その23 武術~武道へと武道の道とは。(後半)
現代とは卑怯に対する考え方が全く違った時代が初期の柔道の時代。現代とは全く違った柔道の乱捕りの風景が目に浮かんだりする。お互いに正々堂々と組み合い、技を掛け合って試し合う。一度相手の技が決まれば無理に逃げずに、綺麗に投げられ負けを認める。正々堂々と技を受けて負けを認めた相手は投げたほうも認める。
綺麗な引き際は武士の嗜みなのだ。しかも柔道における負けとは死を意味しない。受身を取り引き手で守った肉体はすぐに次の乱捕りができる。柔道における負けとは、生まれ変わりなのかもしれない。負けることで自分の弱点が具体的に分かる。分かったら、ダメージのない肉体ですぐに弱点を改善する稽古ができるからだ。
命をかけた武術を日々重ねていた当時の人々には、これはとても新鮮だったような気がする。事実、柔道は圧倒的な勢いで普及した。生まれ変わりといえばこんな話を聞かせて頂いたことがある。
初期の講道館の帯の最高の色は白帯だった。嘉納先生が最初に巻いた帯の色も白帯。武士は白を汚れのない最高の色として好んだ。道衣の色も初期の柔道は白。白装束のイメージだったのかもしれない……などと妄想で暴走する。白装束に帯だけが黒では確かにおかしい。
講道館は急速に発展した。入門者が増えると昇級昇段の分け方に工夫が必要となる。5年もやってる人と1年未満の人が同じ帯だと不満が出たりするのだろう。柔道衣も実は嘉納先生が考案した。昇級昇段のシステムも嘉納先生の考案によるものだ。現代でも道場経営を陰で支えている道衣の販売と昇級昇段で派生する審査料は嘉納先生のお陰なのだ。
嘉納先生はあらゆる部分で天才だったんだろう。そして運にも恵まれている。帯の色を変える際に高弟を集めて話をしたと聞く。帯の色は何色が良いか。それを皆で話し合ったという。
加納先生はこんなことを話していたと聞いた。
「やはり人がもっと集まるほうが良いな」
妄想で暴走が映像を運んでくる。嘉納先生は案外茶目っ気があった人なのかもしれない。妄想で暴走劇場はそう教えてくれるのだ。高弟たちは真面目な顔で考える。嘉納先生はニッコリと遠くを見ながら喋ってる。皆の顔を見ながら……。
「葬式は人が集まるな。帯の色は黒にしよう」
葬式は縁起が良くないんじゃ……同じようなことを高弟の皆さんも思っているはずだ。そしてどういった返事をして良いのか困ってる。ハハハ、妄想で暴走の映像はとってもクリアだな(笑)。
嘉納先生はもしかしたらこんなことを高弟の皆さんに言いたかったのかもしれない。黒帯になる目的が終わりじゃない。黒帯は始まりなんだ。ある程度柔道ができるようになったら黒帯になるんだ。黒帯は終わりじゃない。ある程度の目的が達成できたら、そこで終るわけじゃない。ある程度の目的に達したら、今度はもう一度新たな目標に向かうんだ。だから黒帯なんだ。それまでの初心者であった自分を一度捨てて、ひとつ上の自分になって生まれ変わる気持ちでもう一度真っ白な気持ちで柔道を始めるんだ。これが、妄想で暴走の黒帯の解釈です(笑)。