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無料公開中【連載物語】『不思議堂【黒い猫】~阿吽~』第二話
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無料公開中【連載物語】『不思議堂【黒い猫】~阿吽~』第二話

2023-05-04 15:05
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    著:古樹佳夜
    絵:花篠
    吽野:浅沼晋太郎
    阿文:土田玲央

    ★第三話はこちら
    https://ch.nicovideo.jp/kuroineko/blomaga/ar2115955

    ------------------------------------------

    第二話序章「次なる演目は」


    ◆◆◆◆◆不思議堂◆◆◆◆◆

    吽野「う〜〜〜ん……」

    吽野は文机に向かって、頭をガリガリと掻いていた。
    後ろから、心配した阿文が声をかける。

    阿文「先生、何を唸っているんだ。お腹でも壊したのか」
    吽野「お腹は壊してない。今ね、舞台の題材を思案中なんだ〜」
    阿文「ほう、舞台か」
    吽野「次回は二人芝居の予定だよ」
    阿文「二人だけ? 他の役者を呼んでも良さそうだが」
    吽野「予算の問題だよ。出演は俺と阿文クン」
    阿文「ええ、また僕も出るのか」
    吽野「不満げだね」
    阿文「うーん、本当に僕でいいのか? 僕は、演技に関しては素人に毛が生えたようなものだ。先生に頼まれてやっている程度だし。そんな僕が、二人芝居なんて……」
    吽野「嫌なの?」
    阿文「嫌じゃない。演じるのは意外と楽しい。だが正直、二人芝居は責任が重いだろう」
    吽野「君が舞台に立つと、お嬢さん方の評判もいいのよね」
    阿文「軽々しく言わないでくれ。僕は先生ほど器用じゃないから」
    吽野「んー。じゃあ、喋んない役ならいいの?」
    阿文「え、どう言うことだ?」
    吽野「設定上、声が出せない、喋ることができないってこと。例えば……人魚姫とか?」
    阿文「ええ、僕が人魚姫? この図体で?」

    吽野は阿文を見て、イメージを膨らませた。

    吽野「うん、いいねぇ! 我ながらグッドアイデア〜!この題材で行こう」
    阿文「待て待て待て!」
    吽野「やだ、待ちたくない」
    阿文「じゃあせめて『姫』はやめてくれないか! 姫は!」
    吽野「なんでー?」
    阿文「なんでもクソもあるか! 女装したくないんだ」
    吽野「似合うと思うんだけどな。ほら、足にヒレをつけて、貝殻の……」
    阿文「に、あ、わ、な、い!」

    まだ何か言いたそうな吽野を遮り、阿文は言った。

    阿文「冗談はさておきだ。先生のイメージしている『人魚姫』は、あの外国の童話か?」
    吽野「そうだよ。人間の王子に恋し、海の魔女と契約した人魚姫が王子に会いに行く。けれど思いを遂げられず、海の泡になって死んでしまう。悲恋話だ」
    阿文「ふむ……確かに、有名な話だ」
    吽野「ただ、有名なだけあっていろんな脚本家にこすり倒されているネタでもあるね」
    阿文「童話以外にも、人魚伝説は各地に存在しているんじゃないか」
    吽野「それもそうだね。まず人魚に関する文献を漁ってみるか」

    不思議堂の奥の、吽野の書斎の横には、
    小さな書庫室がある。
    そこには吽野が各地から集めた巻物や資料、
    小説や辞典が所狭しと並べてある。
    吽野は本を集めてきては雑に積み重ねるが、
    そのままにしていれば虫が食ったり、傷んでしまう。
    見かねた阿文が本棚を買ってきては、綺麗に並べてやる。
    そうやって、二人がかりで作った書庫室だ。

    阿文「ふむ……」
    吽野「阿文クン、なにか見つかった?」
    阿文「外国では、『セイレーン』や『ローレライ』が、人魚の代表格らしい。文献にそう書いてあるぞ」
    吽野「ああ、そうだね。セイレーンはギリシャ神話だし、ローレライはドイツの精霊だ。どちらも美しい歌声を持つとされている」
    阿文「美しい歌声か。人魚は歌が得意なのか?」
    吽野「じゃない? 俺は聞いたことないけど」
    阿文「いつか聞いてみたいものだな」
    吽野「人魚の歌は人を惑わし、聞いた者を水に沈めるって噂だよ。それでも聞きたい?」
    阿文「そうだな……そこまで言われると余計に聞きたくなる」
    吽野「物好きだね」
    阿文「こうしてみると、歌の上手い人魚が、人間に恋をして『声を失う』という展開は悲劇的だな」
    吽野「人を水に溺れさせるつもりが、自分が恋に溺れた……ってことかな」
    阿文「はは、うまいことを言う」

    吽野「一方で、日本の人魚伝説で有名どころは、『八尾比丘尼』伝説だね」
    阿文「八尾比丘尼?」
    吽野「人魚の肉を食べて不老長寿になった少女の話」
    阿文「え、食べてしまうのか? 人魚を?」
    吽野「日本で言うところの人魚は、『精霊』じゃなくて『妖怪』とか『珍獣』みたいな扱いだね、ほらこの図版を見てよ」

    吽野は文献に描かれた図を指差した。
    それを見た阿文は引きつり笑いをした。

    阿文「た、確かに……見た目は、その……怖い感じだな」
    吽野「こんなもの食べようなんて、食い意地がはってるねぇ」
    阿文「なあ先生、その人魚の肉を食べた少女は、その後どうなったんだ?」
    吽野「諸説あるけど……不老長寿ゆえに大切な人に先立たれ、孤独のうちに寿命が尽きたってのが多い」
    阿文「長すぎる生というのも、不幸なものだ。人魚にまつわる話は、どれも儚げで悲しい顛末なんだな」
    吽野「なるほど、儚げで、悲しい……ね」

