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  • 金平桂一郎の興行師のひとりごと

    2012-10-31 18:56
    皆様、こんにちは
    協栄ボクシングジム 金平桂一郎です。
    
    今回のテーマは、前回に続く、具志堅用高の防衛戦の軌跡と金平正紀の栄光と挫折についてです。
    
    昭和51年に、山梨県で奇跡のタイトル奪取をした具志堅用高先輩とそのマネージャーであり、協栄グループの総帥先代正紀は、北は北海道から、南は沖縄県まで、延べ5年をかけ、全国行脚をいたしました。
    
    いく先々で、会場は満員、地方に於ける、イベントや交流では引っ張りだこでありました。
    
    これは、具志堅用高先輩が実際にその地で試合を行ったという、親近感も相乗効果を狙った、先代正紀の戦略は、ズバリ的中したのです!
    
    そして、父正紀の晩年に至る、最大の人生の野望であった、議員として、国会の赤絨毯を踏むこと…
    
    これに、最も近づいた時でもありました。
    
    しかし、父自身の慢心により、最大の夢であった、国会になることどころか、父の人生に於ける、最大の痛恨事が起きたのであります。
    
    以下、次号へ続きます。
  • 金平桂一郎の興行師のひとりごと

    2012-10-26 14:48
    皆様、協栄ジム会長 金平桂一郎です。
    
    興行師のひとりごと
    
    今回は、具志堅用高さんの防衛ロードに見る、先代正紀のビジネスモデルの成功と挫折です。
    
    昭和51年に山梨県甲府市で、奇跡的な試合内容で、世界タイトルを奪取した、具志堅用高さんは、翌昭和52年1月に、元チャンピオンで、最強のチャレンジャーハイメ・リオスを迎え防衛戦を東京都日本武道館で行いました。
    
    当時の、具志堅フィーバーを思うと、この興行は定石であります。
    
    興味深いのは、その後の軌跡でありまして、リオスに2-1の辛勝後、2度目の防衛戦はこれまた強豪のマルカノと札幌、3度目の防衛戦は、手堅くタイのマハチャイと大分県別府市でありました。
    
    4度目の防衛戦は、名古屋市でフィリピンのバルガス
    5度目の防衛戦は、先代正紀の故郷である、広島でリオスを返り討ちにしました。
    
    その後、東京を始めとした、首都圏でも防衛戦やノンタイトル戦を行いましたが、大阪はもとより、北九州、高知県、石川県金沢市で13回目の防衛戦、14度目の防衛戦は、具志堅用高先輩の故郷の沖縄県具志川市で、行われたのは、有名ですが、興行師の視点で申し上げると、昭和の高度経済成長における、地方経済の元気さなのですが、先代正紀の読みは、具志堅用高の全国ツアーによる、具志堅用高先輩と自らの、ブランディングを兼ねていたのです。
    
    具志堅用高先輩にとっては、生の試合を見せる事によっての、強い親近感です。
    これによって、地方に於けるイベントやコマーシャル等、副収入も膨大なものとなったのです。
    
    先代正紀の遥かなる夢と挫折は、次号に記します。
    
    また今週の金曜日夜21時30分からニコニコ動画生放送いたしますので
    こちらのほうもご覧ください
    
                            
  • 金平桂一郎の興行師のひとりごと

    2012-10-09 13:24
    皆様、こんにちは
    
    協栄ボクシングジムの金平桂一郎です
    
    今回は、前回まで、お話をしていました、初代チャンピオンの海老原博幸・西城正三・具志堅用高先輩に至る、協栄ジムと先代正紀の歩みを通して、若く、資金も人脈も無かった、若いジム経営者とそれに着いていった世界チャンピオン達のサクセスストーリーを第一期協栄ジム黄金時代としてまとめてお話いたします。 先ず、海老原博幸さんが世界チャンピオンになった、1693年9月当時、金平正紀は正確には、金平ジムの会長ではありませんでした。 当時の新聞紙面を確認すれば分かりますが、当時は金平ジム金平正記マネージャーと表記されています。 それでは、金平ジムの会長は誰だったかと言いますと、中目黒に有った竹内鉄工所の竹内社長が会長として、新聞紙面にも出ておりました。 何故、金平ジムなのに、金平正記が会長ではないのか? ここに、先代正紀の知恵を見つける事が出来ます。 初回から、申し上げている、金平正紀と協栄ジムの奇跡とは、創業時まだ26才の若僧に過ぎなかった、父正紀の苦心と行幸が折り重なり出来上がった、ストーリーなのです。 因みに、父の名前も海老原博幸さんが、世界チャンピオンになった当時の正記と西城正三さんが世界を獲った以降の正紀を併記しています。 さておき、上記に在る通り、先代正紀は会長という名誉も御世話になっている、竹内社長に譲る形で、経営基盤を安定させながら、海老原博幸さんに、人生をかけたのです。 書けば簡単ですが、取り分けて、最初のバックボーンを得るには、持てる知恵を総動員して、金平ジムの設立にこぎ着けたのです。 ここで大切なのは、竹内ジムではなく、名称は金平ジムであることで、もしも、竹内ジムで発足していたら、未来永劫金平ジムの所属選手としての海老原博幸も若き天才マネージャー金平正紀も存在しませんでした。 譲ることの出来る点は、目一杯譲るが、ここから先は譲らない! これは、創業を志す者や経営者皆が胆に命ずる事の第一歩なのではないでしょうか。 続きは、次号にて 次回、ニコニコ生中継は、12日金曜日の21時30分より行います。