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第42回:【思潮】「若者の右傾化」論と現代若者論の位相
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第42回:【思潮】「若者の右傾化」論と現代若者論の位相

2014-02-05 19:00
    後藤和智の若者論と統計学っぽいブロマガ
    第42回:【思潮】「若者の右傾化」論と現代若者論の位相

    「海ゆかば2」(大田区産業プラザPiO、2014年1月26日)、「コミティア107」(東京ビッグサイト、2014年2月2日)で配布したサークルペーパーです。

    今回のFree Talkですが、今の社会学がなぜヘイトスピーチに対して無力なのかということについて一つの視座を与えるべく、論じてみたいと思います。これを考えるきっかけになったのは、1月5日、福島県郡山市で開催された即売会「SUPER ADVENTUERS 70」で、設置を終えてツイッターを見ていたのですが、社会学者とおぼしき方が艦これを採り上げて若年層の「右傾化」を問題視しているツイートが(相変わらず)見られていました。他方で、別のところでは、毎日新聞の次の記事が話題になっていました。
    「隣人:日中韓/5 増幅する反中・嫌韓」http://mainichi.jp/shimen/news/20140105ddm003010027000c.html

    毎日jp 2014年1月5日配信記事

    ここで採り上げられているのは週刊誌における「煽り」傾向です。
    「中国は世界の嫌われ者」「大新聞が報じない韓国の『馬脚』」――。一部週刊誌の中づり広告には扇情的な見出しが躍る。

    20代の週刊誌記者は「韓国ネタは鉄板。大々的に取り上げたら、部数が伸びて外せなくなった」と明かす。韓国紙の報道をもとにして、ささいなことでも「日本人が知らない反日の実態」と報じると読者受けがいいという。

    別の週刊誌記者は「雑誌はアンケートの結果がすべてで、50~60代が中心の読者層のニーズと合致する」と説明する。一方で、「20~30代の編集者は本当はやりたくないけど、読者が好むから仕方がないと嘆いている」と話す。週刊誌数誌に取材を申し込んだが「新年特集に追われて時間がない」などの理由で断られた。

    このように、実際には「右傾化」の中心となっているのは「若者」ではなくその上の世代ではないのかという懸念を示すような事態を目の前にしているのかどうかはわかりませんが、社会科学者の中には、なぜ「若者の右傾化」を問題視するのか、ということに対して疑問を持つ向きも少なくありません(そして後述しますが、この疑問は正しいです)。

    例えば、12月30日に発表された、朝日新聞の20代を主なターゲットにした社会調査の分析記事(「右傾化は際立たず 朝日新聞世論調査「20代はいま」」朝日新聞デジタル2013年12月29日配信記事 http://digital.asahi.com/articles/DA2S10904137.html)で、《その実態を探るため、調査では様々な質問をしてみたものの、一概に右傾化しているとは言えない結果となった》と書かれていることに対し、金明秀は、《「一概に右傾化しているとは言えない結果となった」とかもなぁ。すでに何度も指摘されてきた話であって、むしろ60代以上の「右傾化」を分析する必要があるんだけど》(https://twitter.com/han_org/status/417503526181281792)《「「在日韓国・朝鮮人は日本から出て行け」という主張に「大いに共感する」層は極めて少ないものの、20代では6%で、中高年と比べるとやや多かった。」かぁ。これも年齢との関連は弱そうだな。ネットの利用時間をコントロールしたら、それだけで消えてしまうんじゃないかな。》(https://twitter.com/han_org/status/417504439747219456)と述べており、金のこの批判は概ね正しいと思います。

    また先の毎日新聞の記事については、小菅信子が《ふつうに考えたら、この記事の通り、50~60代の「上司」にあたる年齢層にウケるから、20~30代の「部下」の世代の編集者が担当させられるんでしょ、違うの? 若年世代の「右傾化」なんて、安易でちんぷな言説。》(https://twitter.com/nobuko_kosuge/status/419767361483182080)と論評しています。