    吽野は顎を撫でて考える仕草をした。
    そして、閃いた! とばかりに、手を叩いた。

    吽野「よし、じゃあ、ちょっとやそっとでは死んだり、不幸にならない人魚の話を書くよ」
    阿文「えっ……例えば?」
    吽野「ムキムキに鍛え上げた人魚が、鮫も指一本で倒せる怪力の……」
    阿文「その役、僕はやらないからな」

    阿文はそれ以上を言わせないぞと、吽野の持っていた本をひったくったのだった。
    -------------------------------------------
    ◆第二話第一章「レストラン龍宮」

    ◆◆◆◆◆不思議堂◆◆◆◆◆

    その日も、吽野は不思議堂の文机に突っ伏していた。


    吽野「ああ、海の底の貝になりたい……」

    阿文「また始まった。そんなに仕事に詰まっているのか?」

    吽野「そうだよ〜。悪い?」

    阿文「悪いさ。毎回毎回、そんな暗い顔をしていたら、幸せが逃げていくぞ」

    吽野「作家の気持ちが阿文クンにわかるもんか!」

    阿文「はいはい」


    お茶を運んできた阿文は、文机に湯呑みを置いた。

    その湯飲みから、ずずっとお茶を啜り、吽野は唸る。


    吽野「あー海が見たい……。気晴らしがしたいんだよ〜」

    阿文「ふむ……じゃあ観光がてら、、海辺に行って、海鮮でもつつくか」


    阿文の思いつきに、吽野は目を煌めかせる。


    吽野「いいね!ちょうど原稿料も入ったところだし、たまには豪華なお刺身が食べたいなぁ」

    阿文「珍しい」


    今度は、阿文が目を見開いた。


    吽野「え? 何が?」

    阿文「出無精の先生が外出に前向きになるなんて」

    吽野 「行き詰まると遠出したくなるのは作家の習性だね」

    阿文 「編集者曰く、そういう作家は多いらしいな。みんな現実逃避が好きなのか」

    吽野「現実逃避をするから、いいものが生まれるんだ」

    阿文「もっともらしいこと言って。先生も売れっ子になってから大口を叩くんだな」

    吽野「ふん、余計なお世話だ。今回の食事代は、僕の原稿料だぞ」


    それもそうだな、と阿文は小さく頷く。

    これ以上の軽口を叩いて、吽野の機嫌を損ねてもいけないと思い直す。


    阿文「そうだな。じゃあ、先生の気が変わらないうちに、予約をとろうか」

    吽野「へー。もう目星の店でもあるの?」

    阿文「ああ。少し前から気になるとこがあってな。先生もきっと気に入るはずだ」


    阿文と吽野が出かけると察知して、猫のノワールが駆け寄ってきた。


    ノワール「にゃあ!」 

    阿文「ノワール。お留守番になるが、美味しい魚の干物を買ってくる。許してくれるか……?」


    ノワールは少し阿文を一瞥し、仕方ないとでも言いたげに、


    ノワール「にゃあ!」


    と一声鳴いた。


    阿文「わかった。20匹だな」


    阿文の問いかけに、ノワールはそうだと頷いた。

    もう用は済んだと言わんばかりに、ノワールは踵を返して、

    不思議堂の奥に引っ込んだ。


    吽野「毛玉の言ってることがわかるの?」

    阿文「もちろんだ!」


    阿文は自信満々に言った。


    吽野「あ、そう……。まあ、いいや。阿文クン、予約の方よろしくねー」

    阿文「承知した」


    ◆◆◆◆◆海辺の街・夕方◆◆◆◆◆


    後日。昼過ぎには不思議堂を閉めて

    阿文と吽野はレストランに向かった。

    今日ばかりは吽野の足取りも軽い。

    これから待ち受けるご馳走のことを思えばと

    自然と笑みが溢れた。

    阿文に促されるまま、吽野は電車を乗り継ぎ、

    見知らぬ街を早足で歩く。


    吽野「ところでどんな店を予約したの? どんどん街の中心から離れてるけど」

    阿文「海辺に建っている洒落たレストランだ」

    吽野「ええ? てっきり日本料理の店かと思ってた」


    吽野は、子供のように口を尖らせる。

    海辺とは聞いていたが、予想よりも遠く、腹も減ってきていた。


    阿文「少し前、店を訪れたモガさんが教えてくれたオススメの店なんだ」

    吽野「モガ……ああ、あの外国かぶれね」


    吽野は、帽子を被ったパンツスタイルの女性を思い浮かべた。

    自分たちの着ている着物とは似ても似つかない、最新のスタイルだ。


    阿文「外国かぶれなんて、お客さんにひどい言い草だな」

    吽野「どんどん世の中が変わっていく。人の装いや流行も。日本らしさなんてお構いなし。なんだか忙しいなぁって思っただけさ」

    阿文「彼女に予約を取ってもらったんだ、感謝した方がいいぞ」


    口の悪い吽野に、阿文は苦言を呈した。

    そんなことは意に介さず、吽野は言葉を続けた。


    吽野「今から行く店って、そんなに予約が大変なの?」

    阿文「そうらしい。店主が一人で切り盛りしていて、客は一日に一組限定。だから、コネを使わないと予約自体が難しかった」

    吽野「へぇ……そうまでして、阿文クンがオススメする店か。どんな店だろう」

    阿文「楽しみにしていてくれ。メニューがかなり変わっているらしい」

    吽野「変わったメニュー? 海鮮なんでしょ……?」

    阿文「実は、人魚の肉を使った料理をふるまってくれると、噂なんだ」

    吽野「に、人魚だって!? 嘘でしょ?」

    阿文「さあ、真偽の程は、定かじゃない」

    吽野 「もしや、先日書庫で人魚の肉の話をしたから……」

    阿文 「ああ。きっかけこそ偶然だが、あの日から人魚の肉とはどんなものか興味が湧いてしまって」

