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村上和巳【我、百文の一山なれど】vol.1「故郷を捨て、故郷に帰る〜はじめましてのご挨拶」
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村上和巳【我、百文の一山なれど】vol.1「故郷を捨て、故郷に帰る〜はじめましてのご挨拶」

2012-10-27 16:41


    石のスープ
    定期号[2012年10月27日号/通巻No.52]

    今号の執筆担当:村上和巳



     皆さん初めまして。今回、「石のスープ」のレギュラーメンバーとして執筆陣の一人に加わったフリージャーナリストの村上和巳と申します。今回、初参加ということで自己紹介をさせていただきます。
     
      そもそも今回私が新たに「石のスープ」に参加したのは、このメルマガが東日本大震災をメインテーマに据えることに起因しています。そこでなぜ私が東日本大 震災を取材しているかを説明しなければなりませんが、私の場合、そのためには自分の出自にまで遡らねばならず、必然的にかなりの長文になります。多少読者 の皆様を退屈させてしまうことは覚悟の上ですが、ここは少々辛抱していただき、最後までお付き合い願いたいと思っております。

    ■私の誕生を誰よりも喜んだ祖父

      私は昭和44年11月14日、宮城県亘理町の産院で生まれ、もうじき43歳。だが、そもそも私は生まれたことが奇跡の存在だった。母が妊娠初期に流産の危 機に見舞われたからだ。当時は今ほど流産を阻止する治療法がないうえ産婦人科の主治医は母に対し次のように言い放ったという。

    「人工的な流産阻止ができても、生まれてきた命はその後の生存競争で勝ち残れないだろう。だから、流産阻止の対応はしない。その代わり母体の体力増進のためのビタミン注射をする。それで生まれてきたならば幸運と思うように」

      一見すると優性思想にも思えるこの考えは、今ならば確実に問題視されるだろうが、当時の医師は「お医者様」と今以上に崇められた時代。これに加え特殊事情 もあった。非情な方針を告げた産婦人科医は、私の父方の祖父だった。そして祖父の見立ては、出産には至らぬだろうと言うものだったらしい。
     私の 母子手帳に記載された出生時体重はピッタリ「3000g」。もちろん実際には、そんなキリのいい数字ではなかった。正確には2000g台の後半だったとの こと。ところが体重計測中、細かいメモリを読むことが面倒になったらしい祖父が「おまけだ!」といって3000gになった。当時の祖父は70歳。長時間の 出産に立ち会う産婦人科医としての体力を有する年齢ではなかった。実際、祖父は私を取り上げた日を最後に現役の産婦人科医を引退した。

     ただ、私が出生をことのほか喜んだのは、他ならぬ祖父だったとも聞いている。それは男孫だったからのようだ。いずれ詳しく触れることもあると思うが、父方は祖父で13代目の医師家系。当然、祖父には代を継いでいきたいという気持ちがあったのだろう。
     祖父の子供は4男3女で私の父は次男。当時、私の叔父である長男が医師を継いでいた。長男に息子が生まれれば、順当に代を継いで行ける。
     ちなみに古臭いと言われようが旧家ほど後継者は男系男子という風習がある。私が出生前に父方の男兄弟に息子は1人もおらず、祖父の喜びとは、これでとりあえず家名断絶はなくなると思ったものらしい。
     もっとも出生時、私の手首の太さは大人の親指ぐらいしかなく、口の悪い親戚の中には「お祝い前に葬式かもな」と言った人もいたらしい。しかし、周囲の予想に反し、それから40年以上、私は生存している。

     私が生まれた翌年、叔父である長男に待望の男の子が生まれたが、不幸にも彼は生後1週間で亡くなった。結局、祖父の孫13人中、成人を迎えたのは12人。
     父は母の村上家に婿入りして性は変わっていたが、祖父の家系で私はただ一人の男系男子だった。実際、高校3年の時、私は祖母から呼び出され。「おじいじちゃんがいずれお前に注射を打ってもらいたいと言っている」と告げられたこともあるが、私はそれに何も答えなかった。
      それから3年後、祖父はトイレの中で倒れ、病院に運び込まれ入院したが、そのまま回復することなくこの世を去った。父方では絶対的なカリスマだった祖父の 病室には次々に孫が見舞いに訪れた。総勢11人。ただ、1人生前の祖父の枕元に間に合わなかったのはほかならぬ私だった。

    ■村上写真屋の息子は「風小僧」

     私が生まれた亘理町は宮城県南部の沿岸部に位置し、県庁所在地の仙台市までは電車で30分強の人口約3万3000人の町。町村レベルでは比較的人口は多い方だが(全国第45位)、私の小学校時代は3万人弱だった。
     江戸時代は仙台藩の亘理伊達家の所領。かつてNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」で、俳優・三浦友和が政宗の腹心として活躍した猛将・伊達成実を演じたが、その成実が亘理伊達家の初代である。
     ちなみにドラマ内では、常に武断派として強硬策を唱える成実に対して「さにあらず」と異論を唱えていたのが、西郷輝彦扮する政宗の軍師的存在の知将・片倉景綱。前述した父方の祖父の先祖は代々、この片倉家に仕えてきた。

     さて亘理町についての私の端的な表現は、町村レベルでは商店街がやや大きめで、海も山もある風光明媚な場所となる。こう言えば聞こえはいいが、子供の頃の自分にとっては退屈な場所だった。
      幼い頃から本の虫だった自分にとって最大の苦痛が、自分の読書欲を満たす書店がなかったこと。読みたい本を手に入れるには、町の書店に注文していつ届くか わからないまま待つか、仙台まで電車に乗って買いに行くかだ。趣味だった切手収集の切手店も仙台にしかない。その不便さは耐え難きものだった。

