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絶望しかない過酷な現実を、映画は救わない
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絶望しかない過酷な現実を、映画は救わない

2012-10-09 12:10

     超話題になっている園子温監督の最新作『希望の国』を試写で観た。テーマは福島第一原発事故だ。

     この映画を「
    反原発の映画」と見る人もいるだろう。あるいは媒体資料では「社会派エンタテインメントの傑作が誕生」などと書いてある。でも私はどちらの表現もピンと来なかった。この映画は実に終末的な暗示に満ちていて、もっとも適したことばを探すとすれば、黙示録だ。本作は、救いのない日本の黙示録である。

     設定は、東日本大震災から数年後の「長島県」。ここで再び大地震が起き、原発が破壊され、メルトダウンする。福島をモチーフにしたのが明白な設定だ。

     お話は、三組のカップルを中心にして展開していく。まず夏八木勲と大谷直子の老夫婦。原発から半径20キロの強制避難区域のすぐ外側にある家で、事故後もひっそりと暮らしている。大谷直子は認知症をわずらっていて記憶が混乱しているが、平穏な生活だ。

     二つ目のカップルは、老夫婦の息子(村上淳)と妻(神楽坂恵)。夫婦は両親に説得されて、少し遠くの町へと移住する。移住した直後、妻が妊娠していることがわかり、そして子供への心配からじょじょに放射能への恐怖をつのらせて、異様な防護服姿で買い物や病院に出かけるようになる。

     三組目は、夏八木夫婦の隣家の息子(清水優)とその彼女(梶原ひかり)。強制避難区域のすぐ内側に位置していたため家を出ることを余儀なくされる。となりの家なのに、その僅かな空間に杭が打たれてフェンスが作られ、避難区域とそうでない区域に分けられてしまったのだ。両親とともに二人は避難所で過ごす。消息がつかめない梶原ひかりの家族を探すため、二人はガレキに埋もれた海岸の道を歩く。

     どの登場人物も、東日本大震災という途方もない現実の中でこの1年間、報道やインターネット、さらには現地での体験などを通じて、私たちが見聞きしてきたのと同じリアリティを持っている。だからこの三組のカップルのお話はとてもリアルで、映画的な空想の入る余地はないように思える。

     でもそこで登場人物たちが語り出す言葉の数々、そして映画の中で描かれている象徴的な映像が、黙示録的なイメージを観ている側に押し出してくる。このイメージの奔流が強烈で、観ている間になんども私は茫然と打ちのめされてしまった。

     たとえば物語の後半、メルトダウンで強制退避命令が出て、家から出るよう夏八木勲が繰り返し町役場から説得されるシーン。首を縦に振らない夏八木勲に、苛立った若い職員は思わず声を荒げてしまう。「郷土愛ならオレだっていっぱい持ってたよ。でも動かなきゃ」。夏八木は答える。「郷土愛なんかじゃねえ。そんなキレイなもんじゃねえ」

     そうして彼は、庭に立つ大きなハナミズキの木を指して言う。「オレが妻と結婚したとき、植えた木だ。みんな生きている。生きているんだぞ、ここで」。認知症の妻はほがらかに「そうだよ」と相づちをうつ。

    「これは、かけがえのないオレとこいつと小野家の財産よ。これは動かせねえ。墓より大事だ」
    「良い思い出ってか」
    「そんな小さなもんじゃねえ。シルシよ、シルシ。オレたちが生きてきたっていう刻印だ。それを捨ててまでどこかへ行きたいと思えないんだ」

     帰る場所はここしかない、と夏八木勲は憤然と宣言するのだ。しかし認知症の妻大谷直子は、実はそう思っていない。妻は物語が進んでいく中で、何度も何度も夫に言う。「ねえ、帰ろうよ」「なあ、みんなで帰ろう、帰ろう」「お父さん、うちに帰ろう」

     木はいまもすくっと庭に立っている。でも同じように昔植えられた「オレのじいさんの木」や「オレのオヤジの木」は、避難区域の内側に位置していて、フェンスの向こうでもう立ち入ることさえできない。夏八木勲の家のシルシは、半分以上が放射能に汚されてしまっているのだ。

     このシーンを観ていて、私はロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーの遺作『サクリファイス』を思いだした。核戦争勃発をテーマにしたたいへん寓話性の強い映画。まったく偶然だが、チェルノブイリ原発事故が起きた直後に公開されている。そしてその年の終わりのカンヌ映画祭で絶賛され、前代未聞の四賞独占を成し遂げた。タルコフスキーはこの年の暮れに54歳で亡くなっている。

     とはいえ長くて暗くて、おまけにスリリングなシーンもアクションもないので、たぶんこの映画を退屈に思う人は多いだろう。まあタルコフスキーの映画って、『惑星ソラリス』とか一部を除けばそういう作品が大半だ。

    『サクリファイス』は、北欧の静かな海岸沿いにある別荘の一軒家が舞台になっている。海辺に、枯れ果てた細い松の木を植える父親アレクサンドルと、口の利けない小さな息子。父親は、「昔々、師の命を守って三年にわたって若い僧が水をやりを続けたら、とうとう枯木が甦って花を咲かせた」という奇跡の伝説を息子に語る。その伝説に従って、自分の誕生日に「生命の木」を植えているのだ。