    せっかく美味しいものを食べられると思っていたのに。

    そんな奇妙なもので喜ぶはずもない。

    吽野は思わず口をぱくぱくさせた。

    ところが、阿文は好奇心からに微笑んでさえいる。

    吽野とは対照的だ。

    吽野は呆れて、やれやれと深くため息をついた。

    完全に阿文のペースに巻き込まれてしまったようだ。


    そうこう話すうちに、空はすっかり暮れてしまった。

    気づけばどんどん市街地から遠ざかっている。

    あたりは暗く、潮騒と風の音がやけに耳に響く。

    海風は冷たく、吽野は身震いする。


    吽野「崖の上に灯りが見えるよ」

    阿文「あれがレストランだ」

    吽野「大きな洋館だね。あんな崖の上にポツンと一軒だけ……」


    吽野は足早に建物に近づいていく。


    吽野「看板が見える。えー……と」

    阿文「『レストラン・龍宮』」


    ついに、二人は建物の前に到着した。

    立派な木の扉に取り付けられた、

    小洒落た鉄のドアノッカーは、獅子の形をもしている。

    それを阿文は数回叩いた。

    少し間を置いて、木の扉が開く。

    二人を出迎えたのは、随分と背の低い男だった。

    ---------------------------------------------------------------
    ●第二話第二章「ある人魚の剥製」

    レストラン龍宮の扉が

    少し軋んだ音を立てながら開いた。


    店主「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」


    思ったよりも低い位置から声がする。

    吽野が下を向くと、

    車椅子に乗った男の姿があった。

    黒の給仕制服を着ている。

    そして、膝には紺の膝掛けを乗せている。

     

    店主「店主の夕凪(ゆうなぎ)と申します」


    店主は両手を丁寧に膝の上で揃えて、恭しく一礼した。

    つられて吽野と阿文も礼を返す。

     

    店主「さあ、お寒いでしょう。お入りください」


    夕凪と名乗った店主は、上品な笑みを浮かべ、

    二人を屋内に招き入れた。


    吽野「へー。趣のある建物だな」

    阿文「綺麗だ」


    天井を仰ぎ見、阿文は唸った。そこには、

    美しいガラスがいくつも連なった照明があった。

    阿文は足を止めて、棒立ちして眺めている。


    店主「イギリスから取り寄せたシャンデリアです」


    店主は首だけで振り向き、阿文に応じた。


    阿文「シャンデリア……」


    あんな豪奢なもの、不思議堂ではお目にかかったことがない。


    吽野「阿文クン、あれが気に入ったの?」

    阿文「いや……蜘蛛の糸に水滴がついているみたいだなと」

    吽野「おや、文学的な表現だね」

    店主「ふふ……」


    吽野と阿文のやりとりに店主は笑った。


    店主「さあ、お食事のお部屋は奥でございます」


    促されるまま、二人は店主の後に続く。

    振り向いた店主の上品な笑顔が印象的であった。

    白面に、少しつり気味の涼やかな目元、柳眉。

    吽野は、鈴木春信の美人画を思い出していた。

    店主は両腕を使い、器用に車輪を回しながら、長い廊下を進んでいく。


    吽野「女子に人気な店なだけあるねぇ」

     

    店主と少し距離があることを確認し、吽野は阿文に耳打ちした。


    阿文「なんのことだ、先生」


    阿文はピンときていない。

     

    吽野「だって、 若い娘がキャアキャア言いそうだよ。あの店主」

    阿文「ああ、とても感じがいい」


    言いたいことは、そう言うことではないのだが。

    阿文の鈍感ぶりにため息を漏らす。

    これ以上くだらない感想を言うのをやめて、

    閉口する他なかった。

     

    店主「このような格好で、驚かせてしまいましたか」


    店主は背後に話しかけた。

    自身が車椅子に乗っていることを言っているのだろう。

     

    吽野「いえ、そんな……」


    自分の発したため息で、何かを勘違いさせたかと、

    吽野は焦った。


    店主「お恥ずかしながら、生来足が不自由で、歩くことができないのですが、両腕はこの通り。多少器用にできております。魚を三枚に捌くこともできますよ」


    店主の言葉に、吽野はここにきた目的を思い出した。

    そう、海の幸を堪能しにきたのである。


    吽野「食事がとても楽しみです」


    吽野は口の中の生唾を飲み込んだ。

    廊下の突き当たりで店主は車椅子を止め、二人を室内に案内した。

    部屋の中は橙色の明かりで満ちていた。

    洒落た燭台に、シャンデリア。昼のように明るく感じる。

    広い部屋の真ん中には大きな丸テーブルが一卓。

    白いテーブルクロスがかかっている。

    そして見事な飾り掘りの施された椅子が二脚。

    椅子の前には銀食器やナプキンが用意されている。


    吽野「本格的だねぇ」


    吽野は感心していた。

    一方、阿文は別方向に目を向け、息をのんだ。

     

    阿文「みろ、先生」


    阿文の視線の先には、

    壁いっぱいに切られた背の高いガラス窓。

    さらにその先に、満月と星が散りばめられた漆黒の海。

    静かな漣が月光の形を歪めている。

     