     そして地方在住歴がある人ならばわかるが、人口3万人の町といえども互いに顔見知りは多く、悪く言えば「衆人環視」である。私の場合、実家が最寄りのJR常磐線・亘理駅前で写真屋をやっていたから、人よりも目立ちやすい。
     しかも、生来、わがままで変わり者で、かつ悪戯坊主。おむつが取れない歩き始めから、家を「脱走」することもしばしば。母はその度に店のシャッターを閉めて、私を探し回ったという。
     三輪車に乗れるようになると、私の行動半径は一気に広がり、徒歩で探索する母の手には負えなくなった。この時、母の強力な味方は隣にあるタクシー会社。無線を駆使して配車を担当していたタクシー会社の社長夫人は、母が駆け込むたびに無線を握ってこう叫んだという。
    「隣の和巳、見ませんでしたか?どうぞ」
      5台ほどのタクシーが常に巡回している狭い町では、これをやられるとほぼ確実に捕捉された。結果、半開きにしたトランクに三輪車を詰められ、幼少の私はタ クシーの助手席に堂々と「無賃乗車」して連れ帰られることになった。当時タクシーの運転手たちからつけられたあだ名が「風小僧」。もっともそんな風に言わ れるのはまだマシな方で、「村上写真屋の息子が……」と陰口を叩かれることもあった。

     小さな町で商売をやっていると、家人一人の評判す らも売上に影響しかねず、両親の苦労は並大抵のものではなかったろう。実際、小学校の頃は、売られた喧嘩を買っただけなのに両親から相手の家に謝りに行く よう言われたことさえあった。小学校高学年頃には、世間の狭い亘理町は私にとって単なる嫌悪の対象でしかなかった。
     だが、中学校になったら仙台 の学校に行くということに若干の希望をつないでいた。これは1つ理由がある。4歳年上の姉が亘理町の中学に行かず、仙台市内でも有数の進学実績を誇る公立 中学に通ったからだ。公立中学は今と違って当時は厳格な学区制。姉は母方の祖母が仙台に借りたアパートに住民票を移し、中学3年間をそこで過ごした。実家 には週末だけ帰ってきた。

     ところが小学校6年生になったある日、私が両親に自分は仙台の中学に行くんだねと確認した途端、両親は黙り込んでしまった。
     後から知ったのだが、姉が仙台の中学に越境入学をしたことに町の教育界の重鎮だった姉の小学校の担任・M先生は非常に不快感を示したという。このため姉の越境入学時、両親はM先生との間で「弟は地元の中学に行かせる」との口約束を交わしていたのだ。
     狭い地域社会では口約束の反故でも、時には自分たちを追い詰める決定打になりかねない。困った両親は私の担任・S先生に相談したが、あっさりこう言い渡されたという。
    「和巳くんは別の意味で特殊学級ですから、仙台の中学に行かせなさい」
    (特殊学級とは、いわば知的障害などを持つ子供たちを受け入れる現在の特別支援学級である。ただし、S先生はそうした子供たちに侮蔑的な意味でこの表現を使ったわけではないことを、念のためお断りしておく)

     こうして私は仙台の中学に進学し、週末だけ実家で過ごした。だが、このことは同時に亘理町を捨てたことを意味した。実際、実家に帰っても小学校時代の同級生とはほとんど接触はなくなった。
     仙台の公立高校に進学すると、学区制の壁が外れたため、実家に戻って通学したが、亘理町と自分の間にできた壁は如何ともし難かった。
     そして高校時代には仙台市ですら世間が狭いと感じた私は東京の私大に進学。宮城県も捨て、はや四半世紀になろうとしている。

    ■白河以北一山百文

     だが、自分に宮城県人、あるいは東北人の自覚がなかったわけではない。
      一番最初にそれを感じたのは、小学校の修学旅行で会津若松に行った時だ。戊辰戦争ゆかりの会津鶴ヶ城や新政府軍と戦った少年部隊・白虎隊の自刃の地・飯盛 山などを巡った私は、先祖が属した仙台藩が彼ら会津藩とともに新政府軍と戦い、後の明治新政府時代に徹底的な冷遇を受けたことを初めて知った。

     同じ頃、地元で見慣れていた地方紙「河北新報」の新聞名の由来が「白河以北一山百文」という東北蔑視を起源にしていることも教わった。
    (編 集部註:「白河以北一山百文(しらかわ・いほく・ひとやま・ひゃくもん)」というのは、奥州の玄関口である白河の関所〈現在の福島県南部〉より北の地域 は、1山で100文の価値しかない荒れ地ばかり、という意味。100文というのは1両の4分の1なので、仮に1両を10万円とすると、一つの山が2万 5000円で買えてしまう事になる)
     そして小学校時代に見た学園ドラマなどではドンくさい転校生が東北訛りをしゃべるというシーンをよく目にした。なぜ自分たちはそこまで馬鹿にされなければならないのか?沸々と怒りが湧いてきたこともあった。

     小学校6年のある日、私が校内の焼却炉に教室のゴミを捨てに行った時、前年に着任したばかりのO校長先生に声をかけられた。
    「君は6年生の村上くんだな。君は大きくなったら何になりたい?」
     私は何も言えず戸惑っていた。
    「大きくなったら何をしてみたい?」
     繰り返し尋ねるO校長先生に対し、私はとっさに次のように答えてしまった。
    「10万の軍勢を率いて、白河の関から西側に攻め込みたいです」
     ポカン口を開けたO校長先生を見て「しまった」と思ったが、先生は「元気でよろしい」と大声で笑いながら言ってくれた。だが、実はこのO校長先生こそ「トンデモ」な人だった。

     それからひと月ほど経った日の放課後、理科室の前ですれ違ったO校長先生は、「ちょっと来なさい」と目の前の理科室の扉を開けた。前回のことを叱るつもりなのだろうと思った。
     理科室に入ると、O校長先生は突然チョークを握り、一筆書きで黒板に日本地図を書き、宮城県の位置に小さな丸を書くと次のように言い放った。
    「ここが出発点。さあ、君はどうやって10万の軍勢で東北より西を征服する?」
     今度は自分があっけにとられる番だった。卒業までにO校長先生による「西日本征服秘密講義」は数回に及んだ。

     長くなるのでここではその全てを紹介はしない。ただ、一番印象に残っているのは、宮城県を起点に10万人の軍勢を現在の福島県の中通り、浜通りと会津地方を経て日本海側へと3ルートで進撃させると私がありきたりの説明をしたとき、O校長先生は日本
    海側へのルートにバツ印をつけて首を横に振った。
    「日本海側の新潟周辺はかつて越後と言われた場所だ。この地域の人は非常に誇り高い。
    少々の軍勢を進めても彼らにやられるだけ。だからそちらには軍勢は向けずに残りの2ルートに集中するべき」
     腑に落ちないでいる私に先生は続けた。
    「日本海側へは君が1人で向かいなさい。そしてなぜ西に軍勢を進めるか、根気よく説明する。もしそこで殺されれば、君は所詮その程度の人間。だが、彼らが君の理屈を理解すれば、黙っていてもさらに10万の軍勢が味方につく」
     O校長先生の話はどこまでが本気だったのだろう。だが、新幹線で白河周辺を通過するとき、いまでも思い出すのはこの時のやりとりだ。

