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☆
あまりにも研究時間が短かったことが悔やまれる。序中盤に重点を置き、変化を何通りも検討していたため、本番と同じ時間設定では、勝負が決まるところまで進めることは一回もできなかった。
それでもこちらは、万全の体勢を整えることができた。人間相手でも、ここまで申し分のない展開になったことはほとんど記憶にない。
それなのに大熊は、背筋に寒いものを感じた。
【図は△3二飛まで】
互いに駒組みは飽和状態に達している。SHAKEは今、1筋にいた飛車を3筋に戻した。指す手がないため、再び飛車の反復運動を選んだらしい。
大熊としては、相手の動きに反発する形で、厚みを生かして攻め込みたい。SHAKEの、いや将棋ソフトの持ち味は、心がないこと。すなわち恐れを知らないこと。人間なら怖いと感じるところでもかまわずに攻め込んでくる。
ゆえに、下手に攻撃を仕掛けてカウンターを食らう形は避けなければならない。成算もないのに自分から動くわけにはいかない。
だが、SHAKEはまったく同じことを考えているかもしれない。
すなわち、千日手だ。双方とも有効な攻めを見いだせず、ただ不利にならないように駒を動かすだけの展開。
同じ局面が四度連続して現れた場合、千日手が成立する。電将戦でもそのルールに準じている。
……SHAKEとの付き合いは長いが、千日手になった経験はなかった。大熊はここに来て愕然とした。SHAKEはシステム上、千日手を選ばないなどと勘違いしていた。
千日手は後手歓迎と言われる。理由は明白で、指し直し局は先後を入れ替えるためだ。有利な先手になれるのである。だから先手は、可能なら千日手を打開する必要がある。
ともあれ、SHAKEが次に何を指すか。大熊は5八の金を上に動かした。動かしても一番影響の少なそうな駒だ。
するとSHAKEは十分ほどの考慮で――飛車を元の1筋に戻す。
確定だ。SHAKEは千日手辞さずの構えだ!
「はっ――」
瀬田が頭を掻いていた。まさかこうなるとは、そんな思考がありありと覗ける顔をしていた。
無論、瀬田としても千日手で問題ないだろう。むしろ、そうなったならば絶対に勝てると考えているはずだ。
大熊は現局面を慎重に見定める。
――打開は可能だ。他の手を指しても、すぐには悪くならないだろう。しかし思わぬ見落としがあるかもしれない。わずかなミスでも、この冷徹な最強ソフトは、立て直す余裕を与えてはくれないはずだ。
だとしても――絶対に千日手は避けなければならない。後手ならば松平前会長と同じ、端歩を突かずに△6二玉と上がれるが、後手での研究はまったくしていない。上手くいく保証などない。いや、上手くいかないと考えるべきだ。今の将棋以上に理想の展開はない。もはや、持てる勝負運はすべて使い切ってしまった。……棋士はリアリストだが、勝負運も大事にする。それがなくなったと一度でも思ってしまうと、もう翻す手段はないのである。
大熊は長考に沈む。いつの間にか脇に置かれていたおやつに手を伸ばした。スポンサーからのありがたい提供だが、素直に美味しいと感じ入る余裕もない。せっかく補給した糖分も、あっという間に脳から失われてゆく。
将棋はすべて、相手との勝負であり――自分との勝負である。いかにプレッシャーに打ち勝ち、迷いを振り切り、最善の道を選ぶか。
予定を変更し、思い切って自ら攻めに転じるべきなのか? それとも不利を承知で千日手を選ぶか?
ひとまず、先ほど上がった金を元の位置に戻してみる。
SHAKEも、再び十分を消費して飛車を3筋に移動する。
――やはりこちらから打開しないかぎり、千日手になってしまう。
機械と違い、人間には体力と精神力に限りがある。同じコンディションで対局することは不可能だ。アマチュアならば、また後日と気軽に言うことができる。結局再戦しないままというケースもあるだろう。しかしプロは戦わなければならない。
そもそもプロの将棋には、厳密な意味で引き分けはない。千日手だろうと持将棋だろうと、指し直しをしなければならない。順位戦では二度もの千日手が発生し、決着した頃には夜が明けていたという例があるくらいだ。
勝つか負けるか。それしか存在しないのがプロの世界。
俺が勝つか、SHAKEが勝つか。俺が負けるか、SHAKEが負けるか。
引き分けはない。ノーゲームはない。どちらかが必ず、傷つかなければならない。
すべてを承知で、この世界に飛び込んだ。だが、今ほど思ったことはなかった。辛い。厳しい。涙が出るほどに、めまいで倒れそうなほどに。
局面は進む。いや、繰り返す。大熊は機械的に、千日手への道を辿る。自分だけいたずらに持ち時間を消費するわけにはいかない。だからとりあえずは指し、SHAKEの考慮時間も利用して考える。だが結論は出ない。
ついに、決断のときが訪れた。
▲5八金。もう一度それを指せば、千日手だ。そして一からやり直しになり――おそらくは負ける。
ここで手を変えれば、活路を見いだせるかもしれない。しかし普通に攻め合って勝てるとは想像できない。
大熊は両手で頭を抱えた。全身が小刻みに震えてきた。
どっちにしろ負けるならば、華々しく戦ったほうがいいのではないか? その姿こそを、ファンは待ち望んでいるのではないか? 決断を、決断をしなければ……。
「あの、すいません」
ふいに、瀬田が声を上げた。
大熊は顔を上げた。自分に対してではない。記録係の女流棋士に呼びかけていた。
「千日手になったときの規定は、どうなっていましたっけ」
そんな質問、予期しているわけもない。記録係は目をしばたたかせて、ちょっとお待ちくださいと返事するしかなかった。
どうも何も、プロなら――プロを目指していた者なら誰もが知っている規定だ。しばらく休憩時間はあるものの、決着をつけるために再び戦うのだ。今さら確認することなど、何もないではないか。
瀬田と目が合った。うっすらと笑っていた。
ああ、余裕だな。自分は今、そんなにも疲弊しきり、ひどい顔をしているのか。こんな状態で指し直し局になっても、すでに勝負は見えているだろう――。
ほどなく、対局室に立会人が入ってきた。手にペーパーを持って。対局ルールが書かれたものだろう。彼は正座すると、大熊と瀬田の双方を見渡してから、それを読み上げた。
「ええと――十六時までに千日手が成立した場合、三十分休憩を入れたあとに先手・後手を入れ換えて指し直しをする。その場合、指し直し局の持ち時間は残りが一時間を切っている場合は同じ時間を両者に加えて少ないほうを残り一時間とする」
大熊はどっぷりと息をついた。やはり確認するまでもない。馴染みのある千日手規定そのままだ。
――そのまま? いや、何か違和感が。
立会人が咳払いをした。しっかりと言い聞かせるように――人間同士ではあり得ないその規定を伝える。
「十六時以降に成立した場合は引き分けとして、指し直しは行わない」