    吽野「幻想的だね」

    阿文「ああ……」


    この景色を見るだけでも、来てよかったと思わせてくれる。

    店主は二人を席に座るように促す。


    店主「崖の上ですから、見晴らしがいいでしょう」

    吽野「ここで執筆でもしたら、捗りそうだな」

    店主「お食事の方もお気に召していただけるように、腕を振ってまいります」


    店主は一礼し、廊下に出て行った。


    * * *


    阿文「この白身魚は、とてもうまいな」


    ナイフで魚を一口大にして、フォークで口に運ぶ。

    慣れない動作に苦戦しつつも、阿文は舌鼓を打った。


    吽野「このエビの天ぷらすっごく美味しい!」

    阿文「先生、それはエビフライだ」

    吽野「エビフライ?」

    阿文「パン粉が付いているから、天ぷらとは少し歯応えが違うだろ?」

    吽野「へー。これがそうなの」

    阿文「うまいだろ?」

    吽野「こういう巷の流行りは、大歓迎だね」

    阿文「モガのことは否定していたのに、調子がいいな」


    阿文の言葉を聞き流し、吽野は大きなエビを頬張る。

     

    吽野「ああ、幸せ〜!」


    吽野の笑顔に、阿文もつられ笑いをした。

    食事を気に入ってくれたのなら、何よりだ。

    そこに、店主が次の料理を運んで来た。


    店主「お口にあいましたでしょうか?」

    阿文「はい、どれも美味しいです」

    吽野「もう、最高!」

    店主「そう言っていただけて、光栄です」


    喜ぶ二人に、店主の顔も綻ぶ。


    店主「まだ召し上がれそうでしたら、もう一品、お出ししたい魚がございます。滅多に水あげされない貴重種です」


    店主は阿文に向かって言った。

    阿文が美味しそうに白身を頬張ったのが

    嬉しかったのだろうか。

    なんにせよ、貴重な申し出に断る理由はない。


    阿文「それは是非、味わってみたいです」

    店主「かしこまりました。今日採れたてですので、刺身にして参ります」


    吽野「あ、そういえば……」


    吽野は唐突に先ほど

    阿文が言っていた言葉を思い出した。


    吽野「店主さん、この店で人魚の肉が食べられるって噂は、本当ですか?」

    阿文「ああ、そうだ。忘れていた」


    出された料理に夢中になりすぎて

    噂を教えた阿文も、すっかり忘れていたようだ。


    店主「人魚の肉、ですか?」


    問われた店主は目を丸くした。


    店主「残念ながら、お出ししてないですね」

     

    丁寧ながらも、少し苦笑ぎみな答え。

    問うた吽野も、


    吽野「……ですよね」


    馬鹿なことを尋ねてしまったと顔を赤らめた。


    阿文「そうか。残念」


    阿文は、噂が本当ではないことを知って、肩を落としている。


    店主「ですが、人魚の剥製でしたら、お見せすることができます」

    吽野「剥製だって?」


    意外な申し出に、吽野と阿文は顔を見合わせた。

    店主は部屋の隅に車椅子で移動した。

    移動した一角には空間を仕切るカーテンがかかっていた。

    店主が垂れ下がる紐を引っ張ると、そのカーテンが左右に開いた。

    その先には、ガラスの戸棚があった。


    阿文「あ……!」

    吽野「これは……」

     

    ガラス戸棚の剥製は、上半身が女性、下半身が魚の、

    確かに『人魚』だった。


    阿文「今にも動き出しそうだ!」


    阿文は剥製をよく見たいと、少し体を乗り出す。


    吽野「本当。てっきり、干物みたいなものかと思ったのに」


    吽野は内心、『食事時に見たくはなかったな』と思ったが、

    阿文はそうは思ってなさそうだ。


    店主「お二人は、『エンバーミング』という言葉をご存知ですか?」


    店主は、おもむろに問いかけた。

      

    阿文「エンバーミング?」

    店主「外国では、このように死体に防腐処理を施して、生前の姿そのままに保つ技法が発達しています。これも一つの死者を弔う方法なのです」

    吽野「弔う……? これは人魚でしょ」

    店主「何かおかしいでしょうか」


    店主の言葉に悲しみの湿度を感じた。

    確かに珍しい生き物を

    そのまま保存しておきたいという気持ちも

    わからなくはないが……


    吽野「まあ、物好きかなぁ、とは思います」

    阿文「先生っ」


    阿文は吽野を嗜める。

     

    店主「この人魚は私の妻なのです」

    吽野「ほう……」


    店主は悲しそうに笑った。しかし、その目は虚だ。


    店主「かつて、私たちは愛しあっていました。人魚というのは、人間よりもずっと長生きでして、しかも長いこと美しいままなのです」

    店主「けれど、不死ではない。彼女は私より先に死んでしまいました。私だけここに取り残されてしまった。私は、寂しくて……剥製技師に頼んで、遺体にエンバーミングを施してもらいました」

    阿文「そう……だったのですか」


    阿文は申し訳なさそうに呟いた。

    店主は「すみません」とそれ以上は話を続けなかった。

     

    店主「つい話をしすぎました。今の話は、内緒にしてくださいね」

     