    ■海外の一人旅を続け、メディアの世界に入る決心

     さて話を戻そう。大学入学後、私が学業そっちのけで夢中になったものがある。海外一人旅だ。塾講師のバイト料の殆どをつぎ込み、夏と春には大きなバックパックを背負って出かけた。
      中学、高校と教科書で東西冷戦を叩き込まれ、大学時代にはその世界観が崩壊する激変を目の当たりにしたからこそ、日本の外に足を伸ばしたいと思ったのだ。 訪問地域の中には、東欧の旧共産圏各国や北朝鮮、中東といった普通の大学生が行くには「怪しすぎる国」も含まれていた。

     だが、学業成績は毎年ようやく進級できるレベル。専攻だった理工学部土木工学科の授業には入学して1年も経たぬうちに興味を失っていた。逆に言えば、だからこそ旅行に熱中していたとも言える。
     また、間が悪かったのは在学中に世に言う「ゼネコン汚職事件」が発生し、時の建設相をはじめ、地元の宮城県知事、仙台市長が相次いで逮捕された。もはや土木工学科学生の一般的就職先であるゼネコンや土木コンサルタント会社への就職など全く考えなくなった。

     そこで文系就職をしようと決めたが、当時はバブル崩壊後の就職氷河期。中堅大学以上の文系学生ですら、内定がもらい難い時期に理系からの文系就職など暴挙とも言えた。しかもこれといって就職したい業種もない。
     とりあえず旅行つながりで旅行業界での就職活動を始めた矢先、高校時代からの友人に「メディアの世界が向いているんじゃないのか」とアドバイスされた。

     世界的な変動期にメディア業界も悪くないだろうと思ったものの既に時遅し。テレビや新聞は新卒募集が終了しており、わずかな大手出版社しか応募できるところはなかった。
     その僅かな会社の入社試験にもことごとく落ち続けた。夏以降は新卒募集の出版社はほぼなく、就職情報誌のメディア関係のページをのぞきながら「新卒可」という文言を見つけては応募した。結局、就職が決まったのは、卒業間近の3月半ばだった。

    ■会社の仕事に忙殺される毎日が続き、フリージャーナリストへ転身

     就職したのは医療業界紙の記者職。入社した会社は日刊、週刊、隔週刊、月刊など様々な新聞、雑誌を発刊していた。
      一般的な業界紙は、紙面は提灯記事のオンパレードで収益の柱はお付き合いの広告。ところが私が就職した会社は業界に厳しい記事も普通に掲載され、逆にそれ ゆえに読者を獲得していた。時に記事内容に激怒した企業が広告出稿を停止することすらあった。かくいう私も自分が書いた記事で広告を止められ、同期の営業 担当者に渋い顔をされたこともある。
     編集部内は企業からの広告停止を覚悟している故に、要求する取材・執筆レベルも厳しく、仕事は緊張感に満ちていた。

     一方、社風そのものはおおらかだったこともあり、学生時代そのままの流れを受け、年に1、2回、2週間ほどの長期休暇を取り、海外に出かけていた。
     そもそも大学時時代の海外渡航も4年次頃には内戦が続いていた旧ユーゴスラビアにまで広がっており、その後の渡航地も同地を中心とする紛争地へとシフトしていった。
      そして会社員時代に取材した旧ユーゴスラビア・コソボ自治州での民族紛争について記事掲載されたことをきっかけに社外での執筆を行うようになる。その後も インドネシアのスマトラ島にあるアチェ特別州で展開されていた地元武装勢力の独立運動を取材し、ジャングル内で武装勢力の最高司令官にインタビューし、そ の記事を執筆したりもした。

     年齢、経験が増していくにつれ、社内の仕事量も増加した。99年以降、私は会社内で日刊紙の医薬品卸売業界担当記者だった。当時、医薬品卸売業界は環境変化で全体的に経営が悪化し、大手業者による中小業者の吸収合併や子会社化が相次いでいた。
      入社当時、日本医薬品卸売業連合会の加盟会社は277社だったが現在は92社。それだけ業界再編が進んだということだ。私がこの業界を担当したのはまさに 再編が活発化し始めた時期で、合併や業務提携の発表が月3件超ということも稀ではなかった。「本業」もエキサイティングだった。
     しかし、平日昼間は会社の取材執筆、平日帰宅後と休日は外部の執筆という状況は、当時30歳そこそこの若さの私でもキャパシティの限界に近づき始めていた。

     かくして2001年1月、紛争地取材やそれに関連する安全保障、国際情勢関連の執筆を中心とするフリージャーナリストとして生きようと思い、会社を辞めた。
     退社当時、国際情勢の大局としてホットな紛争地もなかったが、フリーになったことを知った編集者などからいくつか仕事の依頼を受けたこともあり、それをこなしながら時期を待とうと考えた。

     そんな矢先に世界を揺るがす9.11米同時多発テロが発生。未曾有の事態にメディア業界も事件関連のニュース一色。アメリカは事件の首謀者であるオサマ・ビン・ラディンを匿うアフガニスタンのタリバン政権との対立が先鋭化し、開戦間近となった。
      当時のアフガニスタンは、国土の1割程度をタリバンと対立する反政府勢力「北部同盟」が支配し、アメリカと連携を強化していた。開戦すれば、北部同盟が地 上戦闘の先陣役になることは火を見るより明らか。北部同盟支配地域とアフガニスタンに隣接するパキスタンには、世界中のメディアが殺到した。