    「若者の右傾化(保守化)」という命題は、今まで何回も提示されてきた一方で、実証的な調査では「実際はそれほどでも内のではないか」「世代以外のファクターを考慮するべきではないか」ということが今まで何回も提示されてきました。にもかかわらず、この命題が未だに幅をきかし、社会学者による若者論において一定の地位を占めているのはなぜだろうか、ということは一考に値すると思います。むしろ、「若者の右傾化」なるものを生み出したのは、ある時期以降の社会学の言説ではないかということすら、言えるのだと思っています。

    私は昨年10月に、『「あいつらは自分たちとは違う」という病――不毛な「世代論」からの脱却』(日本図書センター)という本を上梓しました。この本は、主に1970年代以降の若年層に関する言説を追って、若い世代への認識の枠組みがどのように変化していったかを書いていったものです。その認識の枠組みの変化は、社会学の狭い世界のみならず、そこで提示された枠組みをある種のポピュラー社会学として使うマスコミ、そして若い世代自身にまで影響を及ぼしているということを提示しました。

    かいつまんで説明すると、1970年周辺に始まり、1970年代以降は、我が国の社会学、社会論が、主に若い世代を「異常」な、あるいは「劣った」もの、少なくとも上の世代とは「違った」ものとして扱う傾向が見られるようになっています。1970年前後から1970年代には、精神科医・心理学者による日本人論である、河合隼雄の『母性社会日本の病理』、土居健郎の『「甘え」の構造』、小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』が流行し、また社会病理学的な見方と共にそれまで理想の家族形態として扱われてきた核家族が問題視されるようになったりしました(広井多鶴子、小玉亮子『現代の親子問題』日本図書センター)。

    1980年代は、「文化人類学」的な子供・若者観が広がった時期でもあります。その例として、本田和子の『異文化としての子ども』や、大塚英志の『少女民俗学』を挙げることができます(このあたりの議論の概要については、私の同人誌『古明地さとりの自己形成論講義――市民のための「自己」をめぐる社会科学講座』で述べているのでそちらをご参照ください)。またこの時期は消費社会的な文化の広がりと共に、若い世代が上の世代の文化との距離を置いて、自らの優位性を主張するようになった時期でもあります(代表的な論客として、浅田彰などが挙げられます)。

    そして1990年代、それらの文化の成熟を背景として、社会学者の関心がマクロな社会から、主に若い世代の「異常さ」から現代社会の位相を読み解くという転換が、特にオタク論周辺において起こりました(詳しくは、浅野智彦(編)『リーディングス日本の教育と社会・18 若者とアイデンティティ』(日本図書センター)を参照されたい)。それと同時に、社会学者や民俗学者などが展開してきた「若者向け」の言説も、若い世代を「異化」するようなものや、あるいは若い世代が自らの「特殊性」を自覚した上でどのように生きていくかというものが(特にオウム真理教による地下鉄サリン事件の直後より)流通しました。論客としては宮台真司や浅羽通明などが挙げられるでしょう。

    現代の若者論は、このような社会学やマスコミによる若者論の側と、若い世代(の論客、特にオタク系のカルチャーに親和的な層)自身の側の双方の「異化」の要請をベースにできていると言ってもいいでしょう。そのため、社会学やマスコミの側においては、現代社会の状況を見るために、まず「異化」された若い世代、その中でもオタク系のカルチャーに親和的な層を問題視することから始まる、という傾向になっているというのが現状であることを理解すべきでしょう。

    そして1990年代終わり頃~2000年代初め頃にかけては、主にオタク系のカルチャー周辺の層を、「上の世代とは違った心性を持った」存在、そして「これからの日本人のあり方を予測してくれる(と論客が勝手に思い込んでいる)」存在として「説明」してくれるような論客が受ける傾向が生まれました。その代表的な存在が東浩紀であり、「異常な若者」をベースとした現代社会学(若者論)の中で、東やそのレジームを受け継いだ様々な論客が活躍し、そして若者論もそのような社会学をベースに定着していったと言えます。

    若い世代の「異常さ」に目を向けることを最優先事項とする現代の社会評論においては、メディアの接触状況や、あるいは上の世代との比較などの手続きをすっ飛ばして、何より若い世代の心性のあり方を採り上げるのが優先されるという状況が現状ではあるわけです。もちろん、これはマスコミと社会学のごく狭い分野の若者論に限られる「ルール」であるため、若者論にそれほど明るくない社会科学者などがこの枠組みに反発するのも当然です。