    店主は膝上の盆に食器を器用に重ね、車椅子の車輪に手をかけた。


    店主「次を用意して参ります」


    店主はゆっくりと車椅子を動かして、部屋を出て行った。

    ---------------------------------------------------------------

    ●第二話第三章「紅き甘露」

    ◆◆◆◆◆レストラン龍宮◆◆◆◆◆


    店主が特別に拵えたという珍魚の刺身は、

    品の良いガラス皿に乗って運ばれてきた。

    ほんの二、三切れではあったが、透き通った白身に

    少しの粗塩がまぶされていて、絶品だった。


    店主「これで、お料理は全てです」

    吽野「ごちそうさまでした!」

    阿文「どれも美味しかったです」


    二人の満足げな表情を見た店主は、にこりと笑い、一礼した。


    店主「ただいま食後のデザートをお持ちします」


    店主が廊下に去ったのを見計らい、

    吽野は小声で問いかけた。


    吽野「阿文クン、どう思う?」

    阿文「どう、とは……あの剥製のことか?」


    吽野は神妙な面持ちで頷いた。

    そして、先程のカーテンの奥にある、戸棚の方に視線を向けた。


    吽野「本物の人魚なのかな?」

    阿文「……本物なんじゃないか?」

    吽野「どうしてそう思うの?」

    阿文「あの、人の良さそうな店主が嘘をつくだろうか」


    疑いなど微塵もない、という顔で阿文は答える。


    吽野「自信たっぷりだね〜。あの人、かなり胡散臭いじゃない?」

    阿文「ははは。先生に言われたくはないだろうな」


    阿文の辛辣ぶりに、吽野は舌打ちした。


    吽野「ともかく、あれが気になるんだ。確かめてみよう」


    吽野はガラス戸棚に歩み寄った。

    それは天井につくほど背が高く、立派なものであった。

    棚板は全て外されて、大きなオブジェを納めることができる。

    小柄な人魚は布団を敷き詰めた木の箱に詰まっているが、

    博物館の展示物のように、正面を向いて飾られていた。


    吽野は前屈みになり、ガラスの奥に目を凝らした。


    吽野「肌艶もしっかりしている。生きているようだな」

    阿文「先生、ガラスをベタベタ触ったら……」


    後ろから見守る阿文は、まるで子供を見守る母のようだ。

    しかし、忠告など聞こえないふりで、

    吽野はお構いなしに検分を進める。


    吽野「わ。人魚の目、うっすら開いてるよ」


    眼窩にはガラス玉が嵌っており、口元は妖艶な微笑を湛えている。


    吽野「燭台の灯が反射して、よく見えないなぁ」


    戸の下側に鍵穴があるが、埃が溜まっている。

    最近鍵を差し込んだ形跡はなかった。


    吽野「あれ?」


    吽野は何かに気づいたようだった。

    戸棚の扉を無遠慮に引っ張った。

    すると、それは簡単に開いた。


    吽野「おや、戸が開いているじゃないか」


    吽野は剥製に手を伸ばす。阿文は慌てた。


    阿文「先生! 流石に触るのは……」

    吽野「ああ、よく見えるよ。どれどれ……」

    阿文「先生いい加減に……」


    いよいよ心配になって、阿文は思わず吽野に駆け寄った。

    大袈裟な心配顔に、吽野に笑いが込み上げてくる。


    吽野「大丈夫だって。本体に触れやしないさ」


    吽野は悪戯っぽく笑った。


    阿文「どうだか……夢中になるとお構いなしじゃないか」


    阿文の予想通り半分は聞き流している顔だ。


    吽野「おや……」


    吽野は人魚の腰あたりに目線を合わせ、二、三度目を瞬かせた。


    阿文「どうかしたのか」

    吽野「阿文クンも見るといい。胴体だ」

    阿文「胴体?」


    吽野は注意深く剥製を指さした。


    吽野「魚の鱗が肌にへばりついている」

    阿文「そんなの、人魚だし当然だろ」

    吽野「膠(にかわ)の跡が見えるんだよね」

    阿文「なんだって」


    阿文は吽野の爪の先に顔をぐいと近づけた。

    膠は、動物の皮や骨から抽出した糊材だ。

    もし、そんなものが剥製に使われているというなら、

    この剥製そのものが、偽物の疑いが出てくる。


    阿文「……どのへんが膠なんだ」


    阿文は訝しんだ目で吽野を見た。

    よく見てもわからないらしい。


    吽野「見慣れてないとわからないか」


    吽野は大袈裟にため息などついてみせた。

    阿文はムッとした。


    阿文「先生は見慣れているのか?」

    吽野「そりゃね。壊れたものを修理できないかって、日頃から頑張ってるんで」


    そういえば、と阿文は思い至る。

    吽野は不思議堂のガラクタをよくいじっている。

    見知らぬ骨董業者、知人の蔵、ゴミ捨て場、河川敷……

    さまざまな場所で収集してくるガラクタは、

    壊れたり汚れたりしていることが多いのだ。


    阿文「そうか。先生が言うなら確かだろうな」


    阿文は納得した。


    吽野「ともかく、この人魚は作り物だ」

    阿文「……蝋人形なのか?」

    吽野「んー……違うね」

    阿文「じゃあ、なに?」

    吽野「上半身は、ちゃんと人間の剥製だよ。下半身は……獣の皮に、魚の鱗を貼り付けたのかもね」


    吽野の答えに、阿文は血の気が失せた。


    阿文「遺体の下半身をわざわざ切断して、人魚の姿にしたのか」

    吽野「それならまだいい方でしょ。死ぬ前にちょん切られてたら……」

    阿文「変なこと言わないでくれ」


    阿文がわかりやすくギョッとした顔をしたので

    吽野は面白がって顔をニヤつかせた。


    吽野「あれ、怖いの?」

    阿文「怖いというか、気味が悪いというか……」

    吽野「だから言ったじゃん。あの店主は胡散臭いって」

    阿文「たちの悪い冗談だ……」


    自分に言い聞かせつつも、

    阿文は妙な胸騒ぎを覚え、眉根を寄せた。


    その時、廊下からキイキイと音がした。


    吽野「まずい、店主が戻ってきた」


    木造の車椅子が向かってくる音だ。

    吽野と阿文は慌てて席につき、素早くナプキンを膝に戻す。


    店主「お待たせいたしました」


    店主の膝の上には、涼しげな緑の器が2つ乗っていた。

    それを、手慣れた手つきで配膳する。