     かくいう私も北部同盟支配地域に入るべく、当時その窓口だった在ロンドンのアフガニスタン大使館との接触を始めていたが、その最中、一本の電話がかかってきた。紛争モノの執筆を始めてから面識を得ていたフリージャーナリストの黒井文太郎氏からだった。
     9.11テロ以前から国際テロ情勢関連の執筆が多かった黒井氏のもとには当時、執筆依頼などが殺到していた。黒井氏の話は、そうしたテロ関連の緊急出版本の分担執筆をやらないかというお誘いだった。正直迷った。そんな私に黒井氏はこう言った。
    「いまアフガニスタンやパキスタンに行っても、戦場ジャーナリストを名乗る日本人だけで100人以上。そこに乗り込んでいったって埋没するだけだよ」
     黒井氏にうまく丸め込まれた感もないわけではないが、この一言で私はアフガニスタン行きをやめ、黒井氏を中心とするテロ関連本の執筆を行い、共著本を何冊か執筆した。
     出版業界の9.11フィーバーは02年初まで続き、その後ようやく私は東ティモールやイラクなどへの海外取材に出かけられるようになった。

    ■イラク邦人人質事件のなかで起こった地元の誤解

     上京後からフリーになるまでの10年超。私は両親とコンタクトは取り続けていたが、あまり帰省はしなかった。
     大学時代は年に1回程度、会社員時代には年3、4回は増えたが、それもほぼ宮城県方面への出張のついでで、実家滞在時間が数時間ということも多かった。
     身の回りが忙しい、めんどくさい、田舎は退屈というのが主な理由だったが、いま考えれば大学卒業間近に実家を建て直したことも影響していただろう。
     建て直しは両親の意思ではなく、亘理町主導によるJR亘理駅前広場の再開発に伴い、実家の敷地の一部が町に収用されたからだ。真新しくなっても、照明のスイッチの場所すらわからなくなってしまった実家に、「我が家」という気安さはなくなっていた。

      ところがフリー転身後は祖母の死などもあって以前よりは帰省回数は増える。03年のイラク取材について、翌04年2月に亘理町地域婦人団体連絡協議会から の講演依頼で帰ったこともある。疎遠になっていた亘理町との距離は徐々に縮まりつつあったのかもしれないが、あることをきっかけに再び田舎町の「衆人環 視」を改めて実感することになる。
     前述の亘理町での講演時、地元のTBS系列の東北放送から取材を受け、同社のニュースで放映されたのだが、その後同社の「現代見聞録『しゅん』」という番組内で私を取り上げるため、改めて取材をしたいとの申し出があり、私は了承していた。

     3月末には東京と亘理で取材を受け、その模様は再度ニュース枠で放映された。私は4月にイラクを再訪する予定だったため、放送内ではそのことも紹介されたが、その直後、イラク邦人人質事件が発生した。
      人質事件の被害者の1人・高遠菜穂子さんと私は友人でもあり、イラクでも行動を共にしたこともあったため、東北放送の取材班が急遽再上京した。そこでは高 遠さんのことや私自身のイラク渡航計画に変更はないことなどを話し、直後に同社のニュース枠でこの内容が放映されたのだが、直後から実家には「この時期に イラクへ渡航するなど不謹慎」といった電話が殺到したのだ。直前の放xでは実家が亘理町の写真屋と紹介され、電話帳に店名も番号も記載されているから、こ ちらの特定は容易だ。
     しかも、店舗営業というのは誰でも入ってこれるため、中には店を訪れて名乗りもせずに「お宅の息子のために税金が使われるようなことがないよう必ず伝えなさい」とのたまう、ありがた迷惑な輩まで現れた。同様の被害は親類・縁者にまで広がった。

     当時、周囲が気を使ったためか、こうした話は私には伝えられず、イラクへは予定通り向かった。現地では外国人に反感を持つ集団に銃で追い掛け回されるなどヒヤリする場面もあったが無事帰国。帰国後にようやくその一端を知ることになった。
     帰国後には亘理町と仙台市で最新のイラク情勢報告の講演会も行ったが、私はこの後、再び亘理町から遠ざかることになる。

    ■娘を連れて6年ぶりの帰省

     実家、ひいては亘理町から遠ざかったのは単なる身辺多忙からだった。
     私は03年に結婚、イラク渡航直前には娘も誕生していた。姉夫婦が板橋区にいたものの、それ以外は妻も含め首都圏に両親や親戚はいなかった。この状態で共働き・家事分担で子育てに当たらねばならず、実家に帰省している暇などなかったのだ。

     さらに言えば、子育てに手がかかるようになると、夫婦は子供中心となり、互いに「こちらには迷惑かけないでね」という空気が支配する。
      妻は会社員として安定した収入があり、対するこちらは収入も行動も不安定なフリーの身。次第に妻がこちらに向ける目も厳しくなり、とても娘を連れて帰省し たいと言える雰囲気はなくなった。両親が娘に会うため、頻繁に上京することについつい甘えてしまった部分もある。結局、2010年10月、私は6年ぶりに ようやく小学生となった娘を連れて初めて亘理町に帰省した。

     都会育ちの娘が退屈するのではと危惧したが、意外にも彼女は実家の中で飽きもせずに遊んでいた。この時、娘を亘理町の沿岸部・荒浜地区にも連れて行った。
     仙台の名物駅弁には「鮭はらこめし」というものがある。これは鮭の地引網漁が盛んだった亘理町荒浜地区の漁師が、大漁時に鮭の切り身の煮汁でご飯を炊き、切り身といくらをそのご飯の上にふんだんに盛り付けたもの。江戸時代に伊達政宗に献上したことで知られている。

      また、荒浜地区には鳥の海海水浴場がある。娘はここで生まれて初めて海に足をつけ、はしゃぎながら波打ち際を駆け回った。その日は漁港近くの飲食店で買っ た炭火焼の焼き魚を持ち帰り、夕食では魚の骨が苦手な娘もこれでもかというほど食べてくれた。この時は、これが平和な荒浜を目にする「最後」になると想像 がつくはずもなかった。


    ■地元宮城県を襲った3.11

     2012年3月11日、私は徹夜明けで原稿を仕上げ、事務所にしていた築38年のアパートの部屋で昼ぐらいから仮眠していた。
     通常、睡眠中よはほどのことがない限り目を覚まさない。過去には海外で購入した少数民族伝統のナイフをベッドに放り投げ、それを忘れて眠りにつき、起床時に足が血だらけになっていたことに気付いたというほど鈍感だ。
     だが、あの時だけは違った。揺れはベットごと私の体を揺すった。Tシャツとトランクスのまま起き上がり、ベッドの端に腰掛けたものの、バランスが保てない。
     隣接するデスクがある部屋で「ドーン」と鈍い音も聞こえた。駆けつけるとプリンターが仕事机から落下していた。揺れの時間は長く、老朽化した木造アパート内では立っているのがやっとだった。

