教室のざわめきというのは、いつも近くで鳴っているのに、なぜか遠く感じた。
窓の外で風が鳴っているような、関係のない音のようにも聞こえる。
笑い声も、冗談も、流行りの話題も、
すべてが一枚のガラス越しに行き交っているようで、
自分だけが別の空間に立っているような気分になる。
そこに立っていた時の自分はまるで、透明人間でもあるかのようで、
しかし同時に、そこそこ目立つ位置に配置されてしまっていた。
誰にも深く見られていないのに、なぜか前のほうにいる。
この矛盾した感覚が、
僕の学生生活のだいたいであり、ほぼすべてだった。
僕は第一に、集団行動が好きになれない。
どちらかと言われれば、はっきりと明確に「1人」が好きで、
かといって、集団が「嫌い」というほどの情熱もない。
集団っていう概念に対して、「どうでもいい」が最も正確な表現だと思う。
学生時代に過ごした集団の中でいつも感じていたことは、
そこに座っていると、自分の人生の時間が少しずつ削られていく感覚。
何かをしているようで、何もしていない。
気づけば時は過ぎ、大した意見は求められず、
「参加した」という事実だけが記録されていく。
「何とも言えぬ」まま、空返事を繰り返し、ひたすら日々が過ぎていくばかり。
こんな人間でも、学生時代は「グループ側」の人間だったはず。
ただしリーダーでもなければ、ムードメーカーでもないし、トーク担当でもない。
声量は平均的だし、社交性は並以下。
それでもつるむ人間に困らなかったと思うし、
部活内のバンドメンバーも探すことなく組めたし、
球技大会ではレギュラーメンバーに誘われ、
陸上競技大会では選抜に推薦され、
文化祭では実行委員に推薦され、
中庭のステージに立つこともあった。
そこ属していた理由はひとつ、「背が高かったから」である。
たったそれだけで、あらゆることに誘われ、
都度声を掛けられていたことは幸運だとは思う。
そこに行きたくて行ったわけじゃなく、何かを主張したわけでも、誰かを引っ張ったわけでもない。
ただ、身長が平均より少し上で、"少し目立っていた"だけの話。
学生の脳なんてごく単純なものだよね。
それだけで、人生の席は自動的に決められていた。
人格でも、能力でもなく、骨格によって決まる席。
人類の評価制度として、これほど原始的なものもないなと思う。
ただひとつ、よく考えなくともわかることは、
グループの中で、僕はずっと「何も持っていなかった」ということだ。
こんなことを当時から考えながらも、
中学に入ったばかりの頃、
そして高校に入学したばかりの頃、
僕は一応、集団になじもうと努力した側の人間だった。
クラスの輪の中に入り、話題に合わせて笑い、
わからない芸人のネタも、興味のないテレビ番組も、
とりあえず「知っているふり」をした。
誰かがふざけてみんなが笑ってても、全然面白くないのに。
休み時間もできるだけ一人にならず、
誰かの隣に座り、沈黙が続けば、無難な話題を探す努力もした。
ちゃんと「普通の学生」をやろうとしていた。
ところが数ヶ月もすると、
身体のほうが先に拒否を始め出すんだよね、不思議なことに。