    このようにして、若者論関係の社会学の枠組みが形成されてきました。若い世代の「異常さ」を前提として、そこから将来起こりうること、そして若い世代の「危険さ」を読み解く、という議論の形成により、若い世代が現代社会の「問題」の中心として扱われるようになりました。「若者の右傾化」をめぐる議論は、若い世代を扱う社会学と、若い世代(の論客)自身の双方による「異化」の賜物と言うことができます。

    さて、このような若者論の変化が起こしたスタイルとは一体どういうものか。第一に、「若い世代の心性に寄り添うこと」を最大の価値と考えるスタンスが挙げられます。現代の若者論、特に2000年代半ば頃以降においては、若い世代の「リアル」を理解して、彼らの「生きづらさ」に寄り添うべきだとするような言説が流行しました(まあ私もそこに関わっていないとは言えませんが…)。特に「ロスジェネ」や「非モテ」系の議論においては、自分たちこそが「弱者」であるとし、また自分たちがいかに抑圧された存在であるかと言うことを主張する向きが現れました。また若者論系の社会学においても、マクロな議論が期待されたのはせいぜい「ニート」言説に対抗する言説が生まれた頃の一時期だけであり、そのような試みは「「若い世代はみな働きたがっている」と考えている」と非難され、最終的に「「生きづらい」若者の心性に寄り添う」というものに取って代わられました。若者論系の社会学において、「若い世代の「リアル」にいかに寄り添っているか」ということのほうが問題視されるようになったのです。

    第二に、このような理由から、「自分は若い世代の「本質」を知っている」ということが、客観性や論理性よりも重要なアピールポイントになってしまったことです。例えば若い世代を扱う社会学においては、「ノンエリート」や「底辺」の特徴を挙げる議論がたびたび採り上げられますが、それは乾彰夫や中西新太郎などのようにノンエリート層の社会移動に関する研究として体系化されているものでは決してなく、データに基づく議論や政策論などを「エリートの議論」「若い世代の本質がわかっていない」として拒絶するためのものに過ぎませんでした。そしてそのような態度は、すぐさま若い世代を「劣化」した存在として位置づける態度に繋がるのは言うまでもありません。

    そして第三に、このような態度を若者論の側が若者擁護論として使ってきた結果、若い世代をめぐる言説は、「自分こそが若い世代の「本質」である」ということを争い、他の世代、そして主張が異なる側を「無視」するような動きが主流になったことです。このような「無視」は、自らの立場の絶対視と、それに基づく他者へのバッシングに容易に繋がります。自分は「本質的」だ、だから自分の言っていることは批判されてはならない、それを批判する側が現れるのはまさに若い世代(あるいは相手側)がそのような問題を抱えている証拠なのだ、という、いわば相手に「踏み絵」を強制するような議論の頻出に帰結します。

    もちろん、メディア接触などに関する社会学研究などについてはそれぞれの歴史について別の方向からアプローチする必要がありますが、少なくとも我が国の社会学の一部、しかしメディアの若者論においては極めて受け入れられやすい「一部」の議論が、このようにして若年層の「リアル」に「寄り添う」という態度をとり続け、若い世代の「異常さ」を非難し、あるいは「新しさ」を言祝ぐような言説を繰り返してきたことが、それと同時に様々な歪みをもたらしてきたことを、もう少し知っておいたほうがいいでしょう。

    「若者の右傾化」論はこのような若者論の現状で生まれたものと言えるでしょう。若い世代を社会の「病理」の中心として捉えることにより、社会の問題を「若い世代の心性の問題」として処理することによって、より大きな構造に踏み込むことを困難にし、そして社会学から種々のヘイトスピーチに対抗する力を奪っていったと言えるかもしれません。社会論の側が「若者」を過剰に問題視して、「若者が抱える問題を明らかにした」と自己陶酔に浸っている内に、より深刻な問題が、それらの社会論の内外に様々な歪みをもたらしているという認識を、若い世代についての社会学を扱う側は持つべきではないでしょうか。

