の夏川君と溝部君とで考案することになった。
「ヤマトナゼシコ」をもじって、「ヤマトナメシコ」「カマトトナゼシコシコ」。 「クンニ」から「クン・ニコニコジャパン」。
「亀頭」をもじっているとき、オレが「亀頭流三段」とか出すと、夏川君がいきなり「亀頭師」。
人のチンポコを前に祈祷師(亀頭師)が「邪悪な女難を払いたまえ」なんていうイメージが浮かび、3人とも苦しいほどに笑ってしまった。
そんな「アホなオレ」ではあるが、20代後半の時期は苦闘と屈辱の連続だった。
そう!
その時期こそ「ランボー・怒りの脱出」をもじって、「ビンボー・怒りの脱出」の青春時代だった。
70年代後半、オレは『カジノフォーリー』にいくつくまでに、試行錯誤の人生を歩んでいた。
《※編集部注:「いくつく」は、おそらく「行き着く」だと思われますが、やっぱり原文ママ》
前回書いたように、季節労働の「リゾートバイト(海とスキー場)」とはオサラバしたはいいものの、食っていかねばならない。
友人に新聞勧誘員の仕事に誘われ、やってはみたものの、人をうまくダマせないオレは契約はなかなか取れなかった。
契約で収入が決定されるから月収が安定しないのだ。
そこで、収入が安定している新聞配達の「臨時配達(通称、リンパイ)」をやることにした。
「配膳」や「マネキン(食品や服などの販売の派遣)」と同じく、臨時ゆえに普通の配達員より1.5倍ぐらい給料がいいのだ。
その代わり、プロの仕事を要求され、配達順路も一発で覚えなければならないし、配達量も多い。
よく映画やドラマで、肩にタスキをかけて配っているように描かれるが、あんな量じゃない。アレの10倍いや20倍かも。
なにせ、自転車の荷台に1メートル近く積み上げた新聞を2回分(中間地点でもう一度積む、ちなみにオレは300軒前後)配るのである。
オレが配っていたのが府中市の配達店だった。
スーパーの特売の前の水曜日や木曜日はチラシも多いから、その重みはかなりのものになる。
オレがこのリンパイを始めたのが、たしか10月頃だった。
初めて3日目のことだった。
台風がやってきて大雨になった。
配る地域にはアスファルトに舗装されていない所もあり、配りはじめの所なので荷台には山積みの新聞紙。
自転車がぬかるんだ道で倒れそうになった。
必死で支える。
10秒いやそれ以上かも。
ドシャブリの雨のなか、新聞紙を濡らしてなるものかと倒れそうになる自転車を徐々に起こしていく。
このときほど、野球や陸上やラクビーで鍛えた自分の体力が活かされたときはない。
そうしてやっと、安全な所に自転車を固定することができた。
このリンパイで一番イヤな仕事は、配ったはずの家から電話がきて、新聞を届けに行く仕事だった。
配達店の朝は早い。
朝飯を食って、さあ寝ようかなという時間帯に電話が来るのである。
もう冬なんて、その家のヤツを呪いたくなる。
せっかく暖まった体が外に出て配り直して帰ってきたときには完全に冷え切ってしまい、今度はなかなか寝つけないのだ。
この府中の新聞店の思い出で嬉しかったのは、その店のジジイ店主から褒めてもらったことだ。
《※編集部注:褒めてもらってるのに、店主のことは、褒めてるんだか貶してるんだかわからない。》
オレは別に綺麗好きではないのだが、トイレがあまりにも汚いので誰かに言われたわけでもなく自主的に掃除をしたのだ。
どんどん綺麗になっていくのを感じるのが楽しかったのかもしれない。
そのトイレ掃除の事が店主に伝わり、派遣していた新聞拡張団にも伝わり、団長からもベタボメされたのである。
でも、言っておくが、これは日本がまだ良き時代だった70年代のことであって、今のこのせちがない時代では、やらしくなく自己アピールでもしない限り、上の人間どもは褒めないと思う。
《※編集部注:「せちがない」は、おそらく「世知辛い」だと思われますが、世知辛く原文ママ》
このあと、27歳になっていたオレはどんどん焦っていった。
本気で就職を考えるようになり、『シティロード』(当時『ぴあ』と競っていた東京のエンタメ情報誌。今はない)や中堅どころの広告代理店のコピーライター(面接で「作詞作曲もする」といったら社長が「歌ってみて」と言われ歌ったことも)に応募したが、ことごとく落ちてしまった。
また、好きな映画の世界でなんでもいいから現場参加したくて、ツテを頼っていろいろと動き回ったが、有力なコネもなく、当時は関係者に直接連絡するという積極性(というより、世間的な知恵が無さすぎた。今もだが…トホホ)もなく、映画の世界への道も閉ざされてしまった。。
《※編集部注:この場合、閉ざされたというより、閉ざしたまんまだと思われ》
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