    吽野「氷菓子ですか?」

    店主「はい。手製のアイスクリンに紅色のシロップがかかっております」


    説明する店主の袖口から、先ほどは見えなかった白い布が見えた。

    それは、巻き付けられた包帯であるようだ。


    阿文「ん……?」

    店主「いかがしましたか?」

    阿文「いえ……」


    器から香った、ほんの少しの生臭さ。

    先ほどの料理からはしなかったものだ。

    吽野もそれに気づいたのか、右手に持ったスプーンをぴたりと止めて、

    阿文と目配せする。


    阿文「……」


    疑念を払いたくて、阿文は店主を見た。

    店主と目が合う。


    店主「お早く。溶けてしまいますので」

    阿文「ええ、はい……」


    気圧されて、阿文はアイスクリンをひと掬いする。

    店主は、ただただ阿文の手元ばかりを凝視する。


    張り付いたような笑顔。

    先ほどはあった気遣いの言葉もない。

    吽野も阿文も、強烈な違和感を覚えた。


    阿文『この店主、さっきまでと雰囲気が違うような……』


    そんなことを思いつつ、スプーン口元に持っていった。

    白い氷菓は、調理前の生魚の香りを放つ。

    先ほどの食事とは打って変わり、食欲の失せる臭いだった。


    あまり疑うことをしない阿文だが、

    今回ばかりは不安を掻き立てられた。直感が警鐘を鳴らす。


    阿文「あの……すみません。もうお腹がいっぱいになってしまって……」

    店主「ええ……?」


    残念そうな声が返ってきた。


    店主「どうしても、召し上がれませんか……?」


    店主の声に、追い縋るような響きがこもる。


    阿文「ええ……。本当に残念なのですが、お腹の調子がよくなくて」


    これで断り切れるだろう。阿文は確信していた。

    しかし、


    店主「それでしたら、私が食べさせてあげます」

    阿文「は、はあ……?」


    店主は器とスプーンを手に取った。

    車椅子から上目遣いに阿文の方を見る。

    阿文の背筋は凍えた。

    先ほどまでは紳士的で、

    控えめな対応をしていたはずだ。

    それが、このデザートに関しては

    何がなんでも食べて欲しいという。

    おかしいなと、阿文は思った。

    店主の目は見開かれて、瞬きひとつもしない。

    無表情のまま、阿文に訴えかけている。


    阿文「あ、あの……」


    たじたじになっているのを見かねたのか、吽野は助け舟を出した。


    吽野「そうだねぇ……。残してしまって本当に申し訳ないけど、腹も身の内。お会計にしてもらいましょうか」


    吽野も、どうにも様子のおかしい店主が恐ろしく感じていたのだ。

    懐の財布を探りながら立つと、店主が鋭く言い放った。


    店主「一口でいいので、口をつけて帰ってください!」


    それまで穏やかだった店主の様子が一変した瞬間だった。

    二人は気圧され、硬直する。

    しばしの沈黙の後、吽野は口を開いた。


    吽野「……嫌だと言ったら?」

    店主「嫌とは言わせませんっ」


    尖った声だ。

    恐れをなした阿文は吽野の腕を引っ張った。


    阿文「先生、ここを出よう」

    吽野「そうだね……」


    吽野は少し多めに代金をテーブルに置き、

    阿文と共に早足で廊下に出た。


    店主「待て!」


    店主は車椅子を急発進させた。

    二人はいよいよ恐怖を覚えて、

    弾かれるように駆け出した。

    それを追いかける店主は、車椅子に乗り慣れていて、

    追いつきそうなほどの速さだった。


    吽野「ちょちょ、ちょ! どうして追いかけてくるの!?」

    阿文「さあ、わからない……!」


    二人は玄関のドアノブに同時に手をかけた。

    直後だった。

    後ろでガシャン! と、大きな物音がした。


    吽野と阿文は何事かと、思わず振り返る。


    店主「う、うう……」


    車輪が片方取れた車椅子が横倒しになり、

    店主はそこから転げ落ちている。

    したたかに体を打ちつけたと見えて、

    背を丸めてもがいている。


    阿文「だ、大丈夫か……!?」


    踵を返して駆け寄ったのは阿文だった。

    逃げていたことを忘れたわけではなかった。

    しかし、店主にはもう追いかけるほどの気力も残っていなさそうだ。


    吽野「まったく……お人好しなんだから」


    吽野は呆れつつも、助け起こすのを手伝った。

    店主の足を隠していた膝掛けが膝からずり落ちる。


    吽野「あ、あれ……?」


    二人の目に飛び込んできたのは鱗が生えた一本脚と尾ひれだった。

     ---------------------------------------------------------------

    ●第二話第四章「夕凪の記憶」

    ◆◆◆◆◆追憶・汐◆◆◆◆◆

    これは、昔の話です。私には5つほど歳の離れた妹がおりました。

    名を汐(しほ)といいます。

    歌が達者な人魚でした。時たま海面に顔を出して、

    海鳥を真似て歌い、面白がっていました。

    そのうち汐は、近くを通る人間の舟唄など真似し始めましたので、

    私も面白がって汐の歌を聞きました。

    そのことを家族に咎められましたが、海の中はひどく退屈で、

    私たち兄妹は暇潰しに余念がありませんでした。


    私たちは岩礁に好んで泳いでゆきました。

    そこは砕破が打ち寄せる、険しく切り立った場所です。

    その一角に、地形の関係で潮が穏やかな窪みがありました。

    窪みは、二人が腰掛けるのにちょうどよかったのです。

    ここであれば、人間も近寄りません。


    その日、汐は海底で拾ったという

    珊瑚でできたかんざしを得意げに見せてくれました。


    汐 「兄さん、私の髪に飾って」

    夕凪 「いいよ」


    私は人間がそうするように汐の髪の毛にさしてあげました。

    汐はご機嫌になって、人間の歌を口ずさみました。


    汐 「私もっと歌が知りたい。人間と友達になるの」


    汐が言いました。もちろん、私は賛成しませんでした。

    人魚を捕まえて、すり潰しては不老長寿の妙薬だとありがたがる