     揺れが収まるとテレビをつけた。宮城県沖が震源であることはその時点で知ったはずだが覚えていない。一番鮮烈な記憶はお台場のビル屋上の火災映像だった。
     午後3時近くという時間を知って、ハッとした。娘が下校し、学童クラブに向かっている時間だ。学童クラブに電話をしたが繋がらない。事務所から学童クラブまでは自転車で約10分。私は自転車に飛び乗った。

     途中の沿道では、あちこちで余震に怯えた人たちが表に集まっており、中には慌てて飛び出して閉め忘れたらしい個人宅の扉が余震でバタンバタンと揺れていた。
     学童クラブに到着すると、「おとうさーん」と手を振る娘の姿が目に入った。「わざわざ来ていただいてすみません」と言うクラブの指導員に通常通り午後6時に迎えに来る旨を伝えた。
      実は前述したフリーになりたての頃、私は宝島社より出版された日本国内の地震危険地帯を取り上げたムック「大地震で壊れる町、壊れない町」を丸一冊執筆し ていた。その関係で以後は大地震が起こると、週刊誌からコメントを求められることも少なくなかった。学童クラブにも娘にも異常はなかったので、この事態で 発生する地震関連の仕事に備え、6時まで時間の余裕を作ろうとしたのだ。

     学童クラブ近くの自宅マンション内はモノ1つ落ちておらず、いつもと何も変わらなかった。ここで初めて妻の職場に電話をしたが、やはり繋がらない。
     自宅のテレビをつけると、東北地方太平洋沿岸が点滅している津波警報の地図が表示されていた。ここでようやく実家のことが頭に浮かぶが、父母双方の携帯も自宅も当然ながら不通だった。今度は板橋区に住む姉に電話をするもこちらダメ。
     そうこうしているうちに電話にいつの間にか着信履歴が表示される。旧知の週刊誌編集者だ。すぐに折り返すがこれも繋がらず。
     再び自宅を出ると、目の前を空車のタクシーが通り過ぎた。テレビでは都内のほとんどの電車が運休と報じていた。私は妻の携帯にメールを送信した。
    「こちらではタクシーがまだ捕まる。それに乗ってこちらから迎えに行き、折り返せると思うので、必要ならば至急返信するよう」
     そんな内容だったと思う。妻からはこのメールが数時間後に届いたと後に聞かされた。

     このあとはたまたま私の夕食当番日だったこともあり、テレビもつけずに支度にとりかかった。合間に何度か実家と姉への連絡を試みたが、やはり不通。その後は妻が帰宅でき次第、なるべく早く姉の家に向かうべくシャワーを浴びた。
     6時に学童クラブに娘を迎えに行き、帰宅すると既に妻は戻っていた。地震直後に職場から帰宅指示があり、その時点で徒歩で自宅に向かったとのこと。実家のことを尋ねられるも連絡が取れないと話すしかなかった。

     家族全員が揃ったところでリビングのテレビをつけた。映る映像は、岩手、宮城沿岸に押し寄せる大津波、さらに東京電力・福島第一原発の全交流電源喪失というニュース。
      実家は海岸から約4km、福島第一原発から直線で約80km。さすがに津波に襲われることはないだろうが、尋常でない揺れと連絡不通が相まって、「両親の どちらかが死んでいてもおかしくないだろう」と覚悟した。板橋区の姉夫婦にもやはり電話はつながらない。急いで食事と後片付けを済ませ、私は自転車で約 25分の姉夫婦のマンションに向かった。
     裏道を飛ばしていくが、どこもかしこも沿道は徒歩で家路を急ぐ帰宅難民で溢れんばかり。自転車も車道の真ん中を走らないと進めなかった。

     ようやくたどり着いた姉の家のインターホンを押すと、中から出てきた姉が「今、実家に電話がつながっている」という。慌てて室内に入り受話器を取ると母親の声がした。
    「いやー、本当にすごかった。今回ばかりは死ぬかと思った」
      既に現地は停電・断水状態だという。もっと事細かに話を聞けば良かったかもしれないが、無事確認で一旦は満足してしまう。この分ならば明日以降、何回か電 話をかければつながるだろうと考えたが甘かった。翌日から発災6日目まで実家の両親とは全く連絡が取れなくなってしまったのだ。しかも、この間、福島第一 原発では1号機、3号機、4号機が相次いで水素爆発を起こしていた。

     発災6日目ようやくつながった電話で、両親に北上するか、山形を経由して日本海回りで東京に来るか、いずれかの方法で避難するように伝えた。
     だが、ガソリン不足でとても移動できないという。商店も営業しておらず、断水などは続いていたが、ガスがプロパンなので蓄えていた食料の調理は可能。近所同士で食べ物を融通し合っていることも教えてくれた。
     電話を切る直前、父が絞り出すような声で呟いた。
    「今日で野菜もなくなるわ」
     両親にひもじい思いをさせ、何もできずじまいの40歳過ぎの自分が情けなかった。

    ■発災から2週間で向かった故郷

     発災以降、私は何をしていたのか?
     まず、津波と原発事故を受け、雑誌各社は現地からの報道とともに次はどこが危ないかという内容に軸足を置いていた。私はそうした記事の執筆やコメント取材を受けていた。

     一方で日常生活では予想もしない困難が起きていた。原発事故により都内で食品や日用品の買い占め現象が発生したからだ。
     この結果、スーパー1か所で夕食支度の買い物が済ませられず、5時半に退社して帰宅する妻では対応が不可能になった。炊事は連日、私の担当になり、午後2時には仕事を中断してスーパーをハシゴした。
     両親とは発災6日目以降、毎日連絡が取れるようになり、実家も光熱関係は改善されていることはわかったが、正常にはまだ程遠かった。親の様子もこの目で確認したいし、取材もしたい。
     ところがペーパードライバーで車も持っていない自分は現地に向えない。さらに足があったとしても、この時期は諸事情がそれを許さなかった。妻の仕事は毎年3月半ばから4月上旬までは残業続きの時期になる。とても私が家を空けられる状況ではない。
      毎日の家事負担、虚実入り混じる放射能情報、現地入りできない諸事情から、私は妻に春休みの間だけ、娘を東海地方にある妻の実家で預かってもらおうと提案 してみた。そうすればほぼ全ての問題が解決する。ところが「こんな時こそ家族はバラバラになるべきではない」という義母の意見で提案は現実とはならなかっ た。私のフラストレーションは爆発寸前だった。

