私は、生まれたときは2,300グラム程度の小さい赤ちゃんでした。
そして、小学生6年生になるまでは、身長は高くても、体重は平均値でした。
ただ、私は父親に似て、胴長で手足が短く、スタイルが悪かったのです。顔立ちも、糸のように切れ長の釣り目で鼻ペチャでしたから、見栄えがよくありません。
何しろ、転んだときに、鼻ではなく頬をすりむいたくらいですから……。いかに鼻が低かったか、おわかりになると思います。
私の見た目の取り柄は、色が白いことだけでした。
それに比べて、歳下の妹は母親似で、手足がすらりと長く、くっきりした二重瞼の大きな目で、可愛いと評判の子供でした。
「ペンギン」「大仏」と呼ばれた子ども時代
小学校の頃から、父や母は、私を「ペンギンちゃん」とか「大仏さん」とか呼ぶようになりました。
母は「ペンギンは、手足が短くて可愛い」と言いますが、父は「おまえの顔は、奈良や鎌倉の大仏にそっくりだよ」と言うのです。私は「大仏さん」と呼ばれるのが大嫌いでした。
小学生の終わりから中学生の初めにかけて、私は膝を悪くして運動ができなくなりました。身長が急に伸びたため、骨と筋肉のバランスを崩したそうです。
運動ができないのに、従来と同じように食べていたので、中学生の夏には、丸々と太ってしまいました。ぽちゃぽちゃした胴体に短い手足がついているので、まさにペンギンです。顔もますます大仏に似てきました。
膝が治ると、母は「運動しなさい」と言うのですが、運動神経が悪くて、運動が苦手な私。学校の体育の先生もあきれるほどなので、体育の授業が苦痛でした。
妹は運動神経がよく、体育の先生のお気に入りです。
私と妹は、小学校から同じ私立学校に通っていましたから、教わる先生も同じです。妹は「あんたの姉さんはダメだね」と体育の先生に笑われたそうです。
高校に進むころには、すっかり太ってしまいました。160センチ63キロですから、たしかに太りすぎです。一方妹は160センチ45キロで、スタイル抜群でした。
成績トップでも、男にはモテない
胴長短足でデブ、顔は大仏、運動はまるでダメとなると、勝負するには勉強しかありません。
私は読書が大好きでした。読書嫌いの妹の読書感想文は、すべて私の代筆です。そんなことから「容姿の悪さは頭でカバーすればいい」と思いつきました。
高校1年の秋頃から、私は一生懸命勉強しました。教師になりたかったので、教育学部をめざしました。
通っていたのは、小学校から大学まで続く一貫教育の私立校ですが、進学には厳しい面がありました。
平常の成績に加えて、進学試験の成績で合否を判断されます。教育学部は志望者が多く、難関でした。
そんななか私は、進学試験トップの成績で教育学部に入りました。うれしかったし、生まれて初めて、自分に自信が持てました。
「よし! これからは、頭で勝負してやるぞ!」と、自分に誓いました。
私は真面目に勉強しました。おかげで学部トップの成績を取り、特待生になれました。大学の授業料が全額免除されたのです。特待生になると、父も大いに喜び、褒めてくれました。
しかし、成績はよくても、顔もスタイルも悪いと、男子学生は見向きもしてくれません。あちこちの大学との合同コンパやダンスパーティに出かけましたが、ボーイフレンドはひとりもできませんでした。
男子学生が近づいて来るのは、「ノートを借りたい」「レポートの代筆をしてほしい」「わからないところを教えてほしい」というときだけです。
私は小学校教諭の資格を取るために勉強していましたが、頼まれれば、どの学部学科でもレポートを書きました。法学部経済学部、国文学科、ドイツ文学科などです。
人から頼りにされるのがうれしくて、妹の友達や他の大学の学生のレポートまで、何でも引き受けました。
女は中身より見た目……?
そうやって、学生時代は、顔やスタイルの悪さを勉強でカバーし、自分をごまかすことができました。「人間は、外見より中身が大事」と、自分に言い聞かせていました。
父母は運動の苦手なことを心配して、私にテニスをさせたり、水泳を習わせたりしましたが、どれもコーチがあきれて見放されてしまいました。
でも幸い、大学に入って始めた日本舞踊が、性に合ったのか、師匠が異常に我慢強かったのか、続けることができました。おかげで体重も60キロ前後まで落ちました。
大学を卒業する頃には、私は少し自信ができていました。
しかし、その自信は、あっけなく砕け散りました。
大学卒業と同時に、父母は私の婚活を始めました。今から45年も前ですから、婚活はお見合いが主流です。
世話好きなおばさんが暇つぶしに縁談をまとめるものから、なかば職業的に縁談の世話をする仲人まで、「仲人おばさん」がたくさんいました。
父母は、あちこちの仲人おばさんに、私の縁談を頼みました。
「あらァ、太っていらっしゃるのねえ」
「足が太いと、それだけでお見合いを断る男性もいらっしゃるのよ」
「お顔……整形なさる気はない? 目を二重にするだけでも違うのよ」
母に連れられて挨拶に行くと、学歴も資格も見ることなく、容姿だけが問題にされました。
「女は性格が良くて、家庭的なのが一番だよ」
「返事のいい女は、返事美人と言って、人に好かれるよ」
「品行が悪いと、いいところへお嫁さんに行けない」
父母の言うことを信じて、私は、洋裁、料理、お茶、お花とひと通りの花嫁修業をし、夜遊びなどもしませんでした。
でも、仲人おばさんの言うことはまったく違いました。
「今の女性は、自動車の運転とゴルフができなくてはいけないのよ。趣味は日本舞踊と読書? なんだが古臭くて陰気だわね」
私は、運転免許は取得していましたが、ゴルフはまったくできませんでした。
それでも、父母が頼みこんだので、お見合をすることになりました。
お見合いは地獄でした。
スタイルの悪いのをカバーしようと和服で行けば、「堅苦しくて陰気」と断られました。
できるだけ可愛いドレスを着ると「足が太いのに、似合わない派手な服を着ている」と断られました。
ダイエットもしましたが、せいぜい58㎏までしか落ちません。
毎週のようにお見合し、毎週のように断られました。
「平安時代に生まれていたら、光源氏からプロポーズされたわよ」
結婚が決まらず、ため息をつく母に、私はよく言ったものです。平安時代は丸顔、色白、糸目が美人の条件ですから、小野小町も私のような顔をしていたかもしれません。
そう思って自分で自分を慰めるのですが、気分は少しも晴れませんでした。
痩せたら、生理がなくなった
10回ほどお見合いをして、やっと「いい男性」に巡り会えました。背は高くて、なかなかハンサムです。
勤め先は一流大企業で、10歳年上。少し頭頂部が薄いけれど、私にはもったいないような相手でした。
とんとん拍子で縁談が進み、結納の日取りを決めるまでになりました。
そのとき、彼に愛人がいることが、わかったのです。
銀座の女性で、子供が産めないので結婚できないそうです。彼は「さえない女と結婚すれば、愛人がいても文句を言わないだろう」と、私との結婚を決めたそうです。
父の行きつけのクラブのママさんが、彼の愛人の親友で、父に教えてくれました。
私はショックを受けました。結婚する気などなくなりました。
それでも、父母は縁談を持って来て、お見合いをさせました。私は、ダイエットするのも嫌になり、体重は60㎏前後に戻りました。
学生時代「大仏」と呼ばれた私が、30年かけてたどり着いた命がけのダイエット[体験談](2/3)に続きます。
written by NICOLY編集部
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