    人間の野蛮さは親から聞かされていました。

    事実、私たちの世界では、

    人間と会うのも、話すのも、してはいけないことでした。

    皆が口を揃えて、禁忌だと子供に教えます。

    約束を違えたら、家族全員、仲間外れです。


    それでも汐は私に言うのです。


    汐 「一緒に浜辺についてきて欲しいの」

    夕凪 「嫌だよ。殺されて食われてしまうよ」

    汐 「あそこでは人間が漁をしているの。きっと、友達になれるわ」

    夕凪 「うるさい! これ以上近づいちゃダメだ」


    あんまりにしつこいので、私は声を荒げました。

    すると、汐は恨めしそうな顔で私を睨み、


    汐 「じゃあ、私一人で行くから」


    言葉を吐き捨てました。


    夕凪 「勝手にしろ」


    私は、わざと突き離すようなことを言いました。

    甘ったれな妹が考えを改めると思ったのです。

    しかし、そうはなりませんでした。

    私の思惑とは裏腹に

    妹は泣いてどこかに行ってしまいました。

    それが、妹との最後の会話でした。


    夕凪 「おーい、汐! どこにいるんだ……」


    日が暮れても探し回りました。


    汐 「いつか、人間と友達になるわ」


    脳裏で汐の言葉がこだまします。

    妹はよく、そんな願望を口にしていました。

    『帰らないのは、当てつけだろう』

    皆が諦めて言いました。

    家族全員が奔放な娘を見放したのです。


    妹はその日から姿を消しました。


    私は諦めきれませんでした。

    そうして故郷を捨て浜の近くで過ごすようになりました。


    ◆◆◆◆◆追憶・龍宮◆◆◆◆◆


    故郷を捨て、五十年はたった頃でしょうか。

    崖の上に一件の洋館が建ちました。

    頑丈そうで、背の高い建物。

    私は興味津々で、崖下から見上げました。

    建物の壁の一角は四角く区切られていて、中が透けて見えます。

    そこには透明な板がはまっているようでした。

    のちに、「ガラス窓」と言うものだと知りました。


    夕凪 「あれは……」


    その「ガラス窓」に、女性が一人佇んでおります。

    随分と若い。

    黒髪で、色白の面。小さな唇。目元はおっとりとして見えます。


    夕凪 「綺麗だな」


    思わず口に出すほどに、美しい女でした。

    私がぼうっと彼女を見つめていると、


    ゆっくり眼が動き、彼女の瞳が、私をしっかりととらえました。

    そして、私に向けて微笑みをこぼしたのです。


    夕凪 「……!」


    慌てて海中に隠れました。

    しばらくして、海中から顔を出すと、

    もうそこには彼女はいませんでした。


    夕凪 「もう一度、彼女に会いたい……!」


    その日から

    私は、何度も、何度もその洋館の下を訪ねました。

    そして飽きもせず、餌を待つ魚のように

    口をぽっかり開けて建物を見上げます。


    あれほど妹に「人間に会うな」と言っていたのに

    私はその禁を破っていました。罪悪感がないと言えば嘘です。

    しかし、私はあの人の虜だったのです。

    長いこと、私自身を蝕んでいた孤独が暴れ出して、

    余計に恋心を燃え上がらせました。


    繰り返し、繰り返し、顔を合わせるだけで、

    話しかけもしません。

    数ヶ月の時をそうして過ごしました。

    ある時、日傘を携えた彼女は

    穏やかな昼の海に向かって言いました。


    女性 「人魚さん、私、あなたのお友達になりたいのです」


    白い服の彼女は

    海風に煽られたほつれ毛を撫で付けています。


    八重 「私、八重と申します」


    私は、それをしっかりと聞いていました。


    夕凪 「私は、夕凪です」


    岩の後ろに隠れ、私は小さく答えます。

    いくつか世間話をしました。

    八重は、人間の世界では少し風変わりなのだそうです。

    世間に馴染めなかったのだと。だから崖の上に家を建てて、

    あそこで一人暮らしなのだと。

    どこか、自分に通ずるものを感じました。

    彼女も同じように思ったのでしょう。

    私たちは互いの孤独を慰め合いました。


    そして、幾度と逢瀬を重ねて、私たちは夫婦になりました。


    ◆◆◆◆◆追憶・縁◆◆◆◆◆


    妻になった八重は、私を丘に上げるために、

    特注で車椅子を作らせました。

    私にとって慣れない生活でしたが、

    多少の苦労は気にもなりません。

    八重と一緒にいられるなら、私は本望でした。


    一方の妻は、時折私を見ては、少し表情を陰らせました。

    何か隠し事をしているようでしたが、

    深く触れることは致しませんでした。


    そうして陸で暮らすこと、十年。

    穏やかな日々に喪失感は押し流されようとしていました。


    そんな、ある日のこと。

    車椅子の修理に来た職人が、八重を見てこう告げました。


    職人 「あなたの奥さんは、ずっとお綺麗ですね。少しも歳をとらない。お若いままだ」


    確かに、彼女の見た目はこの十年変わりません。

    それは人魚である私も同じです。

    人魚の寿命は人に比べれば長く、容姿も変わることがありません。

    自分がそうであるからか、八重の変化が時間に伴ってないことなど

    言われるまで少しも気にかけることがありませんでした。


    職人 「まるで、八尾比丘尼のようだね」

    夕凪 「八尾比丘尼?」

    職人 「知りませんか? 人魚を食べた不老長寿の娘の話を……」

    夕凪 「人魚を、食べた?」


    私の背筋は凍りつきました。

    近くで聞いていた八重も同じだったと思います。


    八重 「あなたに話さなくてはいけないことがあるの」


    職人を返した後に、

    苦しそうな表情で、八重は何かを言い淀んでいました。

    代わりに、私は詰め寄りました。


    夕凪 「君は、人魚を食べたのか」

    八重 「……」


    八重は、観念して、泣きながら白状しました。


    八重 「六十年前、私の住む漁村で人魚が網にかかったの。少女の人魚で、髪にかんざしをさしていた。すごく人懐こかったけど、村の男たちが面白がって彼女を的にして石を投げた。そうして、しばらく囲んでいたら誤って殺してしまったの」