     発災から10日ほど経った頃だったろうか、突然妻が私に帰省してもいいと言い出した。間 もなく娘は春休みに入り、朝から終日学童保育となる。給食はなくなり、毎日弁当持参になる。残業が続く妻にとっては1人で娘の面倒を見て、なおかつ弁当作 りまでしなければならないことが、どれだけ大きな負担になるのかは容易に想像がついた。彼女はできないはずの譲歩をしているのだった。
     私は妻に何度も礼をいい、早速帰省の準備にとりかかった。まず、深夜バスチケットを予約し、仙台から亘理までの交通手段も調べた。仙台市南郊のJR東北本線・長町駅からバスが出ていることはわかった。
     両親には何か必要なものがないか尋ねた。母は「ソーセージやベーコンが食べたい」という。早速、手持ち可能な量のソーセージとベーコン、保冷剤を入手して梱包した。もちろんカメラも持った。こうして発災から2週間後、私は亘理町に向かった。

      東北自動車道を北上する深夜バスは、まさに白河を過ぎたあたりから震災による段差などで道路状況が悪くなり、車内はガタガタに揺れた。午前5時すぎ、仙台 市の歓楽街・国分町近くに到着したバスから降りた私はとりあえず仙台駅方向に歩き始めた。3月の町はまだ薄暗かったが、それ以上に何かが異様だった。
     理由はすぐにわかった。現代生活に必要不可欠と化したコンビニがことごとく閉店し、その周辺で深夜や早朝に展開される限られた人通りすらも途絶え、車の往来もほとんどなく、生活音が消えていたのだ。ゴーストタウン化した政令指定都市なぞ想像もしていなかった。

     それでも私は歩くしかなかった。目指す長町駅までは、バスの降車地点から直線でも4km。亘理町への始発バスは3時間後だ。暗がりの仙台市中心部のアーケード街・中央通りに入った瞬間、目の前に横断幕が掲げられていた。
    「私たちは負けない」
     これを見た瞬間、私はまだ被災現場も見ていないのに涙が止まらなくなった。いろいろな捉え方があるだろう。だが、私は「叫び」だと思った。未曾有の被災に巻き込まれた白河以北の。
     だが、ここで泣いている訳にいかないと言い聞かせ、袖口で目頭を拭いながら、歩き出した。長町駅への道すがらには、母校の中学校がある。懐かしいが人気のない、学区内の小道をひたすら南に進んだ。

     あるお寺の傍には、今は音信不通となった中学時代の親友宅があった。塀越しに覗いてみたが廃墟のような静けさ。状況が落ち着いたらまた訪ねてみようと考え、歩きだした。
     長町駅近くの広瀬川にかかる橋を渡って、そのまま前方に進もうとする視界の片隅に違和感を感じた。高架橋の駅も何もないところに新幹線の車両が静止していた。地震の揺れで緊急停止したのだろうが、乗客はこのあとどうしたのだろう。
     ようやく長町駅が見えると、さすがに極度の空腹を感じた。周囲に空いている店はない。自動販売機もほぼ全て「売切」の赤いランプが灯っているか、電源が入っていないかだ。持っていたタバコの箱も中はあと2本。

     長町駅前広場の片隅で繁華街方向を眺めていると、ある方向から割り箸の袋をのせた弁当らしきものを持って歩いている人が見えた。店内を3分の1ほどにパーテーションし、弁当3種類とペットボトルの緑茶1種類、わずかな日用雑貨を販売するセブンイレブンが営業していた。
     中華丼とお茶を手にしてレジに行くと、タバコの陳列ボックスに私が吸っているケント・ウルトラメンソール100Sだけが1箱残っていた。躊躇しながら指差すと、店員は特に表情も変えず、タバコをとってレジのバーコードリーダを当てた。恐る恐る私は尋ねた。
    「あのー、Edy払いできますか?」
     ポイントマニアの私は、コンビニなどではEdy払いし、そこで得られる全日空のマイルを貯めている。
    「ええ、大丈夫ですよ」
     被災地の機能不全状態のコンビニの店内におサイフケータイのEdyの「シャリーン」という精算音が鳴り響く。
     だが、ここはやはり被災地。レジ袋はなく、私は買ったもの全てを両手で抱えて店を出た。長町駅広場で中華丼を平らげ、お茶を一気飲みすると、バスが来るまでの間、ひたすらタバコを吸い続けた。

     亘理行のマイクロバスはほぼ満席だったが、狭い空間にひしめき合っているのに、乗客同士は不自然なほど会話を交わさない。
     国道4号線を中心に走るバスの車窓からはテレビでさんざん魅せられたあの津波被災らしい光景はない。バス路線の道路は海岸から5km以上は離れているのだから当然だろう。ただ、名取市内に入った時、路上にサラサラとした砂がうっすらとかぶっている様子だけが目に入った。
     故郷の亘理町と隣接する岩沼市との境界にある阿武隈川の橋を渡った時も河口方向を凝視したが、何もない。

    ■半年前に見た光景とはまったく違う荒浜の漁港

     徐々に懐かしい風景が次々に目に飛び込んでくる。あそこは××の家だ、ここは○○のおばちゃんの家、まるで数を数えるかのように車窓の風景と自分の記憶を重ねていくうちに、バスは亘理駅前に到着した。バス乗り場から実家が見えた。
     保冷剤とともにソーセージとベーコンを満載したバックを手に静まり返った実家に向かって走った。玄関を開けるとドアにつけた鈴がカランコロンと懐かしい音を立てた。
     2階から足音が聞こえ、両親が顔を出した。
     「あー、帰ってきたんだね」
     私はソーセージとベーコンが入ったバックを差し出した。ベーコンはローソン100で買い占めた安物だ。
     だが、そのパックの1つを取るなり、母は黙って涙を流した。税込たった105円のベーコンを見てだ。齢70半ばにさしかかろうという母はこの2週間、どれだけひもじい思いをしたのだろう。母は「近所のみんなにも配るね」と涙を拭いながら笑った。父は終始黙っていた。

