週刊 石のスープ
定期号[2011年10月6日号/通巻No.5]

今号の執筆担当:渋井哲也

連載コラム【“一歩前”でも届かない】vol.1

“おっぴさん”ってなあに? 〜100日目を超えた震災取材のこぼれ話

※この記事は、2011年10月に「まぐまぐ」で配信されたものを、「ニコニコ・チャンネル」用に再配信したものです。




■毎月11日になると……

 3月11日の東日本大震災と翌12日の長野県栄村大震災。現地に入っての取材が、9月で100日を超えました。自分でも「よくそんなに行ったものだ」と思う今日このごろです。
 いろんな人にも「そんなに行っているフリーランスはいない」「フリーランスで一番行っているのは渋井さんです」と言われるようになりました。しかし、「一番行っている」=「一番儲かっている」という構図は成立せず、逆に、経費ばかりがかさんでいるのが現実です。

  どうすれば経費を捻出できるかを考えている今日のこごろです。一つの案としては、カンパを募集するというのもありますが、今のところ、その予定はありませ ん。別の案としては、これまで集めた写真や動画の一部を販売するというものです。実現可能となったら、お知らせいたします。

 さて、9月 は震災から半年でした。いわゆる●日目とか、○カ月といった節目には、いろんな人がいろんな思いで現場を訪れています。4月11には岩手県釜石市に行きま した。このとき、200人以上が亡くなった鵜住居の防災センターの隣で美容室を営んでいた女性の話を聞きました。
 この女性と初めて会ったのは4月1日。そのときは、近くでそんなに多くの人が亡くなったことを知りませんでした。女性が何かを探している姿を見て、声をかけたのです。
 しかし、ピリピリしており、話ができなかったことを覚えています。その後、改めて11日に釜石を訪れ、この女性に連絡をして、当時の話や美容室の再建について話を聞いたのでした。

  6月は3か月目です。このときは福島県南相馬市に行きました。福島県は、東京電力・福島第一原発の事故で、福島の災害=原発の災害、というイメージが強い ことでしょう。しかし、福島県も、青森県や岩手県、宮城県、茨城県、千葉県とともに津波の被害が甚大な県です。3か月の追悼式が南相馬市の神社で行われて いました。地域の人が集まってきていましたが。
 その中に、若夫婦がいました。私はこの若夫婦の話を聞きたい。そう思いました。多くのメディアも 取材に来ており、同じように若夫婦に近寄って行きました。「誰に話を聞きたいのか?」というのは、みんな考えるのは似ているものです。この時の話は、 「Business Media 誠」で連載中の「東日本大震災:被災地を歩く」で書いています。

※参照URL
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1107/02/news007.html


 そして9月の半年目。この日は宮城県女川町や石巻市を回っていました。半年ともなれば、いろんな「スポット」には数々の人が訪れていました。女川町の市街地を一望できる高台の「女川町立病院」には、日本テレビのクルーが来ていました。またボランティアの人たちも数多く来ており、目に焼き付けたり、写真を撮っていました。その中に、ある親子を見つけました。

 男性は石巻市在住の教師で、震災当時は、仕事仲間を心配して、自転車で女川へ来たそうです。その後も何度か女川を訪れているそうですが、半年目ということもあり、「息子にもこの風景を見せたい」と思ったのです。男性の息子さんはまだ小学生の低学年。男性の周辺ではしゃいでいました。子どもなりに何かを感じているようでした。追悼のためにお坊さんが読経を始めると、さきほどまではしゃいでいた息子さんと一緒に、市街地に向かって手を合わせ黙祷をしていました。