    今の若者論の現状では、「過激な意見」と冷静な意見が全て「併存」し、前者ばかりが「若者の主張」として、時として問題視される意見として、また時として清涼剤として機能し、後者は「本質的ではない」として切り捨てられています。科学的、あるいは政策的な正しさではなく、より「共感」を得られるもの、あるいはより若い世代を「異化」するものが受け入れられるという状況のもとでは、過激な言説ほど「本質」として狭い世界でもてはやされ、そして異なった「本質」の間での激しいドンパチが繰り広げられるのです。若い世代ばかりを問題視する社会学や社会論は、実際にはメディアの側においても、そして若い世代の「論客」においても、意外に大きな問題を引き起こしている、ということを、認識する必要がありそうです。

    【今後の掲載予定:定期コンテンツ(原則として毎月5,15,25日更新予定)】
    第43回:【政策/科学・統計】東京都知事選「論点の論点」――「ポリタス」寄稿記事を分析してみた(2014年2月15日配信予定)
    第44回:【政策】センター試験国語で若者の言語能力は測れません!――現代学力政策概論・番外編(2014年2月25日配信予定)
    第45回:未定(2014年3月5日配信予定/「東方紅楼夢9.5 遠野物語」のサークルペーパーとして配信します。)

    【近況】
    ・「コミックマーケット85」新刊の『統計同人誌をつくろう!――調べて、分析して、書きたい人のために』『改訂増補版 紅魔館の統計学なティータイム――市民のための統計学Special2』が、メロンブックス・とらのあな・COMIC ZINにて委託販売中です。詳細は各同人誌の情報ページをご覧ください。
    『統計同人誌をつくろう!』情報ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11717450615.html
    『改訂増補版 紅魔館の統計学なティータイム』情報ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11717449750.html

    ・「海ゆかば2」新刊の『提督のための統計学――艦隊決戦統計解析論序説』がメロンブックスにて委託販売中です。
    情報ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11755408226.html
    サンプル(pixiv):http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=41109949
    通販ページ:http://shop.melonbooks.co.jp/shop/detail/212001070288

    ・津田大介氏の主宰する政治系ウェブサービス「ポリタス」に、私の論考「福祉/労働/青少年、そして「選挙」に対する姿勢について」が掲載されました。
    http://politas.jp/articles/71

    ・「東方紅楼夢9.5 遠野物語」にサークル参加予定です。
    開催日:2014年3月2日(日)
    開催場所:あえりあ遠野(岩手県遠野市)
    アクセス:JR釜石線「遠野」駅から徒歩10分程度/釜石自動車道「宮守」インターチェンジから車で30分程度
    スペース:未定
    ※JR釜石線「遠野」駅は、東北新幹線「新花巻」駅から快速列車で40分程度、普通列車で1時間程度。

    ・「幻想郷フォーラム2014」(東方Project情報・評論系オンリーイベント)にサークル参加予定です。
    開催日:2014年3月30日(日)
    開催場所:名古屋市国際展示場(ポートメッセなごや)(愛知県名古屋市港区)
    アクセス:名古屋臨海高速鉄道あおなみ線「金城ふ頭」駅より徒歩5分程度/伊勢湾岸自動車道「名港中央」インターチェンジより車で5分程度
    スペース:デスク参加07

    ・日本図書センターより5年ぶりの商業新刊『「あいつらは自分たちとは違う」という病――不毛な「世代論」からの脱却』が刊行されました。内容としては戦後の若者論の歴史をたどるものとなります。
    Amazon:http://www.amazon.co.jp/dp/4284503421/
    楽天ブックス:http://books.rakuten.co.jp/rb/12468953/

    (2014年2月5日)

    奥付
    後藤和智の若者論と統計学っぽいブロマガ・第41回:【思潮】「若者の右傾化」論と現代若者論の位相
    著者:後藤 和智(Goto, Kazutomo)
    発行者:後藤和智事務所OffLine
    発行日:2014(平成26)年1月25日
    連絡先:kgoto1984@nifty.com
    チャンネルURL:http://ch.nicovideo.jp/channel/kazugoto
    著者ウェブサイト:http://www45.atwiki.jp/kazugoto/

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