     この生命の木は、陸前高田の「奇跡の一本松」にかたちが本当にそっくりだ。26年前の映画なのに、である。私はこの原稿を書くために『サクリファイス』のDVDを十数年ぶりぐらいに再見し、その奇妙な一致にとても驚いた。おまけに主人公のアレクサンドルは「日本かぶれ」という設定で、奇妙な和風の着物みたいなのを着ていて、JVCのオーディオセットで海童道宗祖の尺八のカセットを聴いたりしている(ちょっとこのあたりは観ていて恥ずかしい)。

     そしてこの生命の木は、そのまま『希望の国』のハナミズキにつながっているように思える。なぜならどちらの映画でも、放射能の恐怖に対置される生命の暗喩になっているからだ。

    『サクリファイス』のストーリーはその後、急反転する。テレビで首相が「核戦争が起きた」と伝え、直後に電波も電話も電気も途絶えてしまうのだ。画面はモノクロームに変わる。不安と恐怖にさいなまれる家族。アレクサンドルは「私の持てるものすべてを犠牲にささげますから、愛する人々を救ってください、家も、家族も、子供も、言葉も、すベてを捨てます」と神に誓う。力尽きてソファに倒れこみ、そのまま眠り込んでしまう。

     夢の続きかどうかわからない。旧友が自転車でやってきて、「おまえの家の召使いのマリアは魔女だ。彼女の家にいって彼女を愛せ。まだ最後の望みはある」と伝え、自転車で行けと命じる。アレクサンドルは家族に知られないように、こっそり二階の自室からハシゴを伝って外に忍び出て、深夜の道をマリアの家に急ぐ。マリアと対話するアレクサンドル。そして彼を拒絶しようとしたマリアの前で、アレクサンドルは跪いて自分のこめかみにピストルを向けて「救ってください」と言う。そうして抱き合う二人。

     そして再びシーンは切り替わり、画面はフルカラーに戻っている。目覚めると朝の光があふれていて、平静な世界が取り戻されていた。神との契約を守るため、アレクサンドルはみずからを犠牲(サクリファイス)とする儀式を始めなければならない。そして燃え上がる海辺の家......。

     この家が燃え上がるラストシーンも、『希望の国』の終わりに近いシーンにそのまま引き継がれている。これ以上書くとだんだんネタバレになってきてしまうので難しいが、『サクリファイス』と『希望の国』ではその描かれ方がまったく異なっているように見える。なぜなら『サクリファイス』における家の崩壊は、世界を救うための犠牲だったからだ。だからそこには救いがある。しかし『希望の国』には、何の救いもない。ただ絶望的な崩壊としてだけそこに表現されている。それは東日本大震災と福島第一原発事故が引き起こした厄災が、私たち日本人に何の救いもない絶望としてそこに存在しているのとまったく同じだ。リアルなこの世界では、神による救いなんて存在しないし、そこに崇高な犠牲も生まれない。ただひたすら、リアルな絶望だけが進行していく。

     いまの日本を覆う絶望とやるせなさは、あまりにもリアルすぎて、映画による救済は不可能に思える。『希望の国』のラストシーンは、まるで夢のように美しい海辺の光景を映し出し、神楽坂恵の演じる妊婦は柔らかで満ち足りた笑顔を見せ、「大丈夫よ」とささやく。でもそういう夢幻的な映像のすぐそばでは、もっと恐ろしいリアルの事態が進行していることを、映画は観客に見せつける。夢見るようなファンタジーでは、このリアルを救えないということをこのラストシーンは象徴しているように見える。

     認知症の大谷直子はくりかえし、くりかえし「帰りましょうよ」と夫に言う。それはたぶん「昔に帰りたい」っていう意味なのだと思う。でももう懐かしくておだやかで平和な日本には、誰も戻れない。そしていまの冷酷で厳しいリアルを、誰かの犠牲や神の恩寵や、さらにはファンタジーの夢でさえも、救うことはできないのだ。奇跡はないし、幻想もない。そういう時代に私たちは生きているのだ。

     これは放射能恐怖の話に限定しているのではない(私はいまの福島原発の放射線問題を逃れられない恐怖とは考えていない。念のため)。放射能はその象徴であり、引き金にすぎない。放射能問題が引き起こした日本国内の深刻な分断。そしてグローバリゼーションと階層化社会の到来、先行きのない未来......。さまざまな冷酷な現実が目の前に立ちはだかり、もう私たちはかつての「なんとなくみんな一緒だよね」的な社会には二度と戻ることはできない。

     清水優と梶原ひかりの若いカップルは、津波被災地のガレキの中を「一歩、一歩、一歩」と歩いて行く。とにかくそうやってどこかに向かって歩いて行くしかないのだ。でもどこに向かっているのかは、実のところだれにもわからないのだ。

     映画はこういうリアルを、何も救ってくれない。ただ『希望の国』はこの冷酷な空気感みたいなものを、痛いほどに眼前に見せつけてくれる。そういう冷酷さを持っている。この黙示録みたいな作品は、きっと何十年か何百年か先にまで、2011年に私たちが抱いた感覚を届けていくんじゃないかと感じた。

     本当にすごい映画。私はノックアウトされた。

    ※上記は10月1日(月曜日)配信のメールマガジン「未来地図レポート」213号から、「未来地図レビュー」として掲載した記事の全文です。

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