     リビングで母がいれてくれた緑茶を飲みながら、地震発生時の話を聞かされた。あの時、父は自宅の店におり、母は町の観光案内ボランティアの研修として、町役場の職員とともに亘理伊達家の居城だった亘理城址にある亘理神社にいた。その時、あの震度6の揺れを経験した。
     立っていられないほどの揺れに母と役場職員は神社の参道に伏せた。揺れで周囲にある石灯籠が倒れ、母のそばには石片が飛んできた。目前に見える桜の木の根がむくむくと動き、今にも倒れんばかりだったという。母は母なりに九死に一生を得ていたのだ。
     2人とも自宅周囲のことしか知らない。それ以上は動きようもなく、東京にいた私も亘理の様子はほとんど知る由もなかった。
      全国ネットのニュースは、宮城県の場合、甚大な被害を受けた仙台以北の石巻市や南三陸町、気仙沼市の情報が中心で、そこから南下すると、仙台以南から福島 県最北端の新地町あたりまではほとんど情報がなく、その後は福島第一原発に近い相馬市、南相馬市の状況が中心となる。まさに亘理町周辺は情報の空白地帯 だった。
     メディア業界の片隅にいる自分には、そうした現状はある意味よくわかった。より絵になる場所をメディアは求めるのだ。

     さてガソリン不足も伝えられている海側までは自転車で行こうかと考えていた時、父がおもむろに口を開いた。
    「行くか?」
     父の車のガソリンはほぼ満タンのままだという。これには訳があった。
     父はちょうど地震発生直前、ガソリンスタンドで給油したばかりだった。地震発生後、停電・断水だったことは前述のとおりだ。両親は断水中だった1週間以上の間、入浴は近所の人が用意した風呂に入れてもらったのが1回だけだ。実家の風呂は電気式だった。
      だが、風呂に入る方法はあった。実家から2km弱のところに姉夫婦用の家があり、そこの風呂釜は石油式で、その石油もタンクには満載。給水車で得られる水 を車でピストン輸送し、浴槽を満たせば、沸かし直しも含め1週間程度は入浴可能だ。震災後、雪も降る寒さだったため、さすがに徒歩でそこまで移動するのは きつかったが、発災当時ガソリン満タンの父の車ならば移動も問題はない。
     実際、母もそう考えたらしいが、父が拒否した。
    「あいつ(私)が戻ってきた時、絶対に取材に出かけるはずだ。その時、ガソリンがなかったらどうする?」
     どこまで子供のことを考えているんだか、嬉しいやら呆れるやら。

     その後、これから世話になるであろう近所にすむ町の顔役に挨拶したあと、父の車で荒浜地区に通じる一本道を走った。最初はいつもの光景だったが、海から2kmほどの地点に差し掛かったとき。父が「うーん」と唸った。前方を見た私も「何だありゃ」と叫んだ。
     釣り船程度の小舟が道路脇に転がっていたのだ。そこから先は横転してぐしゃぐしゃになった車、流木、木からぶら下がった布団、そして道路脇には積み上がったがれきの山。不謹慎な言い方をすれば、ウルトラマンに登場する怪獣が暴れまわった後のようですらあった。

     荒浜地区の中心とも言える漁港周辺はさらに数多くの漁船が陸上に打ち上げられ、道路の片側にはがれきの壁ができていた。
      漁港の一角に車を止め、私はカメラを手に周辺を歩き始めた。実はこの間、私は一枚も写真を撮っていなかった。まずは現状を認識しようと努めていたのだが、 津波の被害だとは頭で分かっていても、それが現実の様相と素直に結びつかない。結局、今まで津波被害の現場というものを見たことがないということに尽きる のだろうが、目の前の光景は放り投げてバラバラになったジグソーパズルの如きだった。
     それでも半年前に娘と焼き魚を買った店の前にたどり着き、基礎以外何も残っていないことなどを確認していきながら、前へ進んでいった。
     漁港のすぐ脇のだだっ広い敷地のがれきの山の前に立ったとき、突然、針か止まった壁掛時計が目に入り、ようやくシャッターを切ることができた。

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    ■白河以北の一山としての意地

     初めて荒浜で津波被害を目の当たりにしてから現在まで1年半以上が経過しているが、あの日以降、私は未だ定期的に被災地へと通っている。青森県沿岸部から千葉県まで津波被害の場所をほとんどめぐり、北海道の津波被災地である厚岸町や釧路市、函館市にも足を伸ばした。
     内陸の被災地である福島県の須賀川市、白河市、栃木県の那須烏山市も訪れて、原発震災の警戒区域内も何度か立ち入っている。

     正直に言えば、荒浜に初めて足を踏み入れたときですら、そう遠くないうちにこの取材には区切りがつくだろうとも思っていた。この辺はメディア業界に身を置く性でもある。
      1つのニュースにこだわり続けたら、次のニュースは追えない。一般の読者・視聴者からメディア関係者に向けられる継続取材のない「尻切れトンボ」という批 判もある意味では次なるニュースにエネルギーを注ぐメディアの長所でもあるとすら思っている。だから今でも被災地に通い続ける自分の行動が何となく自分自 身でも理解不能なのだ。
     既に震災報道が我々フリーの主要な活動の場である週刊誌メディアなどでは過去のものになりつつあるいま、金のためならば、とっくに辞めている。

      では名誉のためか? そんなことは金以上にない。今回の震災取材で私は国際ジャーナリスト連盟(IFJ)東京事務所が主催する「IFJ JAPAN  AWARD」の東日本震災部門奨励賞を受賞した。以後経歴には記載するだろうし、頂いていてこんなことを言うのは恐縮だが、世間的にそれほど価値のある賞 ではない。ほんの一瞬、自分を鼓舞するのに役立ったくらい。頂いた賞金5万円もこれまで不義理をしながら支えてくれた妻子と外食するのに使い、5人の福沢 諭吉は食べ物から排泄物に変わり、既に体内にも残っていない。
     誰かに義理を立てるためでもない。義理は一瞬ならば成り立つかもしれないが、そもそもフリーランスという立場に身を置く以上、組織への義理は捨てており、行動原理の中核たり得ない。