    おぞましい告白でした。胃の腑の中身が泡立って

    身体中が火に炙られるような熱さを感じました。


    八重 「村長に見つかれば騒ぎになる。死体の処理に困って、その場にいた村の男が彼女を料理した。私はそれを食べて……」


    それ以来、八重の見た目は変わらず、

    八十歳になった現在も若々しいままであるようでした。

    歳をとらない八重は村中で気味悪がられたそうです。

    一緒に人魚を食べた男たちは、同じように歳をとらなかったそうですが、

    皆、不慮の事故に遭い、生き残ったのは八重一人。


    八重 「人魚を食べて後悔したわ。あなたに会うまで、私はずっと一人で生きているようで、まるで孤独の呪いにかかったようだった」


    話しながら、八重は泣いていました。


    私は、そんな彼女をみて、すうと心が冷えました。

    同情を誘うような目から、大粒の涙が落ちていました。

    しかし、いくら言い訳を聞いても同胞を殺され、食べられもした

    気色の悪さは拭えませんでした。


    夕凪 「人魚は最後になんて言っていたんだ」


    泣きじゃくる妻だった者に、私は無機質に問いかけました。


    八重 「『友達になって』って。そう言った……」


    ◆◆◆◆◆追憶・身代わり◆◆◆◆◆


    気づけば、私は海の中にいました。

    腕の中に、妻だったものの亡骸を抱いて。

    知らぬ間に、海に沈めていたようです。


    これは、汐の仇なのか。真相はわかりません。

    一つ確かなことは、また私は独りになったことでした。

    私は八重の遺体の下半身を切り落として、美しい剥製に仕立てました。

    そして、剥製を餌に、『代わり』を探したのです。


    ◆◆◆◆◆レストラン龍宮◆◆◆◆◆

    阿文 「……代わりだって?」


    店主は先ほどの威勢を失って、頬に涙を伝わせていた。

    壮絶な人魚の半生に、阿文は眉をひそめる。

    一方、吽野はいやに冷静に推理した。


    吽野 「もしや君、僕らを不老不死にしようとした?」

    店主 「……」

    阿文 「どういうことだ、先生」

    吽野 「さっきの赤い氷、君の生き血なんじゃない?」

    阿文 「ええ!?」

    店主 「……」


    店主は俯いて答えなかった。

    しかし、それが答えでもあった。


    吽野 「なるほど。だから生臭かったわけか。手首まで切って、捨て身がすぎるよ」


    阿文も店主の手首の包帯から血が滲んでいるのを見た。

    それを痛々しく思い、阿文は懐に忍ばせていたハンカチを

    包帯の上から巻きつけてやった。


    店主 「ありがとうございます……」


    店主はしおらしく、頭を下げた。


    阿文 「店主さん、僕らはあなたの妻の代わりにはなれませんよ」

    吽野 「そうそう。俺たちは女の子じゃないからねぇ……」

    阿文 「先生、そういうことじゃない。店主さんは、きっと寂しかったんだ」

    吽野 「はいはい。そんなこた、わかってるさ」


    阿文はニタニタしている吽野をたしなめた。


    店主 「あなたたちなら、友達になってくれると思ったんです……」


    店主は涙声で訴えた。


    阿文 「友達……ですか?」

    店主が未練がましく、縋る眼差しで手を掴むので、阿文は混乱した。


    店主 「ええ、そうです。連れ合いに、なんて言いません。長く付き合える友達になって欲しかった。それで……!」

    阿文 「ちょ、ちょっと、少し落ち着いて……」


    阿文はすがりついてくる店主を引き剥がしつつ、

    吽野と顔を見合わせた。おそらく、吽野も阿文も同じ意見だろう。

    先に口を開いたのは吽野だった。


    吽野 「なら、先にそう言ってくれ」

    店主 「え……?」


    店主は鳩が豆鉄砲でもくらったような顔をしている。


    阿文 「先生の言う通りだ! 素直に友達になってと、頼めばいいだろう」

    吽野 「説明もなしに、不老長寿仲間に引き摺り込むなんて乱暴がすぎるよね」

    店主 「けれど、あなたたち、私よりも絶対に先に死ぬんでしょう……?」

    吽野 「そりゃ。誰もわかんないよ」

    阿文 「ああ。わからない。あなたが先に死ぬかもしれない。そんなことで不安に思う暇があるなら、歳の違う友達をたくさん作っておけばいいじゃないか」

    吽野 「そうそう」


    店主はぽかんとした表情だった。


    店主 「なるほど……? 考えたこともありませんでした」


    ようやく、店主は涙を引っ込めて、吽野の顔を見た。


    吽野 「ところであんた、新しい妻を探してたんじゃないのか?」


    吽野は素っ頓狂に聞き返す。店主も「そうだ」と頷きつつも、

    申し訳なさそうに答えた。


    店主 「あなたたちは、私と同じ匂いがしたんです」

    阿文 「匂い、ですか?」

    店主 「はい、私と『同類』の匂いが……」


    阿文は自分の服をくんくんと嗅いだ。


    吽野 「変人の匂いってことじゃない?」

    阿文 「変人は先生だけだろ」


    二人が言い合いをしていると、店主に少し笑みが戻った。


    吽野 「寂しいのなら、また必ずくるよ」

    阿文 「そうだな。とても美味しい料理だったから」

    店主 「ありがとうございます」


    店主は納得して頭を下げた。


    吽野 「でも、あんたの生き血の料理は勘弁してね」


    吽野は苦笑した。


    【第二話 了】

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    ★第三話はこちら
    https://ch.nicovideo.jp/kuroineko/blomaga/ar2115955
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