     残るのは何か。あるとするならば、白河以北の一山としての意地ぐらい。
     故郷を捨てたとは書いたが、所詮私も今まで根底に眠っていた出自の柵から抜け出せずに今に至っているのかもしれない。
      ただ、今回新たに得たと思っているものもある。手垢のついた「絆」という言葉は、私にとっては少なからず現実のものとなっている。そもそもこれまで続いて いる震災取材の半分以上は肉親ながら子供の頃からなんとなくそりが合わないと思っていた父との二人三脚の賜物でもある。車の運転ができない私のそばにはい つも運転主役を務めてくれた父がいた。

     そしてもう1つの「絆」は、まさにこの「石のスープ」のレギュラーメンバーである渋井哲也さんと渡部真さんである。
     渋井さんとは10年来の面識がある。震災当初、私より一足先に宮城県入りした渋井さんは、私より一足先に父に接触し、亘理町入りした。そしてその後も頻繁に連絡を取りあった。
     彼があるとき電話で「まだ大手がやれてないことがたくさんある。だから、フリーはフリーで出来ることを一緒にやろう」と声をかけてくれた。
     投げやりで気のないように聞こえる口調と独特の理詰め攻勢、さらにどこに行こうが夜の街に繰り出し、そこで出会う夜の世界の女性を口説いているのかいじめているのかわからないトークも、私には心地よい。
      そして渡部さんは、やはり渋井さんの亘理入りの際ともに行動しており、今回の震災で初めて面識を得た。本人は編集者でジャーナリストでも記者でもないとよ く謙遜するが、その取材力や筆力には圧倒されることが少なくなかった。私の周囲では人一倍生真面目で曲がったことが嫌いな性格なのか、時には驚くほど過激 に人と衝突するところは、見る人にとっては驚愕かもしれないが、私が最も評価している部分だ。
     勝手ながら私はこの2人を同志と思っているし、今回「石のスープ」再編に当たり、私をメンバーに加えてくれたことにも感謝している。
      また、石のスープのメンバーではないが、震災取材をきっかけにやはり面識を得たフリーライターの畠山理仁さんも不思議な人だ。時に自虐的でのらりくらりと どこかつかみどころのない彼はまるで「うなぎ」のようですらある。ところがここが「憎めない質」という彼のキャラクターの核でもある。そしてそのキャラク ターがゆえに、彼が取材対象に粘り強く長期間接することを可能にしているのだと思っている。

    *  *  *  *  *  *


     やや表現がすぎるところもあったかもしれないが、お三方にはお許し願いたい。いずれも私には見習うべきところが大いにあるからあえて言及させていただいたまでだ。
     その意味ではくどいようだが、白河以北の百文の一山である私ももう少し意地を通そうと思っている。その意地がもう少し形になれば、もしかしたらO校長先生との約定である白河以西への進軍と同じ意味を持つかもしれない。

    (「故郷捨て、故郷に帰る〜はじめましてのご挨拶」 了)



    ■質問募集中!!

    「石のスープ」では、読者の皆さんからの質問を募集しています。電子メールで、「●●さんに質問!」と件名に書いて送ってください。いただいた質問の回答は、「石のスープ」の中で発表します。
    また、「東北のこの場所が、どうなっているか教えてほしい」「今度の取材先で、●●というお店を通ったら、ぜひグルメレポートを!」なんてご要望もお待ちしています。

    東日本大震災と関係ない質問でもどうぞ。本人には直接聞けない内容だとしても、編集部が質問をしてくれるかも知れません。できるだけ質問には答えていきたいと思いますので、どうぞご遠慮なく!

    電子メールの送り先は、「石のスープ」編集部宛に
    sdp.snmw@gmail.com



    ■東電福島第一原発、取材レポ!
    「週刊 アサヒ芸能」

    発行元:徳間書店
    定 価:390円
    http://www.asagei.com/

    渡部真が取材した、東京電力福島第一原発の取材レポートが、10月30日(火)に発売の「週刊 アサヒ芸能」に掲載されます。写真は同行した尾崎孝史さんが提供してくれました。よろしくお願いします。



    ■渋井哲也のweb連載
    「ジョルダンニュース」渋井哲也、被災地の「記憶」(第8回)
    見えにくい被災者の生活問題

    発行元:徳間書店
    定 価:390円
    http://news.jorudan.co.jp/mb.cgi?action=2&id=JD1351214515321

    渋井哲也が連載している「ジョルダンニュース」。10月26日に最新記事が配信されました。被災地の復興にとって重要な鍵となる「移転問題」を取り上げています。



    ■まだまだよろしくお願いします!
    風化する光と影
    〜“メディアから消えつつある震災”の中間報告

    著 者:渋井哲也 村上和巳 渡部真
    発行元:E-Lock P.
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    渋井哲也、渡部真と、ジャーナリストの村上和巳さんの3人が、これまで東日本大震災で未だに記事に出来なかった様々なルポを約35篇書き下ろしました!
    ま だ終わっていない震災のなかでの暮らし、それでも明日への歩みが進んでいる。あの時、誰もが見つめた現実を、もう一度、しっかりと受け止めるために、災害 の検証、原発問題、生活のなかで起きている問題、学校で暮らす子ども達、未来に向けた復興について、などのテーマに分けて構成されています。
    メル マガ仲間の三宅勝久、「ときどき登場」の寺家将太さん、ジャーナリストの長岡義幸さん、記者会見ゲリラの畠山理仁さん、ジャーナリストの粥川準二さんも、 寄稿してくました。友人の編集者が、僕らが儲かりもしないのに取材を続けてきたことに支援してくれ、まさに赤字覚悟で頑張って発行してくれました。何とぞ 宜しくお願いします。



    村上和巳 むらかみ・かずみ
    1969 年、宮城県生まれ。医療専門紙記者を経てフリージャーナリストに。イラク戦争などの現地取材を中心に国際紛争、安全保障問題を専門としているほか、医療・ 科学技術分野の取材・執筆も取り組む。著書に「化学兵器の全貌」(三修社)、「大地震で壊れる町、壊れない町」(宝島社)、「戦友が死体となる瞬間−戦場 ジャーナリスト達が見た紛争地」(三修社/共